その日の『
以前、冒険者を装う盗賊のモンエゴのもとへ、八百長疑惑の賭け馬で彼が失った金を返金するため、一人の女騎士が店を訪れたことがあった。その騎士が来店していたのである。
長い黒髪と黒い瞳。その目は鋭く凛とし、厳しさを帯びている。重厚な銀色の甲冑が彼女の威厳をさらに際立たせ、店内の空気をぴりぴりと張り詰めさせていた。
そもそも騎士というのはこれでも貴族の一員である。一代限りの貴族として扱われ、平民であっても目覚ましい功績を挙げれば騎士爵として認められることがある。ゆえに、平民にとっては羨望と嫉妬の対象であり、逆に騎士側も『平民とは違う』という特権意識を抱いていた。
その両者の価値観の乖離が、どこへ行っても微妙な緊張を生み出しており、この日の店内も例外ではなかった。
「店主、貴様は色水を混ぜたものを客に出しているそうだな?」
女騎士は席に着くなり、バーテンダーを鋭く睨みつけた。その目は冷たく、言葉には容赦のない威圧が込められている。
その剣呑な雰囲気に、真っ先に反応したのはサクラだった。
「え、えと……騎士様? 当店でお出ししているのは、お酒とお酒を混ぜ合わせたカクテルと呼ばれるものでして……」
「貴様には聞いていない!」
サクラが言葉を継ぎかけた瞬間、女騎士は冷たく切り捨てるように言い放った。
その場の空気が凍りつく。
周囲の客たちは息をのんだ。ドーバー伯爵家のご令嬢であるサクラに対し、貴族としては一番低い身分を持つ騎士爵が敬語も使わず怒鳴り散らすなど、無礼極まりない。むしろ、貴族社会においては万死に値するほどの非礼である。不穏な沈黙が、店内に広がっていた。
だが、当のサクラは涙目になりながら、ただバーテンダーの方を見つめるだけだった。
「お客様。先ほど彼女が申し上げました通り、当店では複数のお酒を混ぜ合わせたカクテルをご提供しております。決して色水などではございません」
バーテンダーは微塵の揺らぎもなく、凛とした表情で応じる。
「なるほど……そうやって騙くらかしているわけだな!」
女騎士は語気を強め、カウンターの向こう側を睨みつけた。
「酒を混ぜるなど許されざることだ! 大方、粗悪品の酒の味をごまかすためにしているのであろう!」
その言葉が響き渡ると同時に、騎士の拳がカウンターを強く打ちつける。鋭い音が店内に響き、空気がさらに張り詰める。
その表情には、ただの憤り以上のものが滲んでいた。まるで目の前の相手を威圧し、強引に屈服させようとしているかのような冷酷な意図が。
「お客様、当店で提供しておりますアルコールは、決して粗悪品ではございません。なんでしたら、お試しになりますか?」
酒を提供する者として、理不尽な非難を受け入れるわけにはいかない。謂れのない侮辱を受けては、バーテンダーの矜持が黙っていることを許さなかった。
「ふん……聞けば貴様は混ぜたり、振ったりして客に出しているそうだな」
騎士は冷たく言い放つ。
「何か怪しい薬でも入れているのだろう! 私の目は誤魔化せんぞ!」
その言葉とともに、鋭い視線がバーテンダーに突き刺さる。騎士の眼差しは、ただの疑念を超え、まるで、罪を決めつける裁きの眼光であった。
一体、この騎士は何を誤解しているのだろうか……。
さすがのバーテンダーも、ここまで頑なな態度を取られると、どこかで店のよくない噂でも流布されているのではないかと心配になる。そんなことになれば、一大事だ。サービス業は評判が命だ。
バーテンダーは、一瞬だけ考え込んだ後、穏やかに口を開く。
「……では、お客様。混ぜたり、振ったりしないカクテルならば、如何でしょうか?」
その申し出に騎士は、目を細め不敵に笑う。
「ほう……。貴様の長所である混ぜることも、振ることもせずに美味い酒が作れると?」
低く響く声。その言葉の裏には、挑戦を受け入れる者特有の皮肉めいた興味が含まれていた。
「やってみるがいい! ただし、もし美味い酒ができない時は……覚悟するのだな!」
そう言いながら、騎士は静かに自身の横に立てかけられた大剣へと手を伸ばす。鞘からわずかに抜かれた刃。白銀の輝きが、淡い光を反射し、何とも言えぬ焦燥感を生む。
その刹那、周囲の空気がひやりと冷たくなる。緊張感が、店内の隅々まで染み渡っていた。
「承りました。少々お待ち下さい」
バーテンダーは静かに
白葡萄を蒸留し、樽の中で五年から八年もの時間をかけて熟成させた芳醇な蒸留酒。その琥珀色の液体を
その上に
続いて、
慎重な手つきで、それを先ほどの
こうしてグラスの上には、
「お待たせ致しました。『ニコラシカ』でございます」
バーテンダーは静かにグラスを差し出し、その美しい造形を目の前に示した。
「こちらの白い山は砂糖になります。ちょうど
騎士は、そのグラスをじっと見つめた。
確かに、混ぜたり振ったりといった奇妙な動作はしていなかった。ただ、酒を注ぎ、その上に果実の輪切りと砂糖の小さな山を乗せただけ。それだけである。
果たして、これが『酒』と言えるのであろうか。
「これは……どう飲むのだ?」
騎士が眉をひそめると、バーテンダーは微笑みを崩さぬまま、柔らかく説明を始めた。
「はい。まず、
一拍の間を置き、バーテンダーは意味深に微笑む。
「つまり、お客様の口の中で、混ぜ合わせるのです。私は何もしておりません。さすがに、お客様の口の中まではバーテンダーも手出しできませんよ」
バーテンダーは静かに微笑みながら言った。
騎士は眉間に皺を寄せながらも、言われた通りに
瞬間、口の中に広がるのは柑橘系の鮮烈な酸味とほのかな苦味。そこに絡み合う砂糖の甘さが、絶妙なバランスで甘酸っぱさへと変化する。唾液が自然と湧き上がるその状態のまま、騎士はグラスの酒を流し込む。
そして訪れる強いアルコール感。だが、それさえも甘酸っぱさと調和し、渾然一体となった奥深い味わいを生み出す。
ただ、酒と果実と砂糖を重ねただけ。それだけのはずだった。それなのに……騎士はその味わいに、度肝を抜かれた。
「如何でしょうか。お気に召して頂けましたでしょうか」
バーテンダーは、いつものように穏やかに微笑みかける。その柔らかな笑みに、騎士は静かに瞼を閉じた。
「……私の負けのようだな。素晴らしい酒だった」
「ありがとうございます。他にも甘いものやキレのある辛口なもの、温かいカクテルなどもございます。お好みをおっしゃっていただければ、ご用意いたしますが……」
「それには及ばんよ」
騎士はそう言いながら、無造作にカウンターへ自らの剣を置いた。重い金属の響きが店内に鳴り響く。
「さあ、やるがいい!」
「……はい?」
バーテンダーは困惑した表情を浮かべた。何を言われているのか、まるで理解できない。そのためか、思わず素っ頓狂な返事を漏らしてしまった。
「……辱めは受けん! くっ……殺せ!」
「……ええと? いただくのは、お代だけで結構なのですが」
サクラが「そんなことを言ってる場合じゃない」と言わんばかりの抗議の視線を送るが、バーテンダーは至って真面目に返したつもりだった。
「あの……剣をお納めください。当店では、お客様にお酒を楽しんでいただけたなら、それに勝る喜びはございません」
「しかし、それでは数々の無礼を働いた私の気が済まぬ!」
バーテンダーとサクラは顔を見合わせた。これは、さすがに困った状況だ。刃傷沙汰など、到底ご免被りたい。そもそも命のやり取りをしていたわけではないのだ。なんとか穏便に納得してもらえないかとバーテンダーは思案する。
そのとき、サクラの頭に電球が光った。
「でしたら、騎士様。このお店の常連になってはいかがでしょうか?」
バーテンダーは思わずサクラを見たが、彼女は真剣な表情だ。
「売上に貢献していただければ、お店としても嬉しいですし、何より騎士様がいれば、用心棒代わりにもなります」
騎士はしばし沈黙した後、小さく息をついた。
「……そんなことでよければ、足繁く通わせてもらおう」
ゆっくりと剣を持ち上げ、カウンターに置いていたそれを引き戻す。
「そのときは、また今度は違う酒を楽しませてもらおう」
何とか丸く収まり、バーテンダーはほっと胸をなでおろした。
こうして
めでたし、めでたし……?
カクテルと言ってもスタイルは様々。レモンを齧って酒を飲んだり、ストローで吸ったりと色々な種類がございます。たまには変わった飲み方で気分を変えてみるのもいいのかもしれませんね。
ここは異世界のバー『
◇
『ニコラシカ』
ブランデー 1glass
砂糖 1tsp.
スライス・レモン 1枚
スライス・レモンの上に砂糖を乗せ、
ブランデーを注いだリキュール・グラスの上に置く。
砂糖はスプーンの背で固めるなどして見た目が美しくなるよう整える。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋