目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

40杯目『デビル』

 それは、とある農村での出来事……。


 太陽は毎日、空に顔を出していた。だが、その光は恵みではなく容赦なき灼熱だった。この地方では何ヶ月もの間雨が降らず、土は割れ、葉は萎れ、農作物の成長は見る影もなく停滞していた。

 一年だけならば、まだ良かったのかもしれない。けれど、これは『例年通り』だった。過去数年に渡り、この村は不作という名の呪いに縛られていた。収穫量は減り、出荷できる作物はますます減少。売り物にならない野菜は捨てるしかなく、畑の労働は空振りに終わることが続いた。


 そして、何より……。村の収益は極端に低下し、各家庭では十分な食事を子供に与えることもままならなかった。干からびた土地だけでなく、村人たちの心までもがひと粒ずつ崩れていこうとしていた。


 そんな折、ある若者が村の長たちが集う夕刻の集会でひとつの提案を口にした。


 『雨乞い』をいたしましょう、と。


 もし雨が降れば、畑は再び息を吹き返し野菜や穀物も育つだろう。すぐに裕福にはなれなくとも、せめて昔と同じ水準の暮らしが戻ってくるかもしれない。


 提案は突拍子もなく聞こえるようだったが、誰も笑わなかった。むしろ、藁にも縋る思いだった。長らく干ばつに苦しんできた村人たちは、若者の提案にうなずいた。そして決まった。


 数日後、一人の巫女が遠方より静かに村へと訪れた。


 とある夜。


 巫女は村の中央の広場に、奇妙な文様で魔法陣を描いていた。その周囲には篝火が焚かれ、神前への供物も静かに並べられている。


 村人たちは集まり、祈りの儀を見守る。どこか神事のようでいて、それまでに見たことのない光景だった。祝詞のような呪文が小さな声で言祝がれ、轟々と燃える炎に照らされながら、巫女は舞を始める。その姿は浮世離れしており、どこか夢の中のようだった。白い衣装が風に揺れ、舞の軌跡が空気を震わせる。村人たちはその神秘的な舞と光景に目を奪われ、ただ、息を飲むしかなかった。


 そして、数刻が経った。


 遠くの空に、ぽつりぽつりと黒雲が現れ始めた。誰かが叫ぶ。「雨雲だ!」ざわめきが広がり、村人たちは諸手を挙げて喜び合った。希望の兆しに胸を打たれ、誰もが空を仰いだ。


 だが、その瞬間だった。


 稲光が夜空を切り裂いた。


 同時に地面に描かれていた魔法陣が、ぼんやりと光を帯び始める。淡く、ゆっくりと、まるで目を覚ますかのようにその輪郭が脈動し始めた。そして、魔法陣の中から異形の影がぞろりと姿を現し始める。鋭い爪、曲がった角、羽根のような器官、ねじれた四肢。その姿は生き物というにはあまりに歪で、悪夢の集合体だった。化け物たちは、魔法陣から這い出すと、周囲に群がっていた村人たちへ我先にと襲い掛かる。


 悲鳴。衝突。逃走。地響き。


 地獄絵図が始まった。


 走り出す人々。捕らえられ、引き裂かれる者。辺りには流血と恐怖が広がるばかり。篝火の炎が風にあおられ、まるで炎そのものが怯えているようだった。


 そして、村の中央。魔法陣のただ一角に、巫女だけが残っていた。


 彼女はゆっくりと顔を上げると、血と炎の中で静かに嘲笑った。



    ◇



「……怖いですね。結局その巫女って何者だったんですか?」


 サクラは手にしたグラスを拭くことも忘れていた。目の前の女戦士マネアの話に、思わず引き込まれてしまったのだ。店内には冷たい風が吹き込んでくるわけでもない。けれど、空気のどこかが静かに冷えていた。


 今日は朝から湿気が立ちこめており、日中はうだるような蒸し暑さだった。そのため、開店時間と同時にマネアと、相棒であるエルフの弓使いレティリカは、早々に『Etoileエトワール』へと足を運んできた。「さすがに暑すぎるよ……」そんな調子で入ってきた彼女たちは、いつも通りの様子だったが……ふいにマネアが思いつきのように言った。「涼しさが足りないならさ、怖い話でもする? ゾッとするヤツ」最初は冗談かと思われたその提案が案外乗り気な反応を呼び、各々が持ちネタを披露していく流れになっていた。


「いやー、なんだったんだろうねぇ? 悪魔崇拝者って言うの? なんか、そういうのだったんじゃないかなー?」


 マネアは肩をすくめながら語り、詳細については自信なさげに首をかしげる。語り手であるはずなのに、どこか他人事のようにぼやいている。その様子を見ていたレティリカが、横目でグラスを見ながら補足を始めた。


「邪教神官だったのかもしれませんね。化け物も低級の悪魔インプくらいのものだったでしょうし……。村人を供物として邪神に捧げた儀式だった可能性も考えられます」


 その口調はいつも通り静かだったが、語る内容の陰惨さが空気を少しだけ冷やす。


「悪魔ですか……。でもそれって、本当にあった話なんですか?」

「うーん……。どうだろうねぇ。子供の頃に聞いた話だから、実際の事件だったのかはよく分からないかも。でもさ、こういう怖い話って、『誰かが体験した気がする』くらいがちょうどいいんじゃない?」


 マネアが苦笑いしながらそう言うと、レティリカもふっと目を細めた。


 その話を横目に聞いていたバーテンダーは、ふと思った。夏の暑さをしのぐために『怪談話』を語る習慣。それはどの世界にもあるのだな、と。ささやかな涼を求めて肝を冷やす。脳裏にぞくっと走る感覚を、氷や冷風よりも頼りにする。人間の営みというものは、異世界であっても意外と似通っている。そんなことに気づくと、妙な親近感すら湧いてくる。


「おそらく実際にあった事件でしょう。一〇〇年ほど前に、似たような話を聞いたことがあります。細部までは覚えておりませんが……当時の冒険者たちが解決したはずです」


 レティリカが口を開いた。その声はどこか遠くを見ているようで、語るというより思い出しているようだった。


 確かに、実際の事件が怪談話のベースになっているというのはよくあることだ。けれど、『実際に知っている者』が居るとなると、どうしても真相が暴かれやすくなる。それは、怪談としては少し情緒が失われてしまう……そう、バーテンダーは思った。


 そして、ふと疑問が湧く。レティリカは一体、何歳なのだろうか。見た目はどう見ても一〇代の美しい少女。それでも先ほどの口ぶりからすれば、一〇〇年以上は生きているのだろう。


 しかし……


(さすがに年齢を聞くのは……)


 バーテンダーはそっと苦笑する。


「あー、レティリカが知ってる話だったか。まあ、あたしより……だしね。知ってて当然か」


 ピキッと、誰の耳にも聞こえたわけではないが、確かに空気が割れた音が響いたように感じられた。


「……そうですね、貴女よりは長生きしてますね! ところでマネアちゃんは、もう『』は取れたのかしら? そろそろ『』は卒業しなきゃだめですよ?」


 ピキキキッと、今度はグラスが震えた気がした。サクラが思わず、布でグラスの縁をぐっと押さえてしまうほどの緊張感。二人の間に、奇妙な静寂が流れ始めた。火花が見えないだけで、そこはもう言葉の刃の応酬場と化していた。


「そ、そういえば! 悪魔って、ほんと怖いですよね! お、お二人は、今までに悪魔とかに……出会ったことって……ありますか?」


 サクラが話題を変えにかかる。声は上ずり、目は泳ぎ、汗はうっすら滲んでいる。


 マネアとレティリカは、同時にサクラへと冷たい視線を向ける。だが次の瞬間、互いに顔を背けるようにして。

「はぁ……」「……まったくもう」

二人は深く、ほぼ同時にため息を吐いた。


「まあ、低級の悪魔インプ程度なら出会ったことはあるよ。いやー、小鬼ゴブリンに羽根が生えたみたいなもんさね」


 マネアが笑いながら肩をすくめた。言葉の調子は軽いが、語っているのは実際に悪魔との接触体験である。


「あれって討伐依頼だったでしょうか? ダンジョンの奥でしたか?」


 レティリカが問いかけると、二人の会話は過去の冒険譚へと花を咲かせた。怪談の名残が漂う空気に、少しだけ戦場の緊張が混ざる。


 サクラはようやくその場の雰囲気が穏やかに戻ったことに安堵していた。先ほどの言葉の応酬は、氷より冷たい空気を生んでいたのだから。


 そんな中、マネアとレティリカの前にバーテンダーが逆三角形のグラスカクテル・グラスを静かに置いた。先程から何かを作っていた様子だったが、この一杯を仕上げていたらしい。


「お二人の話を拝聴しましてお作りしました。カクテルにも、実は『悪魔』の名を持つものがございます。『エル・ディアブロ』もございますが……本日は、より涼しげな印象のこちらをご用意致しました」


 バーテンダーの声は穏やかで、どこか怪談の後処理を施すような優しさが宿っていた。


 差し出されたグラスには、鮮やかな淡い緑色が満ちていた。新緑のように瑞々しく、光を受けてきらきらと輝くその色は、まるで春風のなかで芽吹いた命そのもの。

 だが、その名は……。


「このカクテルはその名も『デビル』。まごうことなき、カクテル界の『悪魔』でございます。どうぞお試しください」


 バーテンダーの声に促され、マネアとレティリカは顔を見合わせ、どこか楽しげに微笑んで、そして、同時にグラスを手に取りそっと口をつける。


 次の瞬間。


 喉を突き抜けたのは、薄荷ミントの冷気だった。爽快な香りが鼻へと抜け、火照った身体を包み込むように冷たい感覚が走る。だが、その直後、ピリリッと舌先に辛味が襲いかかる。思わず目が少し開くほどの刺激。この唐突な悪戯の正体は、ほんの少量振りかけられた唐辛子レッド・ペッパーの粉末だった。その刺激が消えないうちに、今度は白葡萄蒸留酒ブランデーの甘みと奥深いコクが広がってくる。アルコールの熱がじわじわと喉元から胸へと降りていき、さっきまでの涼を今度は熱で塗り替える。

 冷気と灼熱。まったく相反する二つの感覚が、まるでひとりの悪魔が二枚舌で囁くように、交錯して襲いかかってくる。そのあまりに複雑で、掴みどころのない味わいは、ただのカクテルではなかった。


「いやー、これすごいね。冷たいのに、どこか熱い」


 グラスを口元から離しながら、マネアが頬をしかめた。驚きと興奮が混ざった表情に、火照った顔が少しだけ落ち着いている。


「不思議な味ですね。まるで喉元に短剣を突きつけられているような……。肝は冷えているのに、傷口だけが熱くて痛む……そんな感じです。少し怖い……」


 レティリカの声にはどこか官能的な恐怖が宿っていた。その比喩は、涼しさを越えて緊張を生むものだった。


 バーテンダーはグラスを見つめながら静かに言う。


「……まさに悪魔の微笑みと言ったところでしょうか。爽快感がありながらも、辛味が舌を刺し、アルコールの熱が体をじんわりと焼く。冷と熱。二つの矛盾が、絶妙に調和した複雑な一杯です」


 二人は頷きながら、もう一度グラスを傾ける。舌で確かめるように、その味をじっくりと飲み干していく。


 そして、バーテンダーはゆっくりと微笑を浮かべながら言葉を紡いだ。


「もし、次に『悪魔』の討伐依頼などがございましたら、ぜひこのカクテルをご注文ください。きっと打ち勝つことができる……まあ、願掛けのようなものですが。そういうゲン担ぎも、時には頼りになるものです」


 軽口なのか、祈りなのか。その言葉に、マネアもレティリカも少しだけ笑った。


 グラスの中の緑色は、まるで何かを嘲笑うかのように静かに波打っていた。




 暑い時には怪談話も結構ですが、カクテルはいかがでしょうか。ミントの爽快さを感じられれば身体の中から冷える事間違いなしです。後ろの方とご一緒に是非バーへとお越しください……。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『デビル』

ブランデー 40ml

グリーン・ミント・リキュール 20ml

レッド・ペッパー 少々


シェーカーにブランデー、グリーン・ミント・リキュールと氷を入れてシェーク。

これをカクテル・グラスに注ぎ入れる。

レッド・ペッパーを振りかけるレシピもある。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?