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39杯目『電気胡椒博士』

「だーっ! 無理無理無理! 私にはもう無理! 才能ない! 終了! ご苦労様でした! またのお越しをお待ちしております! はい、閉廷!」


 バー『Etoileエトワール』の空気が、叫び声と共に弾けた。


 盛大にボサボサの黒髪を両手でかき乱しながら、カウンターに倒れ込む女性。ヘイズマリィは錬金術師見習いにして、複雑すぎる素材調合と日替わりの爆発事故に絶えず振り回されている苦労人だった。彼女の額はカウンターにぺったりとくっついていて、まるで『自我を床に返品したい』とでも言わんばかりであった。肩は小刻みに震えている。絶望か怒りか、あるいは自業自得による自暴自棄か。


 そんな彼女の姿をこのバーで何度見かけただろうか。ヘイズマリィが自らの限界に爆発寸前の顔を貼り付けてカウンターに突っ伏す。それは『Etoileエトワール』の風物詩と言っても過言ではない。


 薬品の調合に失敗した日。

 研究の進展が霧散した日。

 誰かに無理解な言葉を浴びせられた日。


 そんな夜には必ず彼女は店へやって来て、大声と黒髪をばさばさと振り乱して『才能がない』『人として終わっている』などと盛大に喚いたあげく、カウンターに頬を押しつけるように潰れる。


 そしてそういう時に限って、店にはいつも同じ二人が居合わせていることが多かった。女戦士のマネア。そして、エルフの弓使いレティリカ。


「なあに? また失敗したのかい? いやー、懲りないねぇ?」


 マネアがいつもの調子で軽口を飛ばす。まるで『挨拶のような失敗』に対する、これまた『決まり文句のような茶化し』である。ある意味様式美。が、隣でグラスを傾けていたレティリカが、何のためらいもなく肘でマネアの脇腹を小突いた。


「痛っ……な、何よー」

「言葉選びって……大切ですよ?」


 レティリカはあくまで涼しげに。マネアは仕方なさそうに肩をすくめる。そして、カウンターに突っ伏したままのヘイズマリィはちょっとだけ肩を震わせた。笑っていたのかもしれない。これもいつもの光景。


「……大丈夫ですよ、ヘイズマリィ。誰しも失敗することはありますよ」


 レティリカがそっと声を掛ける。その調子はいつもと変わらず穏やかで、耳に心地よく、まるで森を抜ける風のようだった。


 ヘイズマリィが研究室の混乱を引きずりながら飛び込んでくるのと同じくらい、レティリカのこの言葉も日常の一部だった。だがその後には、決まって『反対色の暴言』が飛んでくる。


「いやー、でもさ? 失敗するにも程ってもんがあるじゃん? 今までの失敗、何件目よ? 一〇〇? 一〇〇〇? ……これ、もはや才能でしょ。失敗する才能!」


 マネアが悪気なく笑いながら口を挟む。その言葉は確かに軽率ではあった。


 案の定……


「……痛っ! わ、叩く? 痛いってば! ちょ、拳はやめて!」


 レティリカが無言で握り拳を作り、マネアの脇腹をリズムよく打ち始めた。しかも無表情。無慈悲。無停止。


「言葉選びって……何度言ったら学ぶんですか貴女は?」

「痛いって! 学ぶけど! 今は忘れてたの!」

「思い出させてあげましょうか?」


 拳。拳。拳。


 そのやりとりを、サクラはグラスを磨きながら微笑んで見ていた。口には出さないが、きっと何度目かの『今日もこのバーは平和だ』と思っていたのだろう。騒がしいけれど、崩れすぎず、傷つけず、ちゃんと寄り添う。変わらないということ。喧騒と沈黙、毒と優しさ。それらが同じ空気の中にあるこの場所は、彼女たちにとって『揺れても壊れない』場所なのだ。そして、それがどんなに尊いことかをサクラは知っていた。


「はぁ……。マスターくん、なんとかしてくんない?」


 カウンターの奥でグラスを並べていたバーテンダーに、ヘイズマリィが顔を伏せたまま声を漏らす。そのトーンは言葉こそ崩れているが、心底からの救難信号のようでもあった。


「え? 私ですか……?」


 いきなり話を振られたバーテンダーは、少しだけ肩をすくめるようにして反応する。驚いたふりをしてはいるが、その表情は落ち着いていて、ほんのりと笑みさえ浮かんでいる。おそらく、予想していたことだったのだろう。

 この『Etoileエトワール』において、悩みを抱えた客の多くが真っ先に頼る相手。それがバーテンダーなのだ。無理難題をふいに突きつけられても、突拍子もないカクテルの注文をされても、誰かの涙の理由を探ることになっても、バーテンダーは静かに耳を傾けるだけだった。そしてその耳には、氷の音も涙の音も、怒りの音も、全部ちゃんと聞こえている。


「……今日も、この流れですね」


 サクラが誰にも聞こえない程小さく呟いた。


「ほら、あれ。『パスティス・ウォーター』だったっけ? あれみたいに私の才能を開花させるような……ほら、こう、地の底から奇跡の発想が溢れ出して止まらなくなるような! そんな素敵なカクテル、作ってよ!」


 まるで神頼みのようにヘイズマリィが叫ぶ。


 カウンターから半分身を乗り出し、手をぐるぐるとを回すようにして空想をぶちまけるその姿は、どこか滑稽で笑みさえ零れそうな様子だった。


 サクラは黙ってその様子を見守っていた。『無茶な注文』という意味では、これはもはや日常茶飯事。客の我儘な要望もここではいつもの光景。そして、それに答えをだしてくれるのがバーテンダーなのだ。


「えぇ……。そう言われましても……」


 しかし、今日のバーテンダーは珍しく困ったような声色で返した。


 沈黙が、じわじわと周囲を浸していった。


 ヘイズマリィはカウンターに顔を押しつけたまま、何度も深いため息をつき、サクラはグラス拭きの手を止め場の様子を静かに見守っていた。バーテンダーは、何かを探すように指先をそっと胸元で組んだまま動かない。


 そして、やがて……


「……でしたら、少し……いえ、だいぶ変わったカクテルがあるにはあるのですが……」


 口を開いたバーテンダーの声は、普段よりずっとゆっくりで言葉の選び方も慎重だった。


「……その……お試しになりますか?」


 普段は必要以上に客を困らせない、穏やかで誠実な彼の口調に、珍しく迷いが滲んでいた。まるで、客に薦めるには少しばかり刺激が強すぎる何かを思い出したかのようだった。


「何でもいいよ! 私の脳天を揺さぶるような物だったら何でも!」


 ヘイズマリィは、カウンターの木目に顔をこすりつけながら、片手を上げて投げやりに叫んだ。その様子はもはや、どうにでもなれ式、才能爆誕祈願の儀式である。


 バーテンダーは短く呼吸を整えると、いつもの落ち着いた声で返す。


「……承知致しました。少々お待ち下さい」


 そして、後ろの酒棚バックバーへと手を伸ばす。


 用意されたボトルは、光を帯びた琥珀色の酒がゆらゆらと揺れている瓶。そのラベルには、この世界のどこでも見たことのない、くねった記号のような異国の文字が刻まれていた。大きめのグラスタンブラー・グラスがカウンターに置かれ、氷が丁寧に敷き詰められる。その上に琥珀色の液体がゆっくりと注がれ、冷たいガラスの内側を滑るように満ちてゆく。

 次に用意されたのは奇妙な金属筒。そこから注がれた液体は、まさかの『黒』。それも、鈍く艶めく漆黒。黒の液体が琥珀色の酒に流れ込むと、グラスの中が急速に染め変わる。まるで、琥珀の記憶が闇に塗り替えられてゆくかのように。淡い泡がぷつぷつと弾け、静かな気泡音が辺りの空気に染み渡っていく。その音は不思議と心地よく、耳元でささやくようにも感じられた。

 バーテンダーは長細いスプーンバー・スプーンをグラスに差し入れ、ゆっくりと、音もなくかき混ぜるステア。ヘイズマリィの瞳が、未確認物体を凝視するようにグラスに吸い寄せられていた。


「……お待たせ致しました。『電気胡椒博士でんきこしょうはかせ』でございます」


 その名が告げられた瞬間、グラスに浮かんだ泡が一つ、パチンと弾けた。それはまるで、『目覚めを促す信号音』のようだった。

 差し出されたグラスの中には、漆黒の液体が静かに沈んでいた。まるで深淵そのもののような色。光すら吸い込むほど、完全に黒で支配されたカクテル。その黒は、ただ暗いのではない。見る者の視線を絡めとるような、妙に粘度を感じさせる深さを持っていた。


 とはいえ、黒いカクテル自体はさほど珍しいものではない。コーラと呼ばれる甘味の強い炭酸飲料をベースにしたものは、概して色が濃くなる。サクラは目の前の液体にそっと視線を落とす。この『電気胡椒博士』も、そうした副材料で構成されているのだろうと思った。


「デンキ……? なんだって?」


 ヘイズマリィが、やや眉をひそめながら聞き返す。


 バーテンダーは静かに、けれど確かに名を告げた。


「……『電気胡椒博士でんきこしょうはかせ』でございます」

「ナニソレ? どういう意味?」


 その場にいた誰もが、つられるように首を傾げた。レティリカもマネアも、サクラでさえも、小さく目を細める。


「とある高名なバーで創作されたブレンド・リキュールと、独特な風味と味わいの炭酸飲料によるカクテルです。両者ともに詳細な材料は公開されておらず、作り方も非公開。すべてが謎に包まれている不思議な一杯です」


 バーテンダーは淡々と語ったが、その内容は謎の上にさらに謎を塗り重ねるようだった。


「へぇ……謎のカクテルかぁ……」


 ヘイズマリィは思わずグラスを覗き込む。漆黒の液面には細かな気泡が立ち上り、光を反射してわずかに赤みを宿していた。

 ほんの一瞬、彼女の表情が真剣になる。まるで、実験前の材料を慎重に観察する錬金術師のように。そして躊躇なく、ひとくち。その中身に口をつけた。


 口に含んだ瞬間に、ふわりと広がるのは様々な薬草が複雑に絡み合ったような、独特な香味と甘い味わい。その余韻を追うように、スパイシーで複雑なアルコールの熱が舌の奥へと広がっていく。まるで、古びた薬局の棚に並んだ様々な薬瓶たちが、炭酸の泡と共に跳ねて語り合うかのようだった。甘さの中にはピリっとした刺激が潜んでいる。けれど不快ではない。むしろ『胡椒博士』という名が示すように、その一杯には知性と遊び心が、わずかに危険を孕んだ魅力として宿っていた。

 後味にはほんのりとした苦味と、独特なレトロな甘味が口の奥に残り続ける。それはどこか懐かしいようで、癖になるようなそんな後味だった。奇抜な構成に見えて驚くほど全体の調和が取れている。どれも個性が強いはずなのに、互いに反発することなく、むしろ互いを引き立てている。

 そう、それはまるで『変わり者だけど憎めない』、そんな人物を思わせるような一杯。まるで、自分のなかに不器用さも爆発も宿していて、それでも周りから愛される存在。それは、少し『変わり者』のヘイズマリィを、そっくりそのままカクテルに映したような味わいだった。


「うへぇ……不思議な味……。なんかすんごい薬臭い……」


 グラスを口元から離しながら、ヘイズマリィが眉をひそめる。まるで、未知の液体を口にした研究者の困惑そのものだった。


「非常に味が複雑で薬のような香味が特徴でございますね」


 バーテンダーは静かに応える。


「……でも。なんか……癖になりそう」


 ヘイズマリィがぽつりとこぼす。眉間のしわは消えかけていて、目元にはわずかな好奇の光が灯り始めていた。


「そういうお客様も多くいらっしゃいます。この薬のような味わいを好まれる方も決して少なくありません。蓼食う虫も好き好きと言いましょうか。どんな風変わりなものでも、誰かにとっては心地よい味になります」

「へぇ……」


 思わずグラスの底を覗き込む。


「……なんかわかる気がするよ。誰かにとっては『混乱』でも、別の誰かには『ひらめき』になるんだね……この味も……私も……」


 ヘイズマリィはゆっくりと、もう一口だけグラスを傾けた。口元には、はじめて少しだけ笑みが浮かんでいた。


「はい。ヘイズマリィ様がたとえ、どんなに失敗して味の悪いポーションを作られたとしても、それを好みとされる方は、きっと、どこかにはいらっしゃいます」


 バーテンダーは静かに、しかし微笑を浮かべてそう答えた。


「だよねぇ! きっといるよねぇ! 私のポーションを好きって言ってくれる人!」


 ヘイズマリィが胸を張って、満足そうにうなずく。


 だが、次の瞬間……


「……ん? ちょっと……それってどういう意味? 失敗して味の悪いって、今さら強調した?」


 顔をしかめて、バーテンダーに鋭く目を向ける。


「……失言でございました。どうぞお忘れください」


 即座に深々と頭を下げるその姿は、どこか滑稽でいて、少しお茶目さを残したように感じられた。


「ぷっ……」

「ふふっ……」


 その場に居合わせた者たちが、互いに顔を見合わせながら吹き出した。笑みと笑い声が、カウンターの間を優しく跳ねていく。そこには、失敗を笑って受け止める空気があった。そして、それ以上に失敗を共に笑えるだけの、確かな絆も。




 人生に失敗はつきものです。何度躓いて失敗しても、また立ち上がればよいのです。次に立ち上がる時は躓く前よりきっと少しだけ成長していることでしょう。そして、そんな時には美味しいカクテルを揺らすのも悪くないかもしれません。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『電気胡椒博士』

電気ブラン 30ml

ドクター・ペッパー 適量


氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。


カクテルレシピサイト 「カクテルタイプ」より抜粋



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