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登校中の電車の中で、英単語帳を開きながらも
余計なことを考えているからか、ページをめくる頻度は減っている。
が───電車を降り、高校へ続く坂道を登り始めたちょうどその時。
後ろから、千成はポンと肩を叩かれた。
「おはよう!やっぱり
甘い香りが、彼の鼻腔を擽った。
視線を後ろに向けると、突如吹き抜けた風が、黒髪を空へと攫っていく。
深い夜の闇を思わせるその髪は、陽光を浴びて微かに青く輝きながら、まるで生き物のようにしなやかに踊っていた。
そこに居たのは、嬉しそうに顔を綻ばせる
「あっ……おはよう、三谷さん」
周囲の目もあり、千成はボソッと恥ずかしそうに返すのが精一杯だった。
ここでの彼にはバンドをやっていた時のようなキラキラしたオーラなどない。
彼が輝けるのはバンドで演奏している時だけであり、学校では上手く人とコミュニケーションをとることが苦手なのだ。
この場に居るのは、自身がカースト最下位の根暗な高校生であると理解している神室千成だ。
ジメジメとしたオーラが、彼に纏わりついている。
けれども。
「神室くん、襟足が長いからさ、後ろ姿だけで何となく判るよ」
「そっか……」
彼の立場などお構い無しに話しかけ、楽しそうにしている彼女に、千成はやや困惑した表情を浮かべていた。
学校へ向かう周囲の生徒が怪訝そうな目で二人を見る視線に気が付き、彼は狼狽える。
───三谷さん……めちゃくちゃ美人だし、オレみたいな根暗と一緒に居たら、周囲に変な噂とかが流れて迷惑しちゃうんじゃないか?
そうは思ったものの、千成にはその旨を口に出せる勇気などなかった。
衿華は話し掛けてくれるものの、地に足がつかない心地で素っ気ない返答をしながら裏門を抜けて教室に入る。
すると───
「あっ!衿華!おはよ〜!」
教室では、女子のグループが衿華を待っていた。
彼女は友人らに手を振り挨拶を返す。
その間に、逃げるように千成は自分の席につき、赤チート数学ⅡBを広げようとした。
───オレと二人で登校してきたことに、その女子たちはどう思うんだろう。やっぱ、いい印象じゃないよな……
千成は俯いて、長い前髪をだらりとさせながらシャーペンを握っていた。
が、その時何故か、足音が近付いてくる。
千成が見上げると───そこに居たのは衿華だった。
「おお……赤チート!神室くん、流石だね!」
何故か褒めてくる衿華だが、千成は勉強をしたくてしている訳ではない。
周囲と話せず暇だから、赤チートを広げていただけなのだ。
「ま……まあ……ね」
千成に話し掛けようとしている衿華だったが、彼女の友人はそんな二人を確りと目で追っている。
千成は、衿華と目を合わせるのが怖かった。周りのクラスメートが気になって、少しでも不安になりそうな自分が恥ずかしかった。
自分はいつだってカーストの下の方だったから、こんな高嶺の花の美少女、三谷衿華と居るだけで烏滸がましいのではとも思ってしまう。
素っ気ない返答しか出来なかった千成。
けれど衿華は、少し戸惑いながらも、千成に向かって微笑む。
「神室くん、勉強邪魔しちゃってごめんね。また後で……もし良ければ、お昼休みにお話しよ!」
彼の耳元でそう呟き、友達の輪に戻って行った。
………………
…………
……
───三谷さん……めちゃくちゃ友達多くて、陽キャラのオーラしか感じないな……オレと話したいってまた言ってたけど、友達がいるから難しそうだし。いつもの所で食べるか……
昼休み、人気のない西館の階段に向かおうと廊下を歩いている千成、だったのだが───
「待ってよ!」
振り返ると、そこに居たのは衿華だった。
「三谷……さん!?」
千成は、びっくりしてそれ以上の言葉が出てこなかった。
一方で衿華は、何故か頬を膨らませ、若干彼を睨んでいる。
「話したいって言ったのに、なんで断りも入れずに勝手に行っちゃおうとするの!?」
彼女は当たり前のことで怒っていた。
そのことに気が付いた千成はバツの悪そうな顔をするのだが、前髪が長すぎて衿華には見えない。
「ごめん……三谷さん、オレより友達といた方が楽しいのかな、って思ったから……」
「そんなことない!勝手にそう思わないで!少しは私の言葉を信じてよ!」
衿華が千成を見る目は真剣なものだった。
「…………ごめん」
「私……神室くんと昼休みにお話したかったんだよ。バンドのこととか……聞いてみたいなって」
丁寧に謝意を伝えなければ、そう思った彼は途切れながらも言葉を紡いでいく。
「そう……だったんだ。オレみたいな男には……三谷さんは高嶺の花のような存在だから……一緒にいるのも烏滸がましいって思ってた」
「『オレみたいな』って、自分のことを卑下しないでよ。神室くんだって演奏、凄かったんだし」
ドキッと、彼の心臓は大きく震えた。
「さて───二人で話をしながらご飯でも食べたいなって思ってたんだけど、神室くんっていつもこっちの方でお昼を食べてるの?」
人気のない西館の方を指差しながら、衿華は問う。
「うん……そんな感じ」
「じゃあ……今日はご一緒させてもらうね」
弁当箱を千成に見せびらかす衿華の表情は輝いていた。
西館の非常階段を開き、彼女は千成をよりも先にコンクリートのステップに腰掛ける。
「人は少ないけど、なかなかいい場所だね」
「まぁ……そうだね」
「おい、先に座るなよ」とは言えない。
自分のような校内カースト最底辺の人間がこんな高嶺の花と一緒にいるという状況。
彼の胸中は緊張感と不安感でいっぱいだったが、衿華に「ほら、神室くんも座ってよ」と言われ、ぎこちない動作で腰掛けた。
入学当初はバンドメンバー達と一緒に昼飯を食べていた千成。
けれども他二人は順当に友達をクラス内で作ったため、クラスの異なる千成に段々と近付けなくなってしまった。
そんな中、一人きりになりたい場所として西館の非常階段を見つけた。
日差しが丁度よく遮られて眩しすぎることも暗すぎることもないし、雨が降っても濡れることはない場所。
そんな自分だけの場所に衿華を入れてしまったことに対する僅かな後悔と、僅かに自分に興味を持ってくれる衿華に期待している気持ちが彼の中にはあった。
「ねねっ、神室くん!」
眩しすぎる笑顔で彼の目を見る衿華に、千成はたじろいでいた。
「あのさ……この前みたいなライブって、何度もやってたの?」
興味津々な彼女は、早速質問攻めを浴びせる気でいた。
「えっと……路上はあれが初めてで……あとは箱でちょくちょく……かな?」
「箱?どういう意味?」
「箱ってのは……ライブハウスのことだよ。市内だと
「そうなんだ!凄いなぁ……」
衿華は目を輝かせるが、千成はボソッと返した。
「別に大したことじゃない……高校生なら誰でも出られるライブだから」
「そうなの?」
「うん……」
そう言って雲を見つめた千成。
なにか彼には目標があるのだとわかるその表情を、衿華はじっと見つめていた。
だが、急に彼女は思い出したのか口を開く。
「お弁当、出さないの?」
衿華が首を傾げながら問いかけると、千成は手にした弁当包みを見下ろして、ハッとしたように声を洩らした。
「あっ……そうだった」
慌てて巾着を解いて中身を取り出すも───それを見ていた衿華の表情は若干引きつった顔になる。
「神室くん……それって……」
彼女の視線の先にあったのは、どこか無造作に詰め込まれたコンビニ食品だった。ファミリアマートのロゴが眩しいフライドチキンと唐揚げ、そしてカレーパンが顔を覗かせている。
「えっ……?ただの……コンビニ飯だけど」
千成は至って普通のことを言っているつもりらしいが、衿華の顔は依然として引きつったままだった。
「ねぇ……神室くん?
もしかして……毎日お昼ご飯はそれなの?」
衿華がそう尋ねると、千成は直ぐにあっさりと肯定した。
「オレって親が殆ど家に居ないから……昼だけじゃなくて三食コンビニ飯ばっかりなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、衿華の眉がピクリと動いた。
「不健康すぎるよ!それは!」
普段は大人しい衿華の声が、階段の踊り場に響き渡ったのだった。