バーで愛の告白を……と、考えるカップルは少なくない。薄暗い店内に儚げな照明が灯り、ゆったりと流れる音楽が時間を緩やかに溶かしていく。この大人びた空間の中でグラスを傾ける姿は、それだけでもロマンティックなものだ。だが、さらにその場を運命的な瞬間へと昇華しようとする男性は多い。恋人未満の語らい、あるいはまだ確かでない想いを形にする場。バーには、そんな曖昧な感情が行き交うことがある。
そして、そんな場所で女性を口説こうとする男性も少なくない。よくドラマや漫画などで、バーテンダーが『あちらのお客様からです』と言ってカクテルを差し出すシーンがある。現実では、そんな粋な演出はそうそう成立しない。バーテンダーは、余計な事件や騒動を嫌い基本的に断ることが多い。
しかし、物語の中ではこの演出が人々の心を惹きつける。それは幻想のロマンであり、虚構だからこそ美しい。とはいえ、バーというのはひとり静かにグラスを傾け、自分自身と向き合うための場所でもある。邪魔されることを望まない客もいる。一人で過ごすことに意味を見出し、沈黙の中で心と対話する。そうした客にとって軽薄なナンパは、場の調和を乱す雑音に過ぎない。特に下心満載の誘いは殴り倒してもいいぐらいである。
そういう時に、暴力ではなく優雅でお洒落な対応をする方法がある。それはそっと、バーテンダーに頼み、相手にこのカクテルを渡してもらうことだ。
そのカクテルの名は、『ブルームーン』。その意味は……。
◇
「リオーヌさん! 俺と結婚してください!」
バーの静寂を切り裂くように、男の声が響いた。カウンターに座る黒衣のマダム……リオーヌを真っ直ぐに見据え、男は堂々と告白していた。
彼は冒険者ギルドの職員。かつて『ドン』の部下を務めていたが、決して評判の良い男ではなかった。仕事への姿勢は決して悪くはない。だが、女癖の悪さが問題だった。常に女性関係でトラブルを抱え、周囲から厄介者扱いされることも少なくなかった。
そして今、『ドン』の死後、まるでそれを好機と捉えたかのように、未亡人となったリオーヌに毎日のように言い寄っていた。
彼女の表情は、黒いヴェールの奥に隠されている。その沈黙が、かえって場に重くのしかかっていた。誰もが思っていた。これは、迷惑に違いない。リオーヌは未だ喪服を纏い、夫の死を悼んでいる。新しい恋愛など、微塵も考えていないはずだ。そしてこれから先も、その可能性は限りなく低いだろう。しかし、彼女は口を開かない。その黒いヴェールの奥で、いったい何を思っているのか。誰にも、窺い知ることはできなかった。
「……リオーヌさん! 俺は本気ですよ!」
再びリオーヌへと語り掛けるが、彼女はその言葉を聞いているのかすら分からない。ただ、ゆっくりとグラスを傾けるだけだった。琥珀色の液体が、淡い照明の下でわずかに揺れる。
「……確かに『ドン』が亡くなってから、まだ早いとは思います。でも、そろそろ立ち直って、新しい愛に生きてもいい頃じゃないですか?」
男の声には、自信にも似た強引さが滲んでいた。
「リオーヌさんはまだ若い。それに、『ドン』だってリオーヌさんが幸せになることを望んでいるはずですよ!」
勝手な言い分だった。バーテンダーはこれまで口を出さず、ただ静かに様子を見守っていた。だが、その言葉が響いた瞬間、彼はわずかに眉をひそめ、拭いていたグラスをカウンターへと置いた。一言、諫めようと口を開きかけたその時、リオーヌが、静かに手を上げた。その動作は、まるでバーテンダーの行動を制止するかのようだった。
「……マスター。彼に『ブルームーン』を」
リオーヌは静かに言った。その声は、ひどく穏やかで、それでいて断固とした冷ややかさを秘めていた。
バーテンダーは何も言わず、ただゆっくりと頷くだけだった。それだけで、この場の流れを理解した者は全てを察した。
しかし、男は違った。その言葉に脈アリと見たのか、彼は嬉々としてリオーヌの隣の席へいそいそと座る。
「……やっと応えてくれたんですね! いやぁ嬉しいな!」
彼は弾むような声で、リオーヌの方へと満面の笑顔を向ける。
「頼まれたのはお酒ですか? リオーヌさんのオススメですかね? 楽しみだなぁ!」
だが、リオーヌは微動だにしなかった。
そんな男の浮かれた様子を横目に、バーテンダーは淡々とカクテルの準備を進める。
シャカシャカシャカシャカ……
静かな音が辺りに響き渡る。
やがて、バーテンダーはその動作を止め、
最後に、細やかに切り取られた
リオーヌは、カクテルの完成を静かに見届けると、ゆっくりと立ち上がった。黒い衣がふわりと静かに揺れる。彼女は、一切の迷いなく出口へと歩を進める。それに気付いた男が、慌てて声を掛けようと身を乗り出したその瞬間。
「お待たせ致しました。『ブルームーン』でございます」
バーテンダーの落ち着いた声が、場の空気を静かに支配する。
「えっ、あ、はい……」
男は反射的に返事をし、注意が逸れる。その隙に、リオーヌの姿は音もなくバーの扉を潜った。微かな夜風が吹き、彼女の黒い衣が闇夜に溶けるように揺らぐ。まるで、影が静かに夜へと還っていくかのように……。後には、唖然とした男がただ一人取り残される。
「な、なんなんだよ一体! キミもちょっとさ、声かけるタイミングとか考えてくれないかな!」
男は苛立ちを隠しもせず、乱暴に席へ座りなおす。しかし、バーテンダーはさも気にしていないように、ただ淡々とグラスを布巾で拭く作業へと戻る。その静かな仕草は、まるで騒ぎ立てる男の言葉など存在していないかのようだった。
男の前には、一杯のカクテル。妖艶な雰囲気を纏う、淡い紫色の美しい一杯『ブルームーン』。
「まったく、リオーヌさんはどうしてこんな酒を俺に飲ませようとしたんだ? 毒々しい色して……嫌がらせか?」
男はグラスを見下ろしながら呟く。淡い光の下で、紫の液体が微かに揺れた。意を決し、ゆっくりと口をつける。
まず広がるのは芳醇な香り。花束を抱えたような豊かな香気が、一瞬にして口いっぱいに膨らみ、鼻へと抜けていく。華やかでありながらも、どこか儚い。次に感じるのは甘味。
男はゆっくりとグラスを置き眉をひそめる。
「……とても香りはいいけど、少し甘いな、これ」
かすかな戸惑いが、言葉の端々に滲む。
「……お客様。そちらの『ブルームーン』の意味はご存知でしょうか」
バーテンダーは静かに語り始めた。男はグラスの中の紫色の液体をじっと見つめる。
「意味? 酒に意味なんてあるのか?」
バーテンダーは、僅かに微笑みながら答える。
「はい、ございます。マダムが何故お客様にそのカクテルを選ばれたのか。その意味を知れば、彼女の真意が見えてくるやもしれません」
男は息をつき、カクテルを再び見つめる。淡い紫の色が、カウンターの灯りに静かに揺れる。
「……なるほど。それでその意味ってなんだ?」
バーテンダーは、拭いていたグラスを静かにカウンターへと置くと、カクテルに使用した一本の酒瓶を手に取った。
「こちらは
彼は穏やかに言葉を続ける。
「意味は『完全なる愛』。その豊かな香りから、『飲む香水』とまで称される、華やかでとても優美なお酒です。この『ブルームーン』のカクテル言葉も、そこから転じて『完全なる愛』となっております」
男はグラスを手に取り、じっとカクテルを見つめる。
「……『完全なる愛』か」
彼は一息つき、言葉を紡ぐ。
「ということは、リオーヌさんは俺の愛に応えてくれた……そういうことだな!」
その声はどこか高揚していた。
バーテンダーが男の顔を見つめる。その視線はどことなく冷ややかでまるで、この場の結末をすでに悟っているかのようだった。
「……実は、『ブルームーン』にはもうひとつカクテル言葉がございます」
バーテンダーは静かに言葉を紡ぐ。
「それは『叶わぬ恋』、『できない相談』」
男は眉をひそめ、グラスの中の淡い紫をじっと見つめる。
「ひと月の間に二度も満月が訪れる現象『ブルームーン』から来ております。それは、決して存在することがないもの。そんなことは、有り得ないという意味合いから生まれたものです」
「……は? でも、『完全なる愛』って意味なんだろ?」
男の困惑が、言葉にも現れていた。このカクテルの持つ意味は、矛盾している。
「はい、その通りです。このカクテルは、二面性を持つお酒なのです。果たしてお客様は、一体どちらの意味でマダムから託されたのでしょうかね?」
男はグラスの中の淡い紫をじっと見つめながら、黙り込んでしまった。そして、うんうんと唸りはじめてしまった。
(まあ、バーで女性が『ブルームーン』を頼んだ時は基本的にお断りのサインなのですがね……)
バーテンダーは何も言わず、ただ静かにグラスを磨くだけだった。
その淡い紫のように、バーの夜の闇は深く静かに沈んでいくのだった。
一人グラスを傾けたくなる時に限って、お邪魔虫は現れるものです。意思を強く表明するのも結構ですが、折角のバーなので断り方も粋に、お洒落に演出するのも素敵かもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『ブルームーン』
ドライ・ジン 30ml
ヴァイオレット・リキュール(パルフェ・タムール) 15ml
レモン・ジュース 15ml
レモン・ピール 1個
シェーカーにレモン・ピール以外の材料と氷を入れてシェークし、
カクテル・グラスに注ぎ入れ、そこにレモン・ピールを絞り入れる。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋