親愛なる『エトワール』のバーテンダー様へ
月の光が静かに庭を照らす夜。わたくしは何度も筆をとることをためらいました。
夜の静寂は、わたくしの心を映す鏡のようでございました。ひっそりと佇む庭の花々が、静かに月光を浴びながら揺れる姿を目にすると、わたくしの内にある想いがそれと同じようにそっと揺らぐのを感じます。
蝋燭の僅かな灯りが、わたくしの心をゆっくりと温めていくのと同時に、胸の内に秘めたこの想いもまた、まるで冬の雪解けのように静かに溶けてゆきました。
この気持ちを言葉にすべきか、それとも胸の奥深くに仕舞っておくべきか。幾度となく迷いましたが、やがて心の迷いは影を潜め、想いを伝えたいという願いが、わたくしの手を優しく導いてくれました。
こうして、ついにこの書をしたためる決心をいたしました。
先日、あなた様にお会いした折のことを、わたくしは幾度となく思い返しては胸を熱くしております。
あの時、静かな灯りに照らされたカウンター越しに、あなた様の真剣な眼差しを拝した瞬間、わたくしの心は強く惹きつけられました。滑らかに動く繊細な指先、その指の間で優雅に流れる琥珀色の液体。そして、炎を操る情熱と、それに相反する冷静な手さばき。まるで舞台上で繰り広げられる芸術のように、わたくしの目はその一挙手一投足を捉えて離しませんでした。
グラスの縁をなぞるその指に、時折揺れる炎のゆらめき。その光の中で、あなた様はまるで夜の帳に咲く孤高の薔薇のように映り、わたくしの胸には言葉にできぬほどの憧れと敬愛が膨らむばかりでございます。
あなた様の卓越した才を目の当たりにするたび、わたくしの心は静かに揺れ、まるで風に舞う花びらが陽光の中で優雅に揺れるように、あなた様へと想いが募ってゆくばかり。
何気ない会話の端々に垣間見える知恵と寛容の心。時折ふと見せてくださる微笑の温かさ。それらのすべてが、わたくしの中でこれまで知ることのなかった安らぎと憧れをもたらしました。
もし、この言葉が不躾でございましたならば、どうかお許しくださいませ。
けれども、わたくしの胸に宿るこの思いは偽りなく、静かに、しかし確かにあなた様へと向かっております。
今まで、わたくしは思いを秘めることで心の平穏を保とうとしておりました。しかし、それはまるで夜空に輝く星々を指で覆い隠そうとするようなもの。どうしても抑えきることのできない、わたくしの心の真実にございます。
あなた様の高貴なる歩みの中に、わたくしがほんのひと時でも、その片隅に留まることができるのなら、それはこの胸にとって計り知れぬ幸福。風がそっと葉を揺らし、花が陽の光を浴びて微笑むように、わたくしもまた、あなた様の存在に触れることで心が満たされるのです。
願わくば、この書があなた様の目に留まり、わたくしの拙き気持ちが、ただの淡い夢として儚く消え去ることなく、そっとあなた様のお心に触れることを祈るばかりでございます。
この想いが風のように流れ去るのではなく、せめて一片の言葉としてあなた様の胸に留まりましたならば、それだけで、わたくしにとってこの世の何にも代え難い喜びにございます。
もし許されるのであれば、次にお目にかかる折に、ほんの僅かでも、あなた様の真なる思いをお聞かせいただけましたら、わたくしの心は満たされましょう。
それが叶うならば、わたくしの胸はまるで冬の夜空に輝く星のように煌めき、宵闇に散る花びらのひとひらさえ、より美しく映ることでしょう。
最後になりましたが、あなた様の歩む道が常に栄光と安寧に満ち、星々が導く穏やかな光のもとで、変わらぬ幸福が訪れますよう、心より願っております。
どうか、どのような嵐が訪れようとも、その優雅なる輝きが曇ることなく、貴き道を歩まれることをわたくしの心からの願いといたします。
敬愛を込めて
シェリー・オクシデンタル
◇
拝啓
新緑の香りが心地よく、風が優しく木々を揺らす季節となりました。静かに降る雨が軒先を叩き、葉を揺らしながら、時折まるで囁くように耳をくすぐるのを感じます。
窓辺に目を向ければ、雨粒が硝子を伝い、それがまるでグラスについた水滴のように映るような錯覚を覚えます。雨の夜はいつにも増して静かで、カウンターに置かれた琥珀色の液体が、まるでひそやかな物語を語るかのように揺れております。
朝夕の気温差に、うっすらと夏の気配を感じる頃となりましたが、シェリー様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
お手紙、確かに受け取りました。折に触れて文を開き、その言葉の一つひとつを噛み締めながら読ませて頂きました。
これほどまでに丁寧に紡がれた想いに触れることができたこと、心より感謝申し上げます。言葉の端々から伝わる温かさに、ふとグラスを傾けながら目を閉じると、シェリー様の想いが静かな波のように胸へと押し寄せるのを感じます。
こうしてお手紙をいただき、想いに触れる機会を得たこと、とてもありがたく思います。シェリー様のお気持ちは確かに届いております。
それだけに、どのようなお返事を綴るべきか、長らく考えあぐねておりました。いただいた言葉の温かさに、何かしらお返しできるものがあればと、何度も筆を取っては置き、思いを巡らせております。
思いを受け取るというのは、ときに一杯の酒を選ぶようなものなのかもしれません。目の前に並ぶ美しいグラスの中から、一つを手に取り口に運ぶその瞬間。その選択に迷うこともあるでしょうし、どの香りが最も馴染むのか、ゆっくりと確かめたくなることもあるでしょう。
そんな心の揺らぎの中、筆を進めるうちに、一つの答えに辿り着いた次第です。
『村雨』という言葉を、ご存じでしょうか。激しく降りしきる雨が、まるで嵐のように地を打つものの、不思議なほどに長くは続かず、ふと気づけば止んでいる。そんな儚さを孕んだ雨のことを申します。
この『村雨』の名を冠したカクテルがございます。麦焼酎とドランブイを合わせた一杯でございますが、その味わいはまるで本物の『村雨』のように、印象的な衝撃を伴いながら、静かに消えてゆくのです。
ドランブイの奥深い甘みが最初に口の中を駆け抜けます。蜂蜜とスパイスが織りなす濃密な余韻。しかし、その甘みはいつまでも滞ることなく、すぐに麦焼酎のすっきりとした味わいに溶け込んでゆく。まるで雨が降った後、すっと晴れ間がのぞく瞬間のような清々しさ。その余韻は、しとどに濡れた紫陽花が、最後の雫を落とすかのようにさりげなく、それでいて確かに心に残るもの。
そして気づけば、そこには何も残らず、ただ静寂だけが横たわる。そう、それはまさに『村雨』。
シェリー様の想いは、確かに伝わりました。
しかし、それはもしかすると『村雨』のようなものではないでしょうか。激しく降り、心を濡らすほどに強く響きながらも、いつしかそっと消えてゆく。そんな性質を帯びているように思えてなりません。
今はまだ、初めての経験に胸の高鳴りと熱を感じているのかもしれません。ですが、それが永く続くものなのか、それとも一時の情熱なのか。時が経てば、自然と答えは見えてくることでしょう。
人生の中で、このような想いが何度か訪れることもあるはずです。そのたびに、心が揺れ、目の前の情景が変わるかもしれません。しかし、そうした時こそ、一度立ち止まり、自らの心の奥を静かに見つめることが大切なのではないでしょうか。
それはただの憧れなのか。それとも、本当の想いなのか。
あるいは、答えは今でなく、これから訪れる時の中で見つかるものなのかもしれません。
貴女様の優しさが、貴女様にとっての本当の幸せへと導かれるよう、願わくば静かに見守らせていただきたい気持ちでございます。
季節の変わり目ゆえ、どうかご自愛くださいますよう。雨の恵みが去ったあとに残る青々とした葉のように、貴女様の歩む道が穏やかで実り多きものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます。
そして、また静かな夜に雨音を聴きながら、グラスを傾けることがございましたら、その時の語らいを楽しみにしております。
敬具
◇
「情熱的に激しく降り注ぐ『村雨』……。その雨脚は刹那のことやもしれません……。けれども『村雨』は止んでもまたすぐに降り注ぐ! 一度立ち止まって冷静になって、さらに魅力を見つけて欲しいだなんて! とても浪漫あふれる表現ですわ! 嗚呼、なんて素晴らしい殿方なのかしら! ……じいや! 荷物をまとめて頂戴! ドーバー伯爵領にしばらく滞在しますわよ! ほら、早く、急いで!」
雨音は静かに自分を見つめ直す絶好の機会です。しとしとと染み渡る雨がまるで乾いた心の中にまで浸透するような、そんな一時にグラスを傾けるのも悪くはないのかもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『村雨』
芋焼酎 45ml
ドランブイ 10ml
レモン・ジュース 1tsp.
ロック・アイスを入れたオールドファッションド・グラスにすべての材料を入れ、
バー・スプーンで軽くステアする。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋