「お待たせ致しました。『ウィドウズ・ドリーム』でございます」
バーテンダーは、静かにカウンターへとグラスを差し出した。
カクテルは、黄色みを帯びた酒の上にふんわりと白い生クリームを乗せた、美しく儚げな一杯。まるでプリンのような甘美な姿をしている。
そのグラスを手に取ったのは、一人の女性だった。黒い喪服のようなドレスをまとい、頭には黒いヴェールを被っている。細くしなやかな指には、漆黒の手袋が嵌められていた。
彼女の名は、リオーヌ。かつて亡き冒険者ギルドの長『ドン』の奥方だった女性だ。『ドン』は高齢だったが、リオーヌは然程年齢を重ねているわけではなく、まだ三十代前半。彼女は後妻として迎えられ、若くしてその立場に身を置いた。そして今、未亡人となった。
未亡人となったリオーヌは、『ドン』の葬儀以来、決して喪服を脱ぐことはなかった。黒いヴェールが彼女の顔を覆い、どこへ行くにも漆黒の衣装を纏っていた。
かつては冒険者として明朗快活だった彼女。しかし、今ではその輝きはすっかり影を潜めている。それほどまでに、夫の死は彼女の心を深く抉ったのだろう。
彼女から笑顔が消えたとき、周囲の者たちもまた胸を痛めた。どうにか彼女を立ち直らせようと、冒険者ギルドの関係者や馴染みの冒険者たちは懸命に働きかけた。花を贈り、励ましの言葉をかけ、時には昔のように無理にでも冒険に誘おうとした。だが、彼女が喪服を脱ぐことはなかった。
そんな彼女が、静かにグラスを持ち上げる。黒いヴェールの内側へと、それを運ぶ。飲食の時ですら、その素顔を晒すことは稀であった。
「……甘いわね」
口当たりは、驚くほどクリーミーでなめらか。ベースとなるブランデーリキュール『ベネディクティン』は、深みのあるハーブの香りを伴いながら、濃厚な甘さを静かに広げていく。それを生クリームと卵白が優しく包み込み、芳醇な風味を口の中に作り出す。まろやかさとコク、それらが絶妙に絡み合い、まるで甘美な余韻そのものを味わうようなカクテルだった。
「……本当に、甘い」
リオーヌは、まるで言葉の意味を確かめるように、何度もその言葉を呟いた。
「はい、『ウィドウズ・ドリーム』は、とても甘いカクテルとなります」
バーテンダーは、静かにグラスを拭きながら言葉を紡ぐ。
「それはまるで、旦那様との甘いひと時を思い出させるかのように……」
リオーヌは、そっとグラスの縁に指を這わせた。
「そう……ね」
彼女の声は、まるで遠い記憶の波間に揺られているかのようだった。
「あの人との甘い思い出が蘇るようだわ。とても忙しい人だったけれど、毎日楽しそうで、その笑顔を見るのが、私は好きだったわ……」
彼女の瞳は、今を映していない。遥か彼方の過去だけを、静かに見つめていた。
「……まだ、前を向くことはできませんか?」
バーテンダーは、心配そうな眼差しをリオーヌに向けながら静かに問いかけた。
「……どういうことかしら?」
「マダムが喪服をお召しになってから、周囲の方々は皆、深く案じております」
バーテンダーは、言葉を選びながらゆっくりと続けた。
「冒険者ギルドの方々も、馴染みの冒険者の皆様も、『ドン』様には計り知れない恩義があります。その恩義を、ほんの少しでもマダムに返したい……そう願っているのです」
グラスの縁をなぞっていたリオーヌの指先が止まる。
「マダムが元気になられることを……皆が望んでいます」
バーテンダーは、ヴェール越しの彼女を見つめる。その向こう側にある瞳は悲嘆にくれているのか、それともわずかに揺らいでいるのか。どちらにせよ、彼にはそれを確かめる術がなかった。ただ、居た堪れない思いだけが、胸の内に広がっていった。
「そう……。みんなに心配をかけてしまったのね……」
リオーヌの声は、かすかに揺らいでいた。
「忘れる……ということは、きっと難しいでしょう」
バーテンダーは、静かに言葉を紡ぐ。
「だからこそ、忘れるのではなく、心にそっと仕舞い込むのは如何でしょうか。そして、思い出すのはこのバーで『ウィドウズ・ドリーム』を飲まれる時だけ。ほんの少しだけ思い出に浸る……それでは、いけませんでしょうか」
ふと、リオーヌが顔を上げたような気がした。黒いヴェール越しに、その瞳がバーテンダーをしっかりと見据えているように感じられた。
「……そうね。わかってはいるの。でも、まだもう少しだけ……」
リオーヌは、グラスの中の淡い色を見つめながら静かに呟いた。
「申し訳ないのだけれども、もう少しだけ思い出に浸っていたいのよ……。心の喪失感というのは、そう簡単には癒えないものなのよ。失ってから気付くなんて……滑稽なのだけれどもね……」
リオーヌは、グラスの縁をまた指先でなぞる。その動作は、まるで過去の記憶をたどるかのように、ゆっくりと慎重だった。
「もう少しだけ……」
呟いた言葉は、自分自身に語りかけるようでもあり、心の奥底に向けた独白のようでもあった。
彼女自身、今のままではいけないことは分かっている。だが、心というものは、理屈では割り切れない。喪失の痛みは、ただ時間が解決するものではない。少しずつ積み重なる瞬間の変化が、やがて大きな一歩へと繋がるのだ。そう、ほんの僅かでも。
悲しみを乗り越え、明日へ歩を進める……言葉にすれば簡単だが、実践しようとするとそれは途方もなく難しい。人の心は、そう簡単に切り替えられるものではない。どうしても、過去が頭をかすめてしまう。
「大変失礼を致しました。マダムは、もうお気付きだったのですね」
バーテンダーは、グラスをそっと置き静かに頭を下げながら言う。
「私如きの助言など、必要なかったようですね」
リオーヌは微笑んだ。それは、ほんのわずかに。
「いいえ。でも、ありがとう」
彼女は静かにグラスを置き、視線をバーテンダーへと向ける。
「いつか……きっと、思い出に変わる日が来ると思うわ。その時は、あの人のことを思い出すために……貴方のカクテルを飲ませてちょうだい」
バーテンダーは、目を伏せながらそっと答えた。
「……承りました」
リオーヌは静かに立ち上がる。黒い衣がふわりと揺れ、灯りの下でわずかに金の装飾が鈍く輝いた。
入り口へ向かう彼女の足取りは、かすかに軽くなったようにも見える。店の扉を押し開くと、夜の冷たい空気がそっと頬を撫でた。
彼女は一瞬、立ち止まる。そして黒いヴェールの奥から、小さく息をついた。その吐息は、夜の闇へと溶けていく。
過去を完全に断ち切ったわけではない。だが、ほんの僅かに、その影を遠ざけることはできるかもしれない。そう思いながら、リオーヌは静かに夜へと歩を進めた。
◇
「……愛というのは、難しいものですね」
片づけをしながら、バーテンダーがぼそりと呟いた。
「何が難しいんですか?」
バーテンダーの言葉の意図を掴めず、サクラは率直に問いかける。
「二人でいる時は、ただ幸せを享受すればいいのですよ。愛は、幸福の絶頂期にあるときは、甘い蜜月に満ちています。しかし、どちらかが先に亡くなった時、愛は一転して、残された者を束縛する鎖へと変わるのです。望もうが望むまいが……。どうしても、思い出が重くのしかかってしまう」
「……そうですね。でも、だからこそ二人でいる時間が幸せなんですよ」
サクラの声は、ゆっくりとしかし確信に満ちていた。
「別れはきっと、いつか来てしまいます。その時までを精一杯幸せに生きる。それが、愛だと私は思います」
バーテンダーはふと手を止め、驚いたようにサクラの方を見つめた。
確かに、愛は別れによって束縛へと変わることもある。だが、その愛は決して呪縛ではない。それは思い出となり、残された者の明日を生きる糧となる。
(まったく……私も人生経験ではまだまだ若輩者ですね……)
バーテンダーはそっと微笑み、また静かにグラスを拭き始めた。
静かに……失われた過去を振り返る。人生にはそんな時も必要だったりします。ただ一人、グラスを傾け過去と相対する時間もまた人生における楽しみのひとつなのかもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『ウィドウズ・ドリーム』
ベネディクティン 60ml
全卵 1個
生クリーム 適量
シェーカーに生クリーム以外の材料と氷を入れて十分にシェーク。
ソーサー型のシャンパン・グラスに注ぎ入れ、
生クリームをフロートさせる。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋