ゴトンゴトン、カタンカタンと音を立てて列車が揺れる。常に耳に入ってきても、騒音と感じないリズムと一定間隔の振動はゆりかごにも似ていて、ぼうっとしていると眠気に捕まってしまいそうだった。
個室の車窓からは一面に広がる地平線が臨める。ナデシコは物珍しい景色にときどき意識を向けながら、いつものように魔術書を読んでいた。敵地に潜り込む旅が始まっても、ナデシコの心は普段と変わらず穏やかだった。緊張しているのは、対面の席に座るネオンだ。
「……ごめん、ナデシコ。まさか姉上がこんな無茶言うなんて、思ってなかった」
ネオンは視線を地平線に向けながら、強張った声で言う。ネオンの緊張が向いているのは、有無を言わせずに帯同を命じたクエリに対して。ナデシコは少しだけ顔を上げて、また文字に目を落とす。
「どうしてネオンが謝るのよ。それにこのくらい、あなたの無茶に比べれば可愛いものでしょ?」
「そうだね、うん。その通りだ――」
疑念を抱える自分をたしなめるような、ささやきにも近い相槌。ナデシコも何でもないことだ、とは言ったけれど、自分自身で理解していた。
クエリが意図もなく指示を下すはずがない。クエリは絶対に、ナデシコやネオンも知らない確信を持って、何らかの図を描いている。家族と国のために父殺しを行った過去を知っていれば、否が応でも悟ってしまう。ナデシコでも自分の発言が現実逃避の気休めなのは自覚しているのだから、ネオンの胸中は言わずもがなだ。
「……姉上の、あの顔」
ぽつりとネオンが呟いた。視線は外に向けられていても、意識は忘れてしまった過去を探しているようだった。
「昔、どこかで見たはずなんだ。見たことは覚えているのに、いつだったか思い出せない」
ネオンの装いは男装でも狩人装束でもない、ごく普通の少女らしいものになっている。黒髪を背中に流して、流行のワンピースを身にまとった姿は、市街にありふれた光景そのもの。ネオンの同行は想定外のことだったが、衣装を用意したイウリィは嬉しそうに微笑んでいた。お似合いですよぅ、と心からの賞賛とともに。
換気のために窓が少しだけ開いているから、ネオンの髪はときどき風にはためいている。普段まとめられている髪が揺れる光景は、地平線よりもナデシコの興味を惹いていた。
ナデシコは空気の流れを頬で感じながら、過去を探っているネオンを見やる。
「無理しないでよ」
「うん、大丈夫。わかってる」
顔色は悪くない。指の震えもない。呼吸もいつも通り。なら心配の必要はない。ナデシコはまた読書に戻る。
もしも今、この個室を覗く者がいても、若い娘の二人旅を不思議に思うだけで不審には感じないだろう。二人ともが実戦経験者で、片割れに至っては悪魔狩りの破暁なのだという事実を想像できるはずがない。
たいていの魔術師は、魔術を使うときに効率を高めるための触媒を用いる。ウルミアとミラリスが携える鎖も触媒の一種だ。ナデシコが触媒を用いないのは、魔術を隠密の道具として扱うオドゥに育てられたからであって、通常の魔術師が触媒を使わないメリットは存在しない。
けれど、今回はナデシコの癖が良い方向に働いていた。魔術師は触媒を携行している、という常識のおかげで、そう簡単には魔術師であると見抜かれない。魔術書を人前で読まないよう、気を付ければいいだけだ。
問題は、どんな工夫をこらしても武器であると隠せない戦斧を使うネオンだったが――ネオンがすでに持っていた解決策を知ったとき、ナデシコは絶句した。ネオンの戦斧、太陽を閉じ込めたようなフレアの翼は今、ネオンの影に収められている。
ただの現象に過ぎない影を物質として扱うなんて、ナデシコは思いつきもしなかったし、原理もまるでわからない。ナデシコへ多大な混乱をもたらしたネオンすら、理屈を把握していなかったのは幸か不幸か。
いわく、これはネオンとフレアが王冠を介して共生しているから起きている現象らしい。フレアがフレアの翼を持っていないはずがないだろう――と言わんばかりに、ネオンがその気になれば翼は身体に溶けてしまう。影を出入り口にしているのは視覚的にわかりやすいから、とのことだが、ナデシコの思考は話を聞いているだけでパンク寸前だった。
ナデシコからすれば理不尽極まりない現象だが、このおかげでネオンも周囲を警戒させることなく、いざというときは狩人として戦える。クエリはこのことも承知でネオンに同行を命じたのだろうか――と、思考が現状を意識するたびに、目を逸らしていた疑問がやってくる。
「……ねえ、ネオン。姉君の掴み所がないのはいつものこと?」
クエリの行動への違和感が勘違いでないことは確かなのに、考察するための情報があまりにも不足している。ならせめて、心を乱さないようにと目を逸らしていたけれど、その行いがかえって意識をクエリに向けさせる。
もやもやとした気分を抱えるのにもうんざりしてきた。それならいっそクエリの思考を知ろうと思い、ぼうっとした雰囲気で過去を見つめるネオンに尋ねれば、緑色の綺麗な瞳がナデシコの視界にやってくる。
「そうだね。あの人は時々、私たちも置いていってしまうんだ。姉上は、背負っているものがあまりにも多すぎる」
風が流れて二人の髪を揺らす。地平線の太陽は傾き始めて、刻一刻と夕暮れの気配をまとっていく。――あと少しで終点に到着する。
「姉上は決意したら絶対に迷わないし、止まらない。問題を解決するためならどんな手段でも取る。上姉さんと下姉さんならもう少し、私よりも近付けるかもしれないけれど――私はいつも、守られる側だったから」
だから強くなろうと思ったのだろうか。ナデシコはふと、そんな疑問を抱いて、口にはしなかった。
近くにいるはずなのに遠い人。近付きたいのにいつまでも届かない。その無力感を思い出したから、不用意なことは言いたくなかった。
「溺愛されてるものね」
「うん、本当に。私にはもったいない姉さんたちだよ」
ネオンはくすりとはにかむ。姉妹の絆は深く、確かなもので。だから次の言葉に繋がったのだろうか。
「……もしかしたら、姉上たちはリズ姉がいなくなった理由も知っているのかな」
明白に、寂しさと懐かしさを募らせている声だった。新しく出てきた名前にナデシコが驚いていると、ネオンは茫漠としていた雰囲気を少しだけはっきりさせて、言葉足らずを説明する。
「少しだけ話したことはあるんだけど、覚えているかな? 天導教にいる四番目の姉さんがアンナリーゼって名前でね、私はリズ姉って呼んでいたんだ」
「ああ、悪魔祓いをしてるって言ってた……」
「そう。私が小さな頃にいなくなってしまったから、はっきりとした記憶はないんだけれど、優しい人だったことだけは覚えている――いや。感じている、かな?」
ネオンが姉を語る声は柔らかく、穏やかで、心からその相手を信頼していなければ出ないものだった。
ネオンはずっとナデシコに向けていた視線を動かして、両の手のひらに目を落とす。
「そうだね。ナデシコなら、もしかしたら何か思いつくかもしれないし。ちょっとだけ姉上たちのことを話してもいいかな?」
微笑むネオンに、ナデシコは頷きを返した。これまで触れる機会のなかった姉妹の過去に、ナデシコは耳を傾ける。