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38杯目『コスモポリタン』

 バー以外の場で、バーテンダーが酒を振る舞う機会はほとんどない。


 もちろん例外はある。政治家の資金パーティや結婚披露宴、各種イベントなどで、会場の隅に設けられた小さなブースに立ち、カクテルを提供することはある。だが、そうした催しが行われるのは、たいてい豪奢なホテルである。そして、ホテルのラウンジバーに在籍する正規のバーテンダーがその役を担うのが常だ。


 場末のバーに籍を置く者に、そんな機会が巡ってくることはまずない。理由は単純だ。酒を運ぶのが、何より面倒くさい。ボトルは重く、かさばり、そして壊れやすい。少し手元が狂えば、高価な洋酒が床に砕け、香りだけが無駄にあたりに満ちる。そんなリスクを抱えるくらいなら、必要な物がすでに揃っているホテル会場で済ませたほうが遥かに合理的というものだ。


 改めて言うまでもないが在籍バーテンダーがその場を担当するのは、実に理に適っている。わざわざ外部の、それも『名もなき店』のバーテンダーを呼ぶ意味など、あるはずもないのだから。


 とはいえ、今いるこの場所は『異世界』である。常識や慣習は似ているようでいて、ところどころに深い隔たりがある。


 その日、バーテンダーはある貴族の晩餐会に招かれていた。用意された会場は、もちろんホテルなどではない。それは、貴族が代々受け継いできた壮麗な邸宅。その中でも最も広く装飾の施された、使用目的すら定かではない大広間だった。天井は高く、壁には古代の織物や剣と盾を模した装飾品が並び、足音すら吸い込むほど分厚い絨毯が敷かれている。正直に言えばこんな空間、維持だけでもどれほど金と人手がかかるのだろうかと、つい考えてしまう。だが、そうした『無駄』と呼べる余白こそが、貴族にとっての権威の象徴なのだろう。己の力と歴史を黙って物語る。それが、この空間の持つ真の意味なのであろう。


 当然と言えば当然だが、貴族の邸宅には給仕が存在する。酒の種類だって、おそらくは豊富に揃えられていることだろう。だが、カクテル作りに適した混成酒リキュールがあるかとなると、話は別だ。むしろ、そもそも存在していない可能性すらある。となれば、バーテンダーとしては、もはや手も足も出せない。


 そこで、話は冒頭に戻る。今回の招致に際し、バーテンダーは大荷物を背負って邸宅へと赴いた。中身はもちろん、酒の主材料と副材料、つまり、カクテルを構成するためのボトルの数々だ。どれも重く、かさばり、しかも割れやすい。あらかじめ提供するメニューを絞ってはいたものの、それでも準備した酒の量はなかなかのものだった。その一歩一歩に、ボトルの重みがずしりと響く。


 会場の隅に、手配してもらったテーブルが一つ。バーテンダーはその上に、慎重に持参した酒瓶と道具類を並べていく。氷とグラスは邸宅側にて用意してもらった。銀盆に乗せられたクリスタルグラスが、重厚な照明の下で静かに煌めいている。


 今夜の晩餐会は立食形式で催されており、絹と宝石で着飾った貴族たちは、各所に設けられたテーブルのまわりで思い思いの談笑を楽しんでいた。

 その賑やかさの中でバーテンダーの立つその隅だけは、不自然なほど空いていた。誰も彼を見ない。話しかけない。むしろ、ちらりと視線を投げてはすぐに目をそらす。時折、遠巻きに交わされるひそやかな声が耳に触れる。


「……どうしてこんな者が招かれたのかしら」

「どこかの酒場の給仕かしらね? あれが『余興』ってこと……?」


 その言葉が耳に入っても、バーテンダーの表情は変わらない。ただ静かに、いつものように銀色の筒シェーカーの蓋を確かめるだけだった。


「ごきげんよう、マスター様♪」


 鈴のように澄んだ声が、ふいにバーテンダーの前へと舞い降りた。赤のビロードに金糸の刺繍をふんだんにあしらった豪奢なドレス。その裾が揺れるたび、光の粒が生まれるように輝く。そして、その顔の両側から堂々と主張するのは左右対称に巻き上げられた、金糸のような大きな縦ロール。まるで舞台のスポットライトに照らされるように、彼女の存在がその一角を瞬く間に『舞台』へと変える。その気高く、そして鮮やかな出で立ちは、この晩餐会の主催者オクシデンタル伯爵家のご令嬢。シェリー・オクシデンタルその人だった。


「これはシェリー様。本日はこのような機会を頂き、誠にありがとうございます」


 バーテンダーは恭しく一礼を捧げた。その所作は優美で淀みなく、まるで一つの儀式のようだった。


 シェリーはその姿を、熱のこもった眼差しでじっと見つめる。だが次の瞬間、その視線がふとバーテンダーの前に並べられた酒瓶やグラスへと移った。


「……あの、マスター様?」


 小首を傾げる仕草は、まるで舞台のヒロインの一幕のようだ。


「一体……何をなさっておいでですの?」


 その問いに答えることもなくバーテンダーは静かに銀色の筒シェーカーを手に取り、ひとつ、またひとつと酒を注いでいく。


「本日は、バー『Etoileエトワール』出張店を御用命頂き、誠にありがとうございます。お持ちできた酒の種類は限られておりますが、貴族の皆様にご満足頂けるよう、誠心誠意、心を込めて務めさせていただきます」


 その口調は落ち着いていて、どこまでも誠実だった。


「え? あ……はいっ。よ、よろしくお願いいたしますわ……?」


 思わずきちんと返事をしてしまったシェリー。その瞬間、自分が『どのように』彼を招いたのか、ほんの少し不安になる。


(マスター様……まさかカクテルの依頼を受けたと、思っておられますの……? 本当は……来賓客のひとりとして、晩餐にお招きしたつもりでしたのに……!)


「シェリー様。もしよろしければ一杯、いかがですか?」


 バーテンダーの声は、宴のざわめきとは異なる静けさを称えていた。言葉とほぼ同時に、彼は銀色の筒シェーカーの蓋を静かに閉じ、肩口まで持ち上げる。


シャカシャカシャカシャカ……


 氷と液体が奏でる滑らかで澄んだ音色。まるで空気に優しく波紋を描くように、その音は一角のざわめきを吸い込み、緩やかに広がっていく。


 シェリーは気付けば音に誘われるようにバーテンダーの手元を熱く見つめていた。真っ直ぐで、揺るがない動き。そこにあるのは、職人としての誇りとひとときの芸術だった。


「……では、お願い致しますわ」


 ほんの一拍の間を置いて、シェリーは静かに囁くように応えた。その声は、どこか恥じらいを帯びているようにも感じられた。


 シェリーと親しげに言葉を交わすバーテンダーの姿に、遠巻きに会話を眺めていた貴族たちも次第にざわつき始めた。


 そして、次の瞬間。


 ひと際大きな音が響く。


 バーテンダーが銀色の筒シェーカー振り混ぜシェークを終え、用意された逆三角形のグラスカクテル・グラスより少し背の高い大ぶりなグラスへとカクテルを注いだ。その時に銀色の筒シェーカーから最後の一滴まで入れ終えた際に、勢いよく振ることで奏でられる音。ピシャリと鳴るその甲高い音は氷が銀色の筒シェーカー内で勢いよく動く音。その所作は、まるで血の付いた刀から血を振り払うような動作を思わせる。


 その動作だけでも、場にいた者たちにはどこか『異質な気配』として映った。グラスに注がれた液体。それはまるで、紅い宝石を溶かして流し込んだかのような艶やかな輝き。ルビーのように鮮やかで、けれどどこか深く奥行きのある赤。


「……まぁ」

「なんて綺麗……」


 思わず漏れる感嘆の声。貴族たちは、自然と距離を詰めていた。誰に促されるわけでもなく、ただその色に、その手で生まれた何かに心を奪われるように。


「お待たせ致しました。『コスモポリタン』でございます」


 バーテンダーがグラスを差し出すと、シェリーは静かに受け取った。


「ありがとうございますわ」


 一言、礼を述べて。ゆるやかにグラスを傾け、唇を添える。


 口の中に広がったのはベリーの果実感。ふわりと甘く、爽やかな酸味が舌をなでる。その奥から、さりげなく顔を覗かせる上品な甘み。甘酸っぱさは、少女の名残と大人の憧れが混じり合ったような、どこか華やかで、ほろ苦い余韻を残した。そして、それらをきゅっと引き締めるように、穀物蒸留酒ウォッカのすっきりとしたキレが全体を整える。味わいは静かに消えていく。けれど、香りと余韻はグラス越しに彼女の胸の奥へと長く響いた。


「……とても美味しいですわ! さすがでございますわね」


 うっとりとした笑みを浮かべて、シェリーは声を弾ませた。その一言は、例え味が好みでなかったとしても、彼女はきっと同じように言っただろう。けれど今のその声には、ほんのかすかに驚きと喜びが滲んでいた。それは、彼女が本当に美味しいと感じたときにだけ現れる、無意識の色だった。


「この『コスモポリタン』の意味は、『国際人』。即ち、国際的な広い視野を持つ人。ですが、今日はあえてカクテル言葉のほうにあやかりたく思います」


 そう言って、バーテンダーは再び銀色の筒シェーカーに酒を注ぎ始めた。


「その言葉は『華麗』。まさに、華やかで麗しいシェリー様を象徴するような一杯でございます。……ちょうど、お召しのドレスと同じ色合いですね」


 その言葉に、シェリーのまなざしがゆっくりと自分のドレスへと向いた。


 ……赤。眩いほどに鮮やかで、艶やかなその色。そして、グラスの中に揺れるカクテルの赤もまた、それとまったく同じ輝きを放っていた。


(……まさか、そこまで……?)


 心の中で小さく驚きが弾ける。単なる偶然……そう片付けるには、あまりにも見事すぎた。


 ……『華麗』。


 その言葉もまた、自分のために選ばれたように感じられて、まるでこの一杯が『シェリー・オクシデンタル』という存在そのものを映し出した鏡であるかのようだった。


(なんて、心憎い演出……!)


 胸の奥がふわりと熱くなり、顔には自然と笑みが浮かんでいた。どんな宝石もかなわない、晴れやかな微笑み。頬はほんのりと朱に染まり、うるんだ瞳が、グラス越しにそっと揺れバーテンダーを見つめていた。


 それに気付いてか、あるいはまったく気に留めることもなく、バーテンダーは振り混ぜシェークを終えると、次々にグラスへと『コスモポリタン』を注いでいった。紅く艶やかな液面が、いくつものグラスに咲いてゆく。その手元には一切の淀みがなく、まるで音楽の一小節のような静かな流れがあった。


「ご列席の方々も、どうぞご遠慮なくお試しください」


 視線だけで空間を撫でるように、彼は周囲の貴族たちへと呼びかける。その声は控えめだったが、不思議とよく通った。

 ざわめきが一瞬、静まる。そして、おずおずと、けれど興味を抑えきれぬ様子で、貴族たちはひとつ、またひとつとグラスを手に取りはじめた。


 初めて口にする、『カクテル』という名の酒。その香りに眉を上げ、口に含んで目を見開き、余韻にふっと微笑む者もいれば、頷くようにグラスを見つめる者もいた。誰もが、一様に表情を変えていた。そのどれもが、未知の一滴に心動かされた者の顔だった。


「……私にも、いただけるかな?」


 低く澄んだ声が、会場の空気をそっと震わせた。その場にいた誰もが、思わず声の主へと視線を向ける。現れたのは、紺のケープに金刺繍の縁取りを施した、重厚な外套を纏う初老の男性。その内側には、赤のチュニックが静かにのぞき、その配色は威厳と品格を両立させていた。雪のように白い顎鬚がその端正な顔立ちを引き締め、背筋は歳を感じさせないほど真っ直ぐだった。


「……お父様!」


 シェリーが驚いたように振り返る。その声色には、慕わしさと少しの緊張が滲んでいた。


 この場にいる誰もが理解する。この人物こそ、今回の晩餐会の主催にして、オクシデンタル伯爵家当主。即ち、シェリーの父にして『伯爵候』その人であると。


 それに気付いたバーテンダーは、恭しく深く一礼を捧げた。


「承知致しました、オクシデンタル伯爵様。ただいま、ご用意させていただきます」


 手際よく道具に手を伸ばし、グラスと材料を整える。ほどなくしてカクテルが完成し、そのグラスが静かに伯爵のもとへと差し出された。

 受け取った伯爵は、ふと目を細め、そして一口……。


「……なんと!」


 その瞬間、伯爵の目が見開かれた。


「この芳醇で甘酸っぱい味わい……。ほう……これは、まるで……若かりし頃を思い出すような……懐かしさを感じさせる……」


 懐からふいに漏れた吐息。かつて胸の奥にしまっていた何かが、この一滴でふと、ほどけたような……そんな表情だった。


「……お気に召しませんでしたでしょうか?」


 さすがに相手はこの場の主催であり、威厳ある貴族の男。バーテンダーとしても、ほんの一瞬、緊張の色を隠せない。けれどその問いに返されたのは、伯爵の唇に浮かぶ、深く静かな微笑だった。


「いや、とても美味しかったよ」


 伯爵はグラスを置きながら微笑んだ。


「シェリーが熱を上げるのも、なるほど頷ける腕前だ」

「お父様……っ」


 シェリーが顔を赤らめ、恥ずかしそうに身をよじる。その仕草には、令嬢らしからぬ少女めいた照れがにじんでいた。


 だが、次に伯爵が口にした言葉は、場にいた誰もが想定していなかった。


「先程のやり取りも、遠目ながら見させてもらった。相手を気遣い、さりげなく褒め、敬意を欠かさぬ態度……それを裏打ちする技術と、人柄。よろしい。シェリーとの婚姻を認めようではないか」

「はい、ありがとうございます。……はい? ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」


 邸内に、バーテンダーのその日一番の大声が轟いた。




 カクテルを注文する時に様々な種類が多く目移りしてしまうことでしょう。おススメやおまかせでも構わないのですが、例えば、その日の服装や身に着けているものにちなんで、選んでみるのも新しい発見があるやもしれませんよ。



 これは異世界に来てしまった若きバーテンダーのお話。またお会いできるのを心待ちにしております。



    ◇



『コスモポリタン』

ウォッカ 30ml

ホワイト・キュラソー 10ml

ライム・ジュース 10ml

クランベリー・ジュース 10ml


シェーカーに四種類すべての材料と氷を入れてシェークし、

これをカクテル・グラスに注ぐ。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋



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