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24杯目『スカーレット・オハラ』

 深紅のドレスに黒く長いウェーブのかかった髪。切れ長の目と端正に整った顔立ち。ドレスには大胆なスリットが入り、艶やかな脚が妖しく覗いている。その女性は、見る者を魅了するほどの美しさを持っていた。

 カウンターに座る彼女は、まるでそこに薔薇の花が飾られているかのように華やかで豪奢だった。その場に居た客たちは男女問わず、皆が彼女に見惚れていた。彼女の美しさは、ただ存在するだけで空間を支配するほどの力を持っていた。だが、店内には彼女のことを知る者はいなかった。ただ一人を除いて。


 サクラは彼女を見つめながら、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。その仕草を見ていたバーテンダーは、いつもの好奇心に負けるサクラの悪い癖が出ているな、と心の中で苦笑していた。そして、ついにサクラはその女性へと声を掛けてしまった。


「あ、あの! お客様はヴィヴィア・ウォーカーさん……ですよね?」


 突然のサクラの発言に、女性……ヴィヴィアは驚いた表情を浮かべた。


「え……ええ、そうよ。あなた、よく知ってたわね? こんな場末の酒場で知っている人がいるなんて驚きだわ」

「はい! 何度か劇場でお姿を拝見しました!」


 ヴィヴィアは意外そうな顔でサクラをじっと見つめた。その視線には、驚きと興味が入り混じっている。


「そう……。あなた、もしかして貴族か何かなのかしら?」

「あ、申し遅れました。ドーバー伯爵の娘、サクライナ・ドーバーでございます」


 サクラはスカートの裾を軽く持ち上げ、優雅に会釈をした。その動作は、さすが貴族の教育を受けた者らしい洗練された美しさを感じさせるものだった。


「え、ああ……これは失礼しました。ご存知の通り、私は舞台女優のヴィヴィア・ウォーカーです。でも、どうして貴族の娘さんがこんな酒場で給仕なんかを……?」

「あ、敬語でなくても大丈夫ですよ! 今の私は伯爵令嬢でもなく、ただのサクラなんです。バーテンダー見習いのサクラです!」

「……? え、えと、じゃあサクラ……? で、いいのかしら?」

「はい! サクラです!」


 胸を張り、自信満々に答えるサクラ。その様子に、バーテンダーは思わず咳払いをひとつして注意を促した。


「それで……? そのサクラは私に何の用かしら?」

「あ、いえ……ヴィヴィアさんみたいな女優さんがこちらに来られるなんて、とても珍しいなぁと思って」

「……そうね。私も普段ならこういうところには来ないわ」


 ヴィヴィアはそう言うと、ふと物憂げな表情を浮かべ、カウンターに視線を落とした。その様子に、サクラは思わず心配そうな顔を向ける。


「あの……何かあったんですか?」


 柔らかな声でサクラが尋ねると、ヴィヴィアは一瞬だけ戸惑うように目を細めたが、やがて口を開いた。


「あなた……まだ若いから、こんなことは考えたことないかもしれないけれど……将来のことを心配したりしない?」

「将来……ですか?」


 サクラは首をかしげながら、その言葉の意味を図ろうとしていた。


「私はもう若くはないわ。それでも、まだ女優を続けられる。でも、いずれは年を取り、美しさも保てなくなる日が来るわ。そうなったら……女優を続けることができない。役者以外に、私にはできることがないのよ。それが……とても怖いの」


 ヴィヴィアは、その美貌に似合わない儚げな声で語った。彼女はとても美しい女性だ。正確な年齢はわからないが、三十代前半、いや二十代後半だと言われても納得されるだろう。だが、どれほど美しい彼女でも、人である以上、老いという運命には抗えない。ヴィヴィアが恐怖を抱いているのは、美しさを失うことそのものではない。それによって女優としての人生が途絶え、舞台に立ち続けることができなくなる未来だ。それを生きがいに、人生の全てを捧げてきた彼女にとって、その生きがいを突然奪われることがどれほど恐ろしいことか。彼女自身でさえ、答えを見つけられていない。


「で、でも! 役者さんなら、色々な役があるじゃないですか! 主役じゃなくても、脇役だったり、年齢に合わせた役っていうのもきっと……」


 サクラが必死に取り繕うように口を開く。しかし、その言葉にヴィヴィアはひとつ深いため息をついた。


「引き立て役というのもね、簡単にできるものではないのよ。主役とは異なる経験や技術が必要になるの。そんなに簡単に転向できるものじゃないの」

「そ、そうなんですか……」


 サクラの声は小さくなり、それでもなんとか別の提案を絞り出すように続けた。


「じゃあ……結婚して家庭に入るとかはどうですか? この前、結婚式がありまして、すごく素敵だったんです!」

「論外ね。そもそも、相手がいないわ」


 ヴィヴィアは冷たく言い切ったが、その口元には自嘲するような笑みが一瞬だけ浮かんでいた。


 サクラはヴィヴィアにかける言葉を探していたが、そう言われてはもう黙るしかなかった。別の仕事を探してみるという提案もあるが、おそらくそれも現実的には難しいだろう。こうなれば取るべき手段はただひとつ。自分ではなく、頼れる相手に助けを求めることだ。


「マスター……なんとかなりませんかね?」


 サクラは困ったように目を少し潤ませ、上目遣いでバーテンダーを見つめた。その視線には一抹の期待と甘えが滲んでいる。それを横目で見たバーテンダーは、深いため息をついた。最近のサクラは何か困ったことがあると、全てバーテンダーに頼る癖がついているようだ。いくらお客様のためといっても、いつかはちゃんと叱りつける必要があると彼は考え始めていた。

 とはいえ、まずはお客様だ。不安に寄り添い、心の負担を軽くしてこそ、バーテンダーとしての仕事が成り立つ。そう、バーテンダーの『テンダー(tender)』には優しさや思いやりという意味が込められているのだから。


「お客様。ぜひお試し頂きたいお酒がございます。今のお悩みを少しでも解決する手助けになるかと思います」

「あら、そんなお酒があるの? まあ、あまり期待はしないけれど、いただけるかしら?」

「承りました。少々お待ち下さいませ」


 バーテンダーは軽く会釈し、いつものように静かに準備を始めた。彼が取り出したのはフルーツフレーバーリキュールサザン・カンフォート蔓苔桃の果実飲料クランベリー・ジュース、そして黄色い果実飲料レモン・ジュース。これらの材料を氷が詰まった銀色の筒シェーカーに一つ一つ丁寧に注ぎ入れ、リズム良く振り混ぜるシェーク


シャカシャカシャカシャカ……


 静寂の中に響く、氷と銀色の筒シェーカーがぶつかる規則正しい音。その音と手に伝わる感触を頼りに、バーテンダーは材料が十分に混ざり合っているか、冷却が適切に行われているか、氷が溶け過ぎていないかを判断する。直接中身を確認することなく、すべてを感覚で把握するのがプロとしての技術だ。


 彼は逆三角形のグラスカクテル・グラスを用意し、カクテルを静かに注ぎ込む。その液体は鮮やかな赤をしており、情熱を思わせるような美しい輝きを放っている。その赤はまるでヴィヴィアの深紅のドレスを映し出したかのようだった。


「お待たせ致しました。『スカーレット・オハラ』でございます。どうぞ、お試しください」


 差し出されたカクテルの美しさに目を奪われたヴィヴィアは、期待とほんのりした熱を込めて息を静かに吐き出した。そしてそっとグラスを持ち上げ、一口含む。

 口に触れた瞬間、まず際立ったのはそのフルーティーな香りと味わいだった。フルーツフレーバーリキュールサザン・カンフォートが生み出す濃厚な果実の甘み。続いて、蔓苔桃の果実飲料クランベリー・ジュース黄色い果実飲料レモン・ジュースの甘酸っぱさが程よいバランスで広がり、口の中に複雑で奥深いハーモニーを奏でる。甘味と酸味が見事に調和したその味わいは、鮮烈ながらも優雅な印象を与えていた。


「美味しいわね……甘味と酸味の二面性、まるで女優のようなお酒だわ」


 ヴィヴィアは静かに微笑みながらグラスを揺らし、その鮮やかな赤を再び見つめた。その目はどこか遠くを見ているかのようで、カクテルが生み出す味わい以上に、何か深い感慨に触れているようにも見えた。


「はい、その通りでございます。『スカーレット・オハラ』とは、とある物語の主人公の名前です。彼女は大きな農園主の娘として生まれ、貴族同然の裕福な暮らしを送っていました。しかし、やがて戦争の戦火に巻き込まれ、波乱万丈の運命へと足を踏み入れることになります。何一つ不自由しなかったお嬢様の境遇から、明日の糧にも困るような貧困へと叩き落されてしまう……。それでも彼女は諦めることなく、何度でもやり直す決意をするのです」


 ヴィヴィアはその言葉を受け、そっとグラスをカウンターに置いた。その瞳には疑問とわずかな興味が宿っているように見える。


「なるほどね。それで、私に人生を諦めるなと言いたいのかしら? どんな境遇に落とされてもやり直せと?」


 ヴィヴィアの問いかけに、バーテンダーは静かに首を横に振りながら答えた。


「いいえ、少し違います。人生の大きな転機は二つあると言われています。ひとつは何かを得た時、もうひとつは何かを失った時。例えば、お客様の場合、女優というお仕事を失った時。そうした瞬間にこそ、人生は大きく変化することでしょう。しかし、変化というものは、土壇場で追い詰められ、逃げ場を失って初めて嫌々ながら選択せざるを得なくなるものです。だからこそ、血反吐が出るほど苦しい。苦しみを通らなければ、何も変わらないのです。何も……」


 言葉が静寂を切り裂いた後、バーテンダーはグラスを手に取り、慎重にその表面を磨き始めた。その動作は、周囲に漂う僅かな緊張を和らげていた。


「『スカーレット・オハラ』も人生で何度も大切なものを失いました。結婚した夫、優しかった母親、そして廃人となってしまった父親、生まれ育った家。そして何より、彼女を愛してくれた最愛の人も……。彼女の人生は数多の苦しい選択に満ちていました。時には、その選択が間違いだったこともあったでしょう。けれども彼女は、何度打ちひしがれようとも顔を上げ、前を向きました。そんな彼女の口癖が、『明日は明日の風が吹く』『明日に望みを託そう』だったのです」


 ヴィヴィアはそっとグラスを指でなぞりながら、考え込むように眉をひそめた。そしてぽつりと口を開いた。


「……少々楽観的すぎるのではないかしら。明日が今より良くなるとは限らないでしょう?」


 バーテンダーはにこりと微笑み、その言葉を静かに受け止めた。


「その通りです。それでも彼女は明日を信じました。少しでもより良い明日が訪れるようにと。時には、何も考えずにただ明日を信じてみるのも良いのではないでしょうか。どのみち人というものは、土壇場で追い詰められないと選択することはできないものですからね」


 ヴィヴィアはグラスの残りを煽る。口に広がる酸味が、先程よりも強く染み渡るように感じられた。それは彼女の心の奥底にある感情に触れるものだったのかもしれない。


「そうね……その時になってみないとわからないものもあるかもしれないわね。苦しんで悩んで……ただ、『明日に望みを託してみる』。そんな考え方も悪くないかもしれないわ」


 ヴィヴィアは静かに空になったグラスをカウンターに置いた。そのグラスは、まるで先の見えない未来を象徴しているかのようだった。次に何が注がれるのか。それを期待しながら待つのも、決して悪いことではない。


「ありがとう。少し救われたような気がするわ。あなた、お節介だってよく人に言われるんじゃない?」


 ヴィヴィアの問いに、バーテンダーは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次いで苦笑いを浮かべながら答えた。


「ええ、よく言われます。これもバーテンダーの職業病なのかもしれませんね」


 その言葉にヴィヴィアも、そしてサクラも自然と微笑みを浮かべた。三人の間に流れる穏やかな空気は、ほんのひと時だけでもヴィヴィアの心を軽くしたようだった。


 そして、そんな光景を少し離れた席から見つめていた青年が一人……。




 人生に苦しんだ時、是非バーへとお立ち寄りください。自分の心に問い掛ける時間を見つけ出せるでしょう。もしかしたら、お節介なバーテンダーが相談に乗ってくれるかもしれません。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『スカーレット・オハラ』

サザン・カンフォート 30ml

クランベリー・ジュース 20ml

レモン・ジュース 10ml


シェーカーにすべての材料と氷を入れシェークし、

カクテル・グラスに注ぐ。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋



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