「サクライナ様! 勝負ですわ!」
カウンターの前に仁王立ちし、勢いよく指を突きつけるその女性。光り輝く金髪、大きな二つの縦ロール。白いドレスを優雅に纏い、その堂々たる姿は、まるで絵に描いたような貴族令嬢そのものだった。
彼女の名はシェリー・オクシデンタル。オクシデンタル伯爵家のご令嬢である。オクシデンタル領はドーバー伯爵領の西方に位置し、古くから深い親交を持つ間柄だった。ゆえに、ドーバー伯爵家の令嬢サクライナとシェリーもまた、幼い頃から幾度となく顔を合わせてきた。
年齢も同じであり、さぞかし気品ある親交が紡がれているかと思いきや……実際は、そうではなかった。シェリーは一方的にサクライナをライバル視し、事あるごとに勝負を挑んできていたのだ。
そもそも、その因縁のきっかけすらもはや忘れ去られている。しかし、数えきれぬほどの勝負が繰り返され、そのほとんどはサクライナの勝利に終わっている。別に彼女が特段優秀なわけではない。ただ、シェリーがあまりにも不出来すぎるのだ。そのためほとんどの勝負が彼女の自滅で終わっていた。
だが、負けるたびに燃え上がる気概は、決して折れることがない。今日こそはと、シェリーは眩しいほどの情熱を携え、カウンター越しにサクラを見据えるのだった。
そんな彼女が、どこから聞きつけたのか、遠方よりはるばる『
「えと、シェリー様? 今はその、仕事中ですので……」
「逃げるんですの!」
サクラがやんわりと断ろうとしているのを気にも留めず、シェリーはじっとサクラの目を見つめ続けた。その瞳には冗談めいた色は一切なく、真剣そのものだった。
困った顔のサクラは、そっとバーテンダーの方へ助けを求めるように視線を向けた。
店主であるバーテンダーは状況を完全には把握していない様子だったが、それでも静かに微笑みながらシェリーに応対する。
「お客様、サクラは当店の従業員でして、今はまだ営業中でございます。申し訳ございませんが、そのようなことは営業時間外のプライベートなお時間でお願いできますでしょうか」
やんわりとした口調ではあったが、バーテンダーの言葉は明確な線引きを示していた。しかし、それを聞いたシェリーはキリっと厳しい目を向け、ふっと鼻で笑うと、堂々とカウンターの席へ腰を下ろす。
「なら、わたくしは客ですわ。それならば文句はありませんわよね?」
バーテンダーは思わず苦笑するしかなかった。確かに客として迎え入れることに異論はないが、彼女の本来の目的を考えれば、穏やかに過ごせるかどうかは甚だ疑問である。
サクラはひそかにため息をつきながら、バーテンダーと視線を交わす。どうやら、この夜はひときわ騒がしくなりそうだった。
「では、あらためまして……サクライナ様、勝負ですわ!」
堂々と宣言し、シェリーは優雅に周囲へと視線を巡らせる。カウンターの奥、並ぶ酒瓶、静かに流れる店の空気、すべてをじっくりと確かめるように。
「聞けばここは、お酒を提供されるお店らしいですわね」
その目が、ひどく挑戦的な輝きを宿す。
「でしたら、わたくしが美味しいと思えるお酒を、ここでいただきますわ」
サクラを試すように、シェリーは微笑む。その唇には淡い挑発の色が滲む。
「ただし、高貴なるわたくしに相応しい、華やかで、煌びやかで、美しいお酒を所望いたしますわ。在り来たりなものでは納得いたしませんことよ?」
カウンターに手を添え、上品に微笑みながらも、その目は強気に輝いている。まるで、この場に存在するすべてを支配するかのような気配を纏って。
シェリーが客として席に座っている以上、客の要望に応えるのがバーテンダーの務めである。しかし、さすがのサクラも困り果てていた。
何せ彼女はまだ修行中の身。華やかで煌びやかな一杯を作れと言われても、そんな大それたカクテルは作れないし、そもそも作らせてももらえない。師匠であるバーテンダーが、練習もしていないものを客に提供するほど甘い人間ではないことは、誰よりもサクラ自身が理解している。
バーテンダーは、そんなサクラの心情を汲み取りながらも、いつものように柔らかな微笑みを浮かべ、シェリーへと告げた。
「申し訳ございません。サクラはまだ新人のため、お客様に満足のいくサービスを提供することは難しいかと存じます。ですが、代わりと言っては何ですが、本日は私がお客様のご要望に沿った一杯をお作りしたく思います。如何でしょうか?」
シェリーは怪訝な表情を浮かべ、バーテンダーを鋭く睨みつけた。
「それでは何の意味もありませんわ。わたくしはサクライナ様と勝負をしたいのですもの。平民が出しゃばらないでくださいまし」
しかし、バーテンダーも引き下がらない。
「ですが、私共もプロでございます。お客様の笑顔と、満足していただくことこそが至上の喜び。喜んでいただけないことがわかりきっているのに、サービスを提供するわけには参りません。勝負は……サクラがもう少し成長してからではいけませんでしょうか?」
シェリーは心の中で、これは不戦勝だと確信する。相手は自らの技術の未熟さを認め、失敗するとわかっているから酒を出せないと言っている。それは、言い換えれば敗北を受け入れたも同じこと。いつもは負け続けのシェリーも、この時ばかりは上機嫌だった。
「そこまで言うならば、しかたありませんわね。今日のところは貴方に免じて、許してさし上げますわ」
カウンターに指先を滑らせ、余裕の笑みを浮かべる。
「それで、わたくしの要望を貴方が叶えてくれるのだったわね?」
「はい。すぐにご用意致しますので少々お待ちくださいませ」
バーテンダーは
カウンターには、
まず、
次に、銅製のマグカップのひとつには
「申し訳ありませんが、皆さま少し離れていただけますでしょうか」
バーテンダーの声は静かでありながらも、いつになく慎重な響きを帯びていた。
「大変危険ですので、どうか近づかぬようお願い致します」
バーテンダーはフロアの照明スイッチへと手を伸ばし、ゆっくりと指を押し込んだ。
……店内が闇に沈む。辺りが真っ暗になり、静寂に包まれる。
そこに、ぼうっと揺らめく赤い火。バーテンダーが手にした
バーテンダーはゆっくりとその炎を、銅製のマグカップの
次の瞬間、マグカップから激しく炎が湧き上がった。
ただの火ではない。それは何とも幻想的な『青色の炎』。炎でありながら、どこか冷たい気配すら宿している『青色の炎』。儚く、それでいて魅惑的な輝きを持った美しい炎。
シェリーも、サクラも、その青い炎に思わず目を丸くした。今までの人生で一度も目にしたことのない、不思議な色の火。その存在に言葉を失う。
バーテンダーは、青い炎が湧きたつマグカップと、熱湯の入ったマグカップをそれぞれの手に持った。そして、青い炎のマグカップを天高く掲げると、ゆっくりと熱湯の入ったマグカップへと中身を注ぎ始める。
その液体は、炎を纏いながら空中を流れ落ちる。
それはまるで青い炎の滝が、目の前に出現しているかのようだった。
上から下へと、青い輝きが絶え間なく注がれる。その流れはまるで、重力に従う青い光の奔流。炎でありながら、液体として流れ舞い降りる奇跡。炎が揺れ動くたびに、その青さは深まり、妖しく光を放つ。
上のマグカップが空になると、バーテンダーはすぐさま下側に持っていたマグカップを掲げ、再び空になったカップへと青い炎を流し込む。
再び生まれる、青い炎の滝。
暗い室内に輝く唯一の光。青い炎だけが、世界を幻想的な色に染め上げていた。まるで、不思議の国に迷い込んだかのような光景だった。
その光景に、シェリーは息をのんだ。青く美しい炎。妖しく揺れ動くその輝きに、ただただ魅せられていた。
気がつけば、頬が熱い。しかし、それは炎の熱さだけが原因ではなかった。胸の奥で高揚する鼓動。視線の先にあるのは、青い炎に照らされたバーテンダーの真剣な表情。静謐にして力強いその仕草。慎重にマグカップを持ち、流れる炎とともに杯を交わすその手の動き。
彼の姿にも、シェリーは心を奪われていた。
炎の演舞が繰り返されること七度。マグカップの中身が完全に移し替えられた瞬間、目の前に用意されていた
そして、バーテンダーが照明のスイッチを押す。
暗闇の中で青く燃え盛っていた炎は、優しい光の中で静かに落ち着きを取り戻し、ただ透き通った琥珀色だけがグラスの中に残されていた。
「お待たせ致しました。『ブルー・ブレイザー』でございます」
バーテンダーは静かにグラスを差し出す。その液体は淡い琥珀色に輝き、仄かに立ち上る湯気がその温かさを物語っていた。
「先ほどご覧いただいた通り、『青い炎』という名のカクテルです。どうぞ、お試しください」
シェリーはおそるおそるグラスを手に取る。滑らかな曲線をなすガラスの感触が、じんわりと指先へと熱を伝えてくる。唇を寄せ静かに口をつけた。
最初に広がるのは柑橘系の爽やかな酸味。その後に訪れるのは、蜂蜜のまろやかな甘さ。それらが絡み合い、アルコールの強さを柔らかく包み込んでいた。温かさが、すべての調和をさらに引き立てている。
だが、シェリーにはもはや味など、どうでもよかった。
ほのかな湯気に照らされたバーテンダーの横顔。その真剣な表情。先ほどまで炎の舞を操っていた、その美しく魅惑的な手元。
シェリーの頬は、いつの間にか熱を帯びていた。酒のせいだけではない。胸の奥に滲む、名もなき感情のせいだった。
「如何でございますか」
バーテンダーの穏やかな声が、まだ余韻の残る空間に静かに響いた。
「特別なお客様のために、煌びやかで派手な演出をさせていただきました。お気に召しましたら幸いでございます」
シェリーはグラスを握りしめたまま、バーテンダーの顔を見つめた。
「……っは、はい! と、とと、ととと……とても美しい光景でしたわ!」
言葉がまともに紡げない。自分でも驚くほど、声がうわずっていた。
『ブルー・ブレイザー』の幻想的な輝きに息をのんだから……いや、それだけではない。胸の奥で鳴り響く鼓動は、炎に魅せられた興奮だけではなく、もっと別の……彼の姿に惹きつけられたことによるもの。青い炎に照らされたバーテンダーの横顔。落ち着いた所作。静かに輝く瞳。
シェリーは気づいてしまった。
今、鼓動が高鳴っている理由を……。
サクラはそんなシェリーを見つめながら、何やら胸の内にざわつくものを感じていた。
……不愉快だ。
この感情がどこから生まれたのかはわからない。いつもなら、誰かに対してこうした感情を抱くことはほとんどない。ましてや、毛嫌いするほど強いものではないはずだった。なのに今、シェリーがバーテンダーを見つめるその瞳を見ていると、胸の奥が妙に落ち着かない。自分がこんな気持ちになることに、一番驚いているのは他ならぬサクラ自身だった。
「あ、あの……とても……素晴らしいお酒でしたわ。ありがとうございます」
頬を紅潮させながら、シェリーは素直に感謝の言葉を口にした。
バーテンダーは、ただ静かに微笑む。それ以上の言葉はなく、けれどその笑みだけで十分だった。
もはや勝負のことなど、シェリーの頭の中からは完全に消え去っていた。……というより、どうでもよくなっていた。彼女の心には、もう新しい目標が生まれていたのだから。
そのとき、バーの扉が開き、新たな客が店内へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ!」
いつもより刺々しく、不機嫌を隠しもせずサクラが声を張る。その様子に、バーテンダーも驚き、入ってきた客もまた思わず目を丸くするのであった。
荒々しい炎の中にも、美しさや荘厳さを感じることができます。そして、その揺らめきには何か心が落ち着くものがあります。時には炎を見つめながらお酒を傾けるのもよいことかもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『ブルー・ブレイザー』
スコッチ・ウイスキー 60ml
レモン・ジュース 10ml
蜂蜜 1tsp.
熱湯 60ml
ホットグラスにレモン・ジュース、蜂蜜、熱湯を加えよくステア。
銅マグカップの一方にウイスキーをもう一方に熱湯を入れ、点火する。
燃えているウイスキーをもう一方の銅マグカップに高い位置が注ぎ入れる。
空になったらもう一方の空のマグカップに注ぐ。
これを七回ほど繰り返し、ホットグラスに注ぎ入れる。