その日は雨が降っていた。
長く降り続ける雨は、この日を象徴するかのように、静かに、寂しく、そして重く降り注いでいた。まるで天が悲しみ、その涙を大地へと零しているかのように。
『
いつもなら陽気に笑い、酒を煽る女戦士のマネアですら、この日だけは俯いている。その肩には、静かな夜の重みがのしかかっていた。
それもそのはず……今日は葬儀があった。
冒険者ギルドの要職を務めた男が亡くなったらしい。長年、数多の冒険者を見守り、支え続けた人物だったという。死因は病。彼の死は多くの者の心に深い影を落とした。
彼は冒険者たちに親しまれ、『ドン』の名で呼ばれていた。彼の葬儀に参列した冒険者たちが、今夜の『
「ドンにはとてもお世話になったんだよ。ほら、あたしってこんな性格だろ? レティリカに会う前は誰と組んでも長続きしなくてさ……」
いつもの元気な陽気さは影を潜め、マネアは静かに口を開く。
「跳ねっ返りだったからさ、色々と迷惑かけて……。もう、一人でやってくしかないかなって思ってた時に、ドンがレティリカを紹介してくれたんだ」
マネアがそっと視線を向ける。エルフの弓使いレティリカは、まだ心の整理がつかないのか、目に涙を溜めたまま動かない。
すかさずサクラが
「ドンは……ぐずっ……この街に来たばかりのエルフの私にも……じゅじゅ、差別せずに親身になってくれだんでず……」
言葉は涙に崩れ、鼻水まで垂れてくる。それでもレティリカは語り続けた。彼女の端正な顔はすっかりぐしゃぐしゃになり、それでもなお、ドンへの感謝と敬愛を滲ませる。
その姿に触発されたのか、他の冒険者たちもグラスを傾けながら、次々にドンとの思い出を語り始める。言葉の端々に、彼への尊敬と哀惜が滲んでいた。
「俺たち、まだ新人で……いつも全然稼げなくて、お金がない時がしょっちゅうあって……。それでも、ドンはそんな俺たちに声をかけて、飯を奢ってくれたりしたんです」
「稼げるようになったら返してくれればいいって……何度も何度も、ご馳走になって……」
「なのに、私たちはまだ何もお返しできず……それが、本当に残念でなりません」
戦士のガーフィールド、魔法使いのマグワイヤ、神官のホラン。新人冒険者の三人組は、かつて苦しんだ日々と、そこから救われた優しい逸話を語った。
語るたび、彼らの声には感謝と悔しさが滲む。ドンの気遣いに甘えながらも、いつかはその恩を返したかった。しかし、その『いつか』は、もう来ない。
カウンターに並んだグラスの中で、酒が静かに揺れる。沈黙の合間に、誰かが小さく鼻をすする音が響いた。
「うちの爺さんも冒険者でさ、ドンにはガキの頃から何かと世話になったよ……。ギルドに忍び込んでは、しょっちゅう叩き出されたりしたな……」
懐かしげに語る戦士のアレリオ。その目には、遠い日の記憶が滲んでいた。
隣に座るリザードマンのスパローは何も言わない。ただ静かにグラスを傾ける。淡く揺れる液面に、彼の思いが映るようだった。言葉にするには、まだ気持ちの整理がつかないのかもしれない。だが、その沈黙すらもまた、ドンへの敬意に思えた。
店内の静けさは変わらない。しかし、そこには新たな音が生まれていた。思い出の語らい、グラスを煽る音、そして、かすかな涙の落ちる音。
「とても偉大な方だったのですね」
バーテンダーは誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「うん、そうだね……。ドンには、この街の冒険者はみんな世話になっていたと思うよ」
マネアは、らしくないほど遠い目をしながら、グラスの縁を指でなぞる。その仕草はどこか物思いに沈み、普段の快活さとは異なる雰囲気を纏っていた。その様子にサクラはふと思う。影のあるマネアは、女としての色気もあるのだな、と。
バーテンダーは、冒険者たちの語りを聞きながら静かにグラスを拭いていた。彼自身はドンを知らない。それでも、この店に集った人々の語る言葉のひとつひとつに、彼の偉大さが滲んでいるのを感じる。どれほど慕われ、どれほど愛されていたのか。その存在の大きさを、グラスを磨く手のひらにすら感じる気がした。
「私は、残念ながらお会いしたことはございません。ですが、故人を偲び、ささやかな一杯を振る舞わせていただきたく存じます」
そう言うと、バーテンダーは
静かな手付きで
そして、
シャカシャカシャカシャカ……
「お待たせ致しました。『ゴッドファーザー』でございます」
バーテンダーは静かにグラスを差し出す。琥珀色の液体が、ほのかな照明の中で揺らめいている。
「このカクテルは、とある裏社会の一族の
冒険者たちは、それぞれの前に置かれたグラスを静かに手に取り、ゆっくりと口をつける。
まず広がるのは、アーモンドのような香りと柔らかな甘味。そして、その後に訪れる
「裏社会の世界では、血のつながり……特に一族の絆は、何よりも大切にされるものだそうです。裏切りや復讐の影が常に付きまとう故に、揺るぎない信頼と家族の愛、義理と人情が何よりも重要視されるのでしょう」
バーテンダーは静かにグラスを拭きながら続ける。
「きっと、ドンさんにとっても、冒険者の皆さんは家族だったのではないでしょうか。だからこそ、大変な時には気遣い、親身に相談に乗り、そして間違いを犯せば真剣に叱る。それはただの世話焼きではない、本当の家族にしかできないことです。まさに、『偉大』なる『ゴッドファーザー』だったのだと思います」
その言葉に、冒険者たちはそれぞれの胸にドンの姿を思い浮かべる。深く刻まれた思い出が、静かな余韻となって染み渡っていく。
それは、まるで親のような愛。見返りなど求めない、無償の愛だった。
そして、バーテンダーはもうひとつのグラスを静かにカウンターへと置いた。
「献杯……」
低く、静かな声が店内に響く。その言葉とともに、店内の静けさがさらに深まった。誰も声を発さない。ただ、グラスをそっと持ち上げる手が、ゆっくりと動くだけだ。
その言葉の本来の意味までは理解できなくとも、そこに込められた想いは誰の心にも伝わった。故人を偲び、敬意を表すための言葉であることを、誰もが感じ取る。まるで時が止まったような一瞬。誰かがそっと息を飲む音が聞こえる。それは言葉ではなく、ただ静かにグラスを交わすことで示す哀悼。
そして、今宵の『
『ゴッドファーザー』の琥珀色が、灯りの揺らぎとともに静かに輝く。その光は、まるで遠い記憶のひと欠片のように……。
静かに……厳かに……沈黙の中でしか語れない言葉というのが存在します。それは、自分自身へと投げかける言葉。故人を偲ぶための言葉。バーの静寂というのもまた意味のある静寂なのです。
ここは異世界のバー『
◇
『ゴッドファーザー』
スコッチ・ウイスキー 45ml
アマレット 15ml
氷を入れたオールドファッションド・グラスにすべての材料を入れステアする。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋 一部改変