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第24話 お願いだから離れないで

 ナデシコはかつかつと、迷いのない足取りで離宮へ向かう。ネオンはその背中を追いかけて、必死な声で説得をしていた。


「ナデシコ、お願いだから私も連れて行ってくれ! 君一人じゃ危なすぎる!」


 気のせいだろうか。怜悧な声は子供の泣き声を思わせるほどに頼りなくて、弱々しい。

 ネオン自身は堂々と天導教と対立しているのに、身近な者が渦中に飛び込もうとすれば、その相貌はあっけなく崩れてしまう。ネオンのいびつな強さと弱さを見るたびに、ナデシコの脳裏にはしおれた造花のイメージがよぎる。


「だめ。あなたはイウリィと待ってて。変な宗教家たちと話をしてくるだけなんだから、そう心配しなくても大丈夫よ」

「でも――」

「そもそもあなたの顔、天導教に知られているでしょ。あたし一人の方が都合がいいのよ。お願い、わかって」


 ネオンは下唇を噛んで押し黙る。――ナデシコの言っていることは正しい。わがままを訴えるだけ、ナデシコの時間を奪ってしまう。どれだけ不安でたまらなくても、今回は待つしかない。固く握られた拳は、何よりも雄弁にネオンの無念を語っていた。


「……わかった。君の言うとおりにする」

「ええ、ありがと」

「でも、怖いんだ――」


 ネオンの声がとうとう震える。ナデシコは思わず、つっけんどんに突き放していた歩みを止めて、振り返った。

 夕焼けを背負ったネオンはひどく怯えていた。さながら迷子の幼子のように俯いて、じっと足下を見つめている。

 視線の先にあるのは、手入れはされつつも下草の生い茂った土道。離宮を隠すためにあえて整えられていない道が、ネオンの瞳いっぱいに映る。穏やかながら、少しだけ冷たさをはらんだ風が二人を包む。ネオンは震える声で、堰を切ったように不安を訴えた。


「怖い、怖いんだ。ナデシコがもし、私の前から消えてしまったら、と思うと怖くて仕方ない。この気持ちが君への侮りになるのはわかっているけれど、私はもう、ナデシコがいてくれないと耐えられない――」


 何に耐えられないのか、明確な言葉はなかった。ネオンはそれきり何も言わずに、恐怖へ耐えるように腕を掴んでいる。

 ――ふう、とナデシコの口からため息がこぼれ落ちた。ネオンはぴくりと小さく身体を震わせる。ナデシコはつかつかと、足音を立ててネオンに近寄り、少女の小さな頭を胸に抱えた。


「え……?」

「――ほんっと、変なところでビビりなんだから」


 心臓の音を聞かせるように身体を密着させる。これで少しは安心するだろうか。

 可愛い子。不意に、そんな思いが湧いてくる。そんなに心配しなくても、離宮は――ネオンとイウリィの隣はとっくの昔に、ナデシコが帰ると決めた場所になっているのに。


「あたしの意地っ張り、ネオンならもうとっくにわかってるでしょ。師匠にあんな啖呵切ったんだから、意地でも五体満足で帰ってくるわよ」


 ナデシコがそう言えば、ネオンのこわばっていた身体からふっと力が抜ける。そうだね、とネオンは小さな声で呟いて、ナデシコの背中に腕を回す。

 ネオンがどうして、ここまで怯えているのか。もしかしたらネオン自身も知らないのかもしれない、とナデシコはふと思った。

 きっと今の言葉は、以前のネオンが曖昧な笑顔で押し隠していた本心だ。けれど本音を見せることと、自分の心のわけを知っていることはイコールではない。なにせネオンは自分の心が捉えられなくなるだけの傷を過去に負っているのだから。


 ……それでも、ナデシコのうちには確かに、求められる喜びがあった。弱々しい仕草で求められる、ただここにいてほしいと存在を求められる。初めての経験にナデシコは喜びを感じて、けれど認めていいのかわからない。慣れない感情の中でも、漂うほの暗さは無視しがたかった。

 ネオンの心の理由を考えずに、ただ喜びを享受していれば、いつか薄暗い沼の底に落ちてしまうのではないか――。そんな不安を抱きつつも、すがりついているネオンを振りほどけない。


「……弱虫なのね、あたしの旦那さまは」

「うん、弱い。私は弱いよ。一人だと、立っていることさえままならない」


 求められる喜びは、果たして受け入れていいものなのか。今のナデシコにはわからない。ならせめて、ネオンが立ち続けるよすがになろう。

 ナデシコは一人、心の中で決めると、ネオンの黒髪をくしゃりとかき混ぜた。クエリと会う前に綺麗にしたとはいえ、全身に浴びていた返り血の鉄臭さはまだかすかに残っている。

 ――小さく、空気だけを震わせる深呼吸をして、ナデシコも自分の弱さを吐露した。


「ま、あたしも人のことは言えないんだけれどね。今だってお父さんから逃げたんだもの」

「逃げた……?」

「ええ。どうしてお父さんがあたしをシュトラルに送ったのか、ずっと知りたかった。それなのに、お父さんには何も聞かずに出てきたわ。母親があたしを見限ってもお父さんはあたしを見捨てなかったけれど、とうとういらなくなったんじゃないか――そう考えちゃうから、お父さんと話すのが怖くて仕方ない」


 オドゥとは何でも言い合える。弱音も怒りも、あるがままの本音を何もかもさらけ出せる。それなのに、エンラを前にすると本心を伝えられない。

 夕日が落ちて空が一気に宵闇に染まっていく。ネオンの黒髪は夜に溶けて、ナデシコの白銀髪は月明かりに淡く照らされる。ネオンは夜の中で、儚く微笑んだ。


「ナデシコのお母上も見る目がないね。ナデシコはこんなにも強いのに」

「……ちょっと。話聞いてた?」

「もちろん。ナデシコはね、本当にすごいんだよ」


 なによそれ――。ナデシコはそう言って、さらに乱暴な手つきでネオンの頭を撫でるように髪を混ぜる。ネオンは何も言わずに、ただされるがままになっていた。

 二人はそのまま、離宮に続く道の半ばでお互いの体温に触れる。その時間は置いてきぼりを食らったイウリィが追いついてくるまで続いた。



 ◆



「エンラ殿。ナデシコとは話をしなくて良かったのですか?」


 王宮の執務室で発されたのは、ほんのりと非難の色が混ざった声。エンラはクエリの言葉に、小さく首を横に振った。


「……いまさら僕が何を言っても、傷つけるだけだから」


 もしもオドゥが残っていれば、迷わずエンラを殴りつけただろう一言。クエリだけではなく双子も眉根をひそめたが、反発はしなかった。今はナデシコの心をむやみに動揺させていい時ではない。

 クエリは特定の人間にだけ伝わる符帳を記した手紙を書き終えると、この時のために待機していた妹たちに声をかける。


「ウルミア、ミラリス。最速でお願い」

「ええ、承りました。我らが姉上よ」

「明け方までには届けてみせましょう。あの子なら夜には返してくれるはず」


 以心伝心の簡潔なやりとりを終えてすぐ、ウルミアとミラリスは声をそろえて琥珀の鳥を作り始める。エンラは首を傾げて、クエリに尋ねた。


「クエリ、その手紙は?」

「妹に宛てたものです。人目をはばかるものだから、この子たちにいつも任せているの」


 クエリは鋭い目で夜空を見やる。夜空の色がクエリは嫌いだった。夜の黒は、何よりも愛しい家族と国を傷つけ、痛めつけた愚かな男を思い出すから。

 弑逆の女王の瞳に宿った憎しみは、夜空よりもさらに深く、遠く、底がない。竜帝エンラも口を閉ざして、憎悪が収まるのを待つのみだった。

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