「あの……本日は、臨時休業なのですが……」
サクラはおずおずとカウンター席にぽつんと座る男へ向けて声をかけた。彼の服装はくたびれており、埃や汚れがそのままのように見える。その姿はこの上なく場違いで、どこか陰りすら感じさせた。
その男はサクラの声に一切反応を示さない。ただ俯いたまま、じっとカウンターの木目に目を落としていた。
今日は、本来なら店を開ける日ではなかった。バーテンダーは、オクシデンタル伯爵家の別邸で催される晩餐会に招かれており、バー『
無論、サクラはひとりでも店を開けるべきではないかと主張した。しかし実際には、彼女はまだバーテンダーから『見習い』として扱われており、特別な事情や客の要望がない限り、客にサービスをすることは許されていない。
それはプロとしての矜持でありルールに例外はない。未熟な者が責任ある場所に立っていいわけがない。そう、当然のことではあるのだ。頭では理解している。
だが、サクラにとってはどこか不服でもあった。これまでそれなりに学び、研鑽も重ねてきた。実際にカクテルを作った経験もあるし、細やかな所作だって何度も教わってきた。もちろん、まだ足りないことは山ほどある。それでも未熟は未熟なりの誇りがある。バーテンダーの背中を見て学び、ひとつずつ技を覚えていった日々。その努力のすべてが、『まだ駄目』の一言で留め置かれるのはやはり悔しい。ほんの少しでもいい。背筋を正してカウンターに立ち、誰かに『一杯』を届けてみたかった……。そう思ってしまうのは、きっと間違いではないはずだ。
加えて、今日バーテンダーが不在であることも、サクラの機嫌を悪くしていた。ただ単に店にいないだけならまだよかった。問題はその行き先である。オクシデンタル伯爵家の別邸。つまり、あのシェリーのいる場所だ。シェリーがバーテンダーに強い好意を抱いていることなど、誰の目にも明らかだった。あの不自然ながらの距離の詰め方も、褒め言葉の端々ににじむ熱量も……すべてわかっている。それが不愉快だった。
別にサクラ自身は、バーテンダーに恋心を抱いているわけではない。……少なくとも、自分ではそう思っている。憧れはある。尊敬もしている。だが、それは恋愛感情とは別のもの。そうでなければならない。そう、間違いなく……たぶん。だからこの苛立ちは、あくまで『自分への指導時間が減る』という一点に起因しているのだ、と。そう思おうとしている。いや、むしろ、そうであってほしいと願っている。乙女心はグラスの中のカクテルのように静かに揺れ動く。
さて、そんなことはどうでもいい。憶測や嫉妬で心を波立たせている場合ではない。
今の問題は目の前にいる客である。
「……あの、お客様?」
サクラは再び、柔らかな声で呼びかけた。反応はない。男は、相変わらずカウンターの天板を見つめたまま、うつむいて動かない。
それでも彼女は声を重ねる。
「お客様……?」
その二度目の呼びかけに、男の肩がわずかに揺れた。
ゆっくりと顔が上がる。その表情は陰鬱だった。いや、それだけではない。今にも泣き崩れそうな脆さをまとったまなざしが、サクラの視線と交わった。
「……あの、どうかなさったのですか?」
思わず、その言葉が口から漏れていた。反射的ともいえる一言だった。だが、仕方のないことだった。あんな顔を見せられて、何も感じずにはいられない。たとえ名前も、事情も、何ひとつ知らない見ず知らずの客だったとしても。
「……あー、えぇとよ。その……おらがな話……聞いでくれっか?」
ようやく発された声は酷く訛っていた。言葉の調子はこの界隈ではほとんど聞かれない独特なものだった。
サクラは思わず眉をひそめる。語尾の響きや単語の揺れ方からして、地方の、それもかなり田舎の農村部あたりの出身ではないかと感じた。ひとことで言えば、聞き慣れない。言葉の意味がすっと頭に入ってこない。感情の滲んだその語調だけで、サクラはなんとなく内容を察する。聞き取りづらくはあるが話を聞いて欲しい旨の発言であることは何となくわかった。
「は、はい。私でよければ……お聞きしますよ」
サクラがそう返すと、男はかすかに頷きながらぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「んだばなぁ。おらさ、田舎の村さ出で……出稼ぎに来たんだべよ。ほでもやっぱ、あの山ん中の風景とかよ、懐かしゅうなって……たまらんぐなっでさ……」
サクラは入ってくる言葉を理解しようと懸命に頭をフル回転させた。おそらく、田舎から出てきて故郷が恋しくなってしまったのだ。郷愁の思いは誰にでもあるものである。
「故郷が懐かしくなったんですね。でしたら、一度里帰りしてみたらどうでしょうか?」
サクラは、少しだけ勇気を振り絞るように言葉を差し出した。けれど、その提案が終わらぬうちに、男の声が鋭く突き刺さる。
「んなごと、でぎるわけねぇべよっ!」
唐突に荒げられた声に、サクラの肩がわずかに跳ねた。
「おらがなぁ、なんのためさこっぢまで出稼ぎに来たと思っとるんだっ!」
男の語気には、怒りよりも焦りと悲しみが混ざっていた。
「みんなに、腹いっぺぇまんま食わせたぐて、歯ぁ食いしばっで働いでんだべ! それをなぁ、途中で放っぽり出して帰るだなんて……でぎるわげねぇべっ!」
振り絞るような言葉の連続に、サクラは一瞬返す言葉を失った。言葉の端々は荒く、訛りも強い。けれど、その熱量だけははっきりと伝わる。
サクラは考える。彼の声には、帰りたいという思いと、それを許さない現実の板ばさみがにじんでいた。きっと彼の背後には待っている家族や、期待を背負わせた故郷があるのだ。……だからこそ帰れない。
こんな時、もし店主のバーテンダーがいたならどんな一杯を差し出すだろうか。エルフの弓使いのレティリカが故郷を恋しがった時は、森の若葉と草花の香りを閉じ込めたカクテルを。船乗りには、潮風を思わせる柑橘と塩味の一杯を。
バーテンダーは、いつもカクテルで答える人だった。では、この目の前の男に出すべきはどんな一杯だろう?
田舎……。
サクラは眉を寄せた。野山の香り? それはレティリカの時に似ているけれど、それだけでは足りない気がする。石畳の割れ目から顔を覗かせる薬草、乾いた土を踏みしめて響く馬車の音、早朝の鐘とともに焚き上げられる羊の乳湯。夕暮れには、木々の隙間から差し込む薄陽の中、煙突からのぼる青白い煙が空へと溶けてゆく。焼きたてのパンとハーブの香り、魔除けの紐を編む老婆の節くれだった手……それが、村という営みの温もり。
そういう『風景』ではなく、もっと、こう、場所に囚われるのではなく田舎の人々の生活や思いを思い出せるようなカクテルを……。
その時だった。サクラの頭にあるカクテルの記憶が浮かび上がった。それは、ある肌寒い雨の日にバーテンダーが静かに差し出してくれた、温かなカクテルだった。一口含むだけで、知らないはずの懐かしさが胸に灯ったあの味。
「……お客様!」
サクラは思わず声を上げていた。
「それでしたら、故郷を思い出せるようなお酒……カクテルがあります。もしよろしければ、作らせていただけませんか?」
男は顔をしかめたまま、ふんと鼻を鳴らす。
「……故郷さ、思い出せるよな酒ぁ?」
嘲るように口の端を歪めて続けた。
「はん! そったらもん、あるわけねぇべやっ! あんなら……おらだって呑んでみてぇわ!」
了承を得たのかよくわからなかったが、とりあえず注文を受けたことにしてしまおう。
(応えてみせる。いまの自分にできる精一杯で)
サクラは静かに頷き、背筋を伸ばすとカクテル作りへと動き出した。
◇
「お待たせしました! 『マザーズ・ラブ』です!」
サクラの声は、どこか誇らしげでそれでいてどこか優しかった。カウンターに置かれた
「……んだなぁ。これがほんとに……故郷を思い出せる酒っちゅうやつなんだべか……?」
男はしばらく言葉を失ったように、そのグラスをまじまじと見つめた。
「……はぁ、見でみれや。まるで羊の乳じゃねぇが……。ほんとに、呑んでええ酒なんだべか、これ……?」
男はグラスを前に、半信半疑と不安の入り混じった目で呟いた。それは、彼の知る酒とは違いすぎたのだ。
「えと……はい、それはほとんどが
サクラは少し緊張した表情で口を開く。
「他には、
彼女の声はどこかたどたどしかったが、その中に確かな自信と想いがこもっていた。
男はその顔を一瞥し、再びグラスへと視線を戻す。しばし黙したあと、渋々とゆっくりグラスを手に取った。一瞬だけ目を閉じ、そしてそっと口をつける。
口の中にまず広がるのは、
心が少し疲れているときに飲むと、自然と肩の力が抜けていく……そんな味。甘さの奥には、ほんのりと切なさが滲んでいて、それがまた静かな優しさに変わってゆく。まるで、両手いっぱいにそっと抱き締められるような感覚。その温もりと香りはまるで『
気がつけば、男の頬には涙が伝っていた。両の目から溢れ出すそれは、押し殺していた想いが堰を切ったかのように、止めどなく零れ落ちていく。
田舎に残してきた人々の顔が浮かぶ。とりわけ、母の面影が胸に焼きついた。苦労をかけたくなくて、楽をさせてやりたくて、だから街へ出た。歯を食いしばり、休むことなど一度も考えず、ただひたすらに働き続けてきた。それが当たり前だと信じていた。男として、息子として、そうすべきだと思っていた。
だが、その張り詰めた糸は、ある日ふとしたことでぷつりと音を立てて切れた。気づけば、もう心が前に進んでいなかった。ふらりとこのバーにたどり着いたのは、きっとそれが限界だったのだ。
そして今、この目の前のカクテル『マザーズ・ラブ』と名付けられた一杯を口にした瞬間、そのすべてが溢れてしまった。温もり、香り、優しさ、そして愛情。忘れまいとしていたものより、忘れかけていたものが先に胸を突いた。
大きな愛を感じた。母親の愛をこのカクテルから感じた。
けれど、それだけではなかった。ただの材料の組み合わせが、人を泣かせるはずがない。それはきっと、彼女の『想い』だった。本当に心配してくれた。励まそうとしてくれた。目の前の一杯には、サクラが彼のためだけに捧げた真心が込められていた。その想いが、たしかにグラスを通じて伝わった。
それは、たったひとつのカクテルが放つひとつの奇跡。まさに博愛。それを『愛情』と言わず、何と呼べばいいのだろうか。
「……おらぁ……おらぁ、感動しただよ……」
男の声が震える。
「ふるさとのおっかぁの顔、思い出したっちゅうのも、そりゃ、あるけんどなぁ……。ほれよりもなぁ……あんたが、おらのこと、真剣に、真心込めて考えてくれた……。その気持ちがなにより沁みてきてだなぁ……。……ありがてぇ……ほんに、ありがてぇよ……!」
男の指先がグラスを包みこみながら小刻みに揺れていた。まるで、その温もりを手放すまいとしているかのように……。
男の涙は、止まらなかった。
サクラは、そんな彼に静かに微笑みを返す。いつもバーテンダーがしているように、安心を込めて温かく。
「……はい。私は、バーテンダーですから!」
そう胸を張るサクラの顔は、どこか母のように慈愛に満ちていた。
すると……
「……よっしゃ、決めただっ!」
男が突然、勢いよく立ち上がった。
「おめぇさ……おらの嫁になってけろっ! おらな、おめぇのためなら、山でも谷でも越えてみせっから! 必死こいて、働ぐがらよっ!」
「……えっ? ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
店内に、サクラのその日一番の大声が轟いた。
つらくなった時、落ち込んだ時、逃げ出したくなった時。そんな時には少しだけ温かい愛が欲しくなるものです。人肌はおいそれと求められませんが、代わりに人肌に温いカクテルで心を落ち着かせるのもいいかもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『マザーズ・ラブ』
ヘーゼルナッツ・リキュール 50ml
ブランデー 10ml
キャラメル・シロップ 20ml
ホット・ミルク 適量
ココア・パウダー 適量
グラスでキャラメル・シロップまでの材料をステア、
ホット・ミルクで満たしココア・パウダーを振りかける。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋