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第25話 出立の用意は整って、不穏が顔をのぞかせる

「ナデシコ……。お前、こんなに良い部屋もらってるなら、もう少しくらい片付ける努力をな……」


 床のあちこちに散らばる走り書きのメモ用紙。ベッドにうずたかく積まれた本の数々。汚れているわけではないのだが、物にあふれて整頓されているとは言いがたいナデシコの私室はひどく混沌とした印象を与える。

 唐突に部屋へやってくるなり呆れ声を発したオドゥへ、ナデシコは抗議の意味をこめて顔は出さずに声だけを返した。いくら近しい仲でも、一切の気配なく部屋の中まで立ち入られるのは心臓に悪い。


「これでも片付けてるわよ。二日くらいで戻っちゃうだけで」


 ナデシコも、いよいよオドゥの素性を悟り始めていた。一介の魔術師が持つとは考えにくい、天導教への深い知識。魔術をひけらかすことを嫌い、あくまで一つの手段と捉えている思考。父のもとで情報収集をしているらしき現状。

 ――幼いナデシコが出会った男は魔術師ではなく、天導教の隠密だった。竜の領域を訪れたのも、何らかの調査か工作のためだったのだろう。けれど、だからといって信頼は揺らがない。魔術を教わり、庇護されて、ひとりぼっちだった心を救われた。その事実と今の立ち回りがあれば、過去の所属などどうでもいい。


「ねえ、師匠――」


 声をかけて、ためらった。口にしようとした問いかけが、潜入を前にした今尋ねるにはなんだか臆病風に吹かれたように感じて。

 オドゥは怪訝そうに眉根をひそめて、壁にもたれかかる。大きな窓からは陽光が差し込んで、カーテンが揺らめいている。かつて二人が暮らしていたのは、地下に築かれた遺構を利用した家だったから、空気も景色もまるで違う。時間は着実に流れ続けていた。


「なんだ、いまさらビビったか?」

「んなわけないでしょ。どうでもいいことだから、やっぱり帰ってから聞くわ」

「なら今言え。気になるだろうが」


 オドゥの目はじっとナデシコを睨めつけている。ナデシコは口を滑らせた自分にため息をついて、いったんは飲み込んだ質問を声にした。


「なんであたしのこと育ててくれたの? 師匠にメリットなんかなかったでしょ」

「……別に。大層な理由なんざねえよ。親にほっとかれてるチビを見捨てたら夢見が悪ぃだろうが」


 ――事実だ。オドゥの言葉は迷いなく信じられた。オドゥという男は本当に、たったそれだけの理由で十二年もの間、人間がいない場所で竜の子供を育て続けた。

 善人、と一言でまとめるのは少し違うだろう。多分それはオドゥ自身の意地でもあって、実に不器用な生き方だ。


「ほんっと、師匠って変な人間」

「てめえに言われたかねえよ、ガラス娘」


 ナデシコはベッドの上にも散乱していたメモを床に落としながら、立ち上がる。今、オドゥがわざわざやってくる理由は一つしかない。


「で、ドラキュリア派との渡りがつけられたってこと?」

「ああ。お前なら鱗さえ隠しておけば何の問題もない。堂々と歩いて変人どもと話をしてくる、それだけの簡単な仕事だ」


 オドゥの声には気負いも緊張もない。事実、天導教から離反したオドゥが赴くのに比べればよっぽど容易いことだろう。ナデシコはひらひらと手を振る。


「そうね。さっさと行って、さっさと帰ってくるわ」


 オドゥがドラキュリア派と話をつけるまでの余暇で、今回の任に必要な経路はすべて頭にたたき込んだ。すぐにでも出発できる。

 ナデシコはオドゥの横を通って廊下に出て行く。すれ違い際に、オドゥはいつも通りの不機嫌そうにも聞こえる声で言った。


「エンラの野郎と話はしないのか?」

「……しない。怖いのよ」


 ナデシコの返答に、オドゥは目を見開いた。

 以前までのナデシコなら、絶対にこぼさなかった弱音。ナデシコは小さく吐息をこぼして、腕を組んだ。


「師匠の本音なら怖くない。でも、お父さんの考えていることを知るのは怖いの――」


 弱いところは見せたくなかった。ずっと意地を張っていた。けれどネオンと言葉を交わすうちに、本心をさらけ出す恐怖はいつからか遠くに霞んでいた。

 オドゥは何度も目をしばたたかせてから、不意に右手で自分の顔を覆う。オドゥの口から重いため息が吐き出されて、やがて右手はナデシコの頭に乗せられた。


「――変わったな、ナデシコ」

「ええ、そうかもね」


 弱くなったのか。そう尋ねられれば、ナデシコは胸を張って「違う」と断言できる。でも、以前までのナデシコが弱かったというわけでもない。ナデシコはただ、ネオンの姿に違う視点の強さを知っただけだ。


「じゃ、行ってくるわ」

「おう」


 挨拶は実に簡素だった。ネオンとイウリィに声をかけるために、ナデシコは離宮内の気配を探る。そしてすぐさま、普段と違う様子を悟った。

 人の気配はリビングに三つ。オドゥのほかにも誰かがやってきている。ナデシコが今できるのは気配を探るだけで、盗聴の仕掛けも施していなかったから、ネオンとイウリィが誰と話しているのかはわからない。それでも一人という人数からすれば、クエリの遣いか、あるいはクエリその人がいるのではないか。

 オドゥが準備を整えた矢先のこのタイミング。――なんとなく、厄介な予感が思考の隅をかすめた。


 ナデシコは足を速めてリビングへ向かう。太陽の穏やかな明かりに照らされるリビングで、ネオンとイウリィの真正面に腰掛けて話をしているのは、やはりクエリ本人だった。


「陛下……?」

「ああ、ナデシコ。オドゥ殿から話は聞いたかしら?」


 クエリは穏やかな表情と声音で問いかけてくる。それなのに、ネオンは難しい顔をして、イウリィは困惑を露わにしている。その食い違いに違和感を抱くのは当然だった。


「ええ。だからネオンとイウリィに声をかけておこうと思って。陛下はどうしてここに?」


 シュトラルの女王として多忙を極める身だ。今までクエリが政治的役割を持たない離宮にやってくることはなかった。

 クエリはにこりと柔和に微笑んで、ナデシコの問いに答える。


「貴女の見送りと一つ、お願いに。――ナデシコ、ドラキュリア派との会談に、ネオンも連れて行ってちょうだい」


 クエリの表情にも声にも、時折のぞかせる鋭さや厳めしさは見られない。それなのに、その「お願い」は決して拒否を許さない威迫に満ちていた。

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