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31杯目『ゴッドファーザー』

 その日は雨が降っていた。


 長く降り続ける雨は、この日を象徴するかのように、静かに、寂しく、そして重く降り注いでいた。まるで天が悲しみ、その涙を大地へと零しているかのように。


 『Etoileエトワール』の店内は、いつにも増して静寂に包まれていた。集った人々は誰もが沈黙を守り、静かにグラスを傾ける。普段なら談笑が飛び交うはずのこの空間も、今夜ばかりはその賑わいをすっかり失っていた。


 いつもなら陽気に笑い、酒を煽る女戦士のマネアですら、この日だけは俯いている。その肩には、静かな夜の重みがのしかかっていた。


 それもそのはず……今日は葬儀があった。


 冒険者ギルドの要職を務めた男が亡くなったらしい。長年、数多の冒険者を見守り、支え続けた人物だったという。死因は病。彼の死は多くの者の心に深い影を落とした。

 彼は冒険者たちに親しまれ、『ドン』の名で呼ばれていた。彼の葬儀に参列した冒険者たちが、今夜の『Etoileエトワール』へと集まっていた。


「ドンにはとてもお世話になったんだよ。ほら、あたしってこんな性格だろ? レティリカに会う前は誰と組んでも長続きしなくてさ……」


 いつもの元気な陽気さは影を潜め、マネアは静かに口を開く。


「跳ねっ返りだったからさ、色々と迷惑かけて……。もう、一人でやってくしかないかなって思ってた時に、ドンがレティリカを紹介してくれたんだ」


 マネアがそっと視線を向ける。エルフの弓使いレティリカは、まだ心の整理がつかないのか、目に涙を溜めたまま動かない。


 すかさずサクラが温かい布おしぼりを差し出す。レティリカは、それを受け取り、そっと目元に当てる。そして、鼻声になりながら話し始めた。


「ドンは……ぐずっ……この街に来たばかりのエルフの私にも……じゅじゅ、差別せずに親身になってくれだんでず……」


 言葉は涙に崩れ、鼻水まで垂れてくる。それでもレティリカは語り続けた。彼女の端正な顔はすっかりぐしゃぐしゃになり、それでもなお、ドンへの感謝と敬愛を滲ませる。


 その姿に触発されたのか、他の冒険者たちもグラスを傾けながら、次々にドンとの思い出を語り始める。言葉の端々に、彼への尊敬と哀惜が滲んでいた。


「俺たち、まだ新人で……いつも全然稼げなくて、お金がない時がしょっちゅうあって……。それでも、ドンはそんな俺たちに声をかけて、飯を奢ってくれたりしたんです」

「稼げるようになったら返してくれればいいって……何度も何度も、ご馳走になって……」

「なのに、私たちはまだ何もお返しできず……それが、本当に残念でなりません」


 戦士のガーフィールド、魔法使いのマグワイヤ、神官のホラン。新人冒険者の三人組は、かつて苦しんだ日々と、そこから救われた優しい逸話を語った。

 語るたび、彼らの声には感謝と悔しさが滲む。ドンの気遣いに甘えながらも、いつかはその恩を返したかった。しかし、その『いつか』は、もう来ない。


 カウンターに並んだグラスの中で、酒が静かに揺れる。沈黙の合間に、誰かが小さく鼻をすする音が響いた。


「うちの爺さんも冒険者でさ、ドンにはガキの頃から何かと世話になったよ……。ギルドに忍び込んでは、しょっちゅう叩き出されたりしたな……」


 懐かしげに語る戦士のアレリオ。その目には、遠い日の記憶が滲んでいた。


 隣に座るリザードマンのスパローは何も言わない。ただ静かにグラスを傾ける。淡く揺れる液面に、彼の思いが映るようだった。言葉にするには、まだ気持ちの整理がつかないのかもしれない。だが、その沈黙すらもまた、ドンへの敬意に思えた。


 店内の静けさは変わらない。しかし、そこには新たな音が生まれていた。思い出の語らい、グラスを煽る音、そして、かすかな涙の落ちる音。


「とても偉大な方だったのですね」


 バーテンダーは誰に言うでもなく、静かに呟いた。


「うん、そうだね……。ドンには、この街の冒険者はみんな世話になっていたと思うよ」


 マネアは、らしくないほど遠い目をしながら、グラスの縁を指でなぞる。その仕草はどこか物思いに沈み、普段の快活さとは異なる雰囲気を纏っていた。その様子にサクラはふと思う。影のあるマネアは、女としての色気もあるのだな、と。


 バーテンダーは、冒険者たちの語りを聞きながら静かにグラスを拭いていた。彼自身はドンを知らない。それでも、この店に集った人々の語る言葉のひとつひとつに、彼の偉大さが滲んでいるのを感じる。どれほど慕われ、どれほど愛されていたのか。その存在の大きさを、グラスを磨く手のひらにすら感じる気がした。


「私は、残念ながらお会いしたことはございません。ですが、故人を偲び、ささやかな一杯を振る舞わせていただきたく存じます」


 そう言うと、バーテンダーは後ろの酒棚バックバーから二本の酒瓶を取り出した。一本は穀物蒸留酒ウイスキー。中でも選んだのは、泥炭燃焼蒸留酒スコッチ・ウイスキー。そして、もう一本は杏仁リキュールアマレット

 静かな手付きで背の低い大きめのグラスオールド・ファッションド・グラス握り拳大の氷ランプ・オブ・アイスを入れる。透明な塊が静かに佇む。その上から二本の酒がゆっくりと流れ込み、絡み合う。

 そして、かき混ぜるステア


シャカシャカシャカシャカ……


 かき混ぜステアされるごとに、液体はより滑らかに輝きを増し、グラスの中で琥珀色の光を帯びる。濃密な色合いが、重厚な余韻を予感させる。


「お待たせ致しました。『ゴッドファーザー』でございます」


 バーテンダーは静かにグラスを差し出す。琥珀色の液体が、ほのかな照明の中で揺らめいている。


「このカクテルは、とある裏社会の一族の親玉ドンの偉大さに敬意を表し、創られたものでございます。その名が示すように、威厳と風格を兼ね備えた味わいとなっております。どうぞ、お試しください」


 冒険者たちは、それぞれの前に置かれたグラスを静かに手に取り、ゆっくりと口をつける。


 まず広がるのは、アーモンドのような香りと柔らかな甘味。そして、その後に訪れる穀物蒸留酒ウイスキーの芳醇な味わい。スモーキーな風味がじんわりと広がり、甘く濃密な余韻を残す。アルコール度数は高めだが、ただ強いだけではない。その奥行きのある味わいは、まるでドンの懐の深さを思わせるようだった。寛容で、温かく、それでいて芯のある人物のように。


「裏社会の世界では、血のつながり……特に一族の絆は、何よりも大切にされるものだそうです。裏切りや復讐の影が常に付きまとう故に、揺るぎない信頼と家族の愛、義理と人情が何よりも重要視されるのでしょう」


 バーテンダーは静かにグラスを拭きながら続ける。


「きっと、ドンさんにとっても、冒険者の皆さんは家族だったのではないでしょうか。だからこそ、大変な時には気遣い、親身に相談に乗り、そして間違いを犯せば真剣に叱る。それはただの世話焼きではない、本当の家族にしかできないことです。まさに、『偉大』なる『ゴッドファーザー』だったのだと思います」


 その言葉に、冒険者たちはそれぞれの胸にドンの姿を思い浮かべる。深く刻まれた思い出が、静かな余韻となって染み渡っていく。

 それは、まるで親のような愛。見返りなど求めない、無償の愛だった。


 そして、バーテンダーはもうひとつのグラスを静かにカウンターへと置いた。


「献杯……」


 低く、静かな声が店内に響く。その言葉とともに、店内の静けさがさらに深まった。誰も声を発さない。ただ、グラスをそっと持ち上げる手が、ゆっくりと動くだけだ。

 その言葉の本来の意味までは理解できなくとも、そこに込められた想いは誰の心にも伝わった。故人を偲び、敬意を表すための言葉であることを、誰もが感じ取る。まるで時が止まったような一瞬。誰かがそっと息を飲む音が聞こえる。それは言葉ではなく、ただ静かにグラスを交わすことで示す哀悼。


 そして、今宵の『Etoileエトワール』の時間は、ゆっくりと流れていった。静かに。厳かに。


 『ゴッドファーザー』の琥珀色が、灯りの揺らぎとともに静かに輝く。その光は、まるで遠い記憶のひと欠片のように……。




 静かに……厳かに……沈黙の中でしか語れない言葉というのが存在します。それは、自分自身へと投げかける言葉。故人を偲ぶための言葉。バーの静寂というのもまた意味のある静寂なのです。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『ゴッドファーザー』

スコッチ・ウイスキー 45ml

アマレット 15ml


氷を入れたオールドファッションド・グラスにすべての材料を入れステアする。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋 一部改変



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