「割と近い場所に住んでるのかもね!」
「そう、みたいだね」
千成は、少し間を置いて答えた。
けれども、その声はどこか控えめで衿華のように素直に喜べていない自分がいた。
彼女はそんな彼の様子に気付かないまま、楽しげに続ける。
「近所だったら、どっかでばったり会うことも会うんだよね……!偶然って凄いなぁ!」
衿華の声は明るい。彼女は隣を歩く千成の心を軽させてくれるように微笑む。
千成は一瞬だけ、嬉しさを覚えた。
だが、それと同時に別の感情も胸の中に芽生えていく。
───オレが三谷さんの近所に住んでいることを他の人に知られたら……変な憶測を立てられてしまうんじゃ……
不安だった。
クラスの中心的存在で、誰からも好かれる衿華。
そんな彼女の近くに、自分のような地味で冴えない人間がいるという事実が噂になれば、彼女にとって迷惑ではないかと考えてしまう。
───『何であんな奴が!』って言われたら……三谷さんに悪い。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
彼女にとって自分はただのクラスメイトである。
演奏を気に入ってくれたとはいえ、それ以上でも以下でもない。
そのため、こうして一緒に帰っていること自体がどこか間違いのように思えてしまう。
「……ろくん?神室くん?」
不意に名前を呼ばれ、千成はハッと顔を上げる。
衿華は心配、いや、少しだけ不機嫌そうに彼を見つめていた。
「どうしたの? なんだか考え事をしてるみたいだけど……」
「あ、いや……なんでもない」
慌てて返した千成。
だが、そんな彼を見つめたあとに衿華は溜息をつく。
「ねぇ、神室くんって……何でそんなに自分を卑下して変な方向で考えちゃうの?」
「……え?」
「考えすぎるっていうか、周りのことばっかり気にしてそう。そういうの……少しだけ嫌だな」
眉を顰めながら、彼女は続ける。
「気楽でいろ、って訳じゃないけど……
周りのことを気にしすぎると、結局自分だけがしんどくなるし」
千成は思わず口を噤んでしまった。
確かに、彼女の言う通りだった。
いつも周りの目を気にして、何か言われるんじゃないかと不安になってばかり。
それが中学の途中から癖になってしまっている。
「ほら、もっと堂々としてればいいんだよ。私は別に、神室くんと一緒にいることなんて全然気にしてない……っていうか、楽しくさせてもらってます!」
衿華はそう言って、にっこりと笑った。
その笑顔は、千成の胸に刺さっていた棘を、ほんの少しだけ和らげるようだった。
「三谷さん……ありがとう」
千成は小さく頷いた。
隣で楽しそうに歩く衿華を見ながら、千成は心の中でそっと息を吐く。
彼女の言葉にすべての不安が消えたわけではないが、それでも少しだけ肩の力が抜けた気がする。
いつの間にか、彼らはマンションの前にまで辿り着いてしまっていた。
「オレの家はこのマンションなんだけど……」
彼が指差したのは海老川と呼ばれる川のすぐ近くにある、2LDKのマンション。
ファミリー使用と一人暮らし、どちらも可能なタイプの部屋である。
「あっ……私たち、漫画とかライトノベルみたいに同じマンションとかじゃないんだね。一応、隣だけど」
彼女が指差したのは、千成のマンションの隣にある1DKのものだった。
彼女の声のトーンは、ほんの僅かに落ちていた。
千成は思わず彼女の横顔を見る。
───三谷さん、ちょっと残念そうにしてた?
一瞬の出来事だったため確証は持てない。
けれど衿華は、クラスメイトの千成と同じマンションだったら仲良くなれたのにと思っていたのかもしれない。
「でも、隣の建物ってだけでもやっぱり凄いよね!
こんな偶然すぎることってあるんだなぁ」
すぐに衿華はさっきまでの調子に戻ると軽く笑ってみせた。
その笑顔に千成はほっとする反面、どこか複雑な気持ちを覚える。
─── 寧ろ同じマンションだったら……オレ、もっと気まずい。
卑屈な考えを辞めろと言われても、あの一言だけで彼の本質が変わるわけがない。
彼女が少しでも残念に思ったことを考えると、どこか落ち着かないが。
「神室くんって、ここで一人暮らしなの?」
「厳密に言うと違うけど……ほぼ一人暮らしかな。
父さんは土曜の夜に寝るためにしか帰ってこないから、実質一人みたいなもんだけど」
「そっか……なんか、コンビニのものばっかり食べていた理由が解った気がするよ。でも……意外と自立してるんだね」
千成は目を逸らしながら答える。
自分の生活が「自立している」なんて到底言えるものではなかった。
掃除以外の家事はしていない。
曲のアイデアが浮かべば朝になるまで楽器に触れているし、そうでない時は参考書を広げているだけで基本は引籠もりのように家から出ない。
外に出るのは完全に食糧が底を着いた時にコンビニやスーパーに行くときくらいだ。
それも、買うものは全て既製品。料理は作らない。
けれども、衿華に「自立してるんだね」と言われると、何故か少しだけ胸がくすぐったくなる。
「そんなことないよ。
既製品しか食べてないから……昼はあんなにも心配されちゃったし」
「神室くん、それなんだけど……」
思い出したかのように、衿華が千成の細い手を取った。
骨と皮だけでガサついた肌。
それは、エネルギッシュな年頃の男子高校生だとは到底思えないものである。
「近所だって判明したんだからさ、よかったら……
お弁当だけじゃなくてご飯も、私の作った物を食べない?」
「……は?」
思わぬ提案に、千成は目を丸くする。
「いや、でも、それは……」
千成は慌てて否定しようとしたが、衿華は容赦なく畳みかけてくる。
「一人分も二人分も変わらないよ!ちょうどいいじゃん! それに、神室くんの好きなものも聞きたかったし」
「好きなもの……?あ、食べ物か」
千成は一瞬だけ沈みゆく夕陽を眺め、そして彼女を見つめた。
「そう! 何が好きなの? あ、逆に嫌いなものでもいいよ。それは入れないから」
千成は少し考えたあと、肩をすくめて答える。
「嫌いなものは殆どないから……何でもいい」
「えー、そんなの困る! せっかくだから、好きなもの教えてよ」
「強いて言うなら……久しぶりにインスタントじゃない味噌汁が欲しい。
それ以外は……特にないっていうか、三谷さんが作りたいって思ったものなら、何でもいい」
その言葉に、衿華は満足げに頷いた。
「よし、じゃあご飯は私に任せてよ!」
だが、千成はすぐに続ける。
「でも、三谷さんにだけ任せっきりなのは悪いから……材料費はオレが出すよ」
「えっ? いいよ、そんなの!」
「いや、そういうわけにはいかないし……オレが全部お金を出すから」
千成の真剣な顔に押され、衿華は少し考えた後に頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えるね。折角だし今から買い出しに行こう! 近くにスーパーがあるし!」
二人で歩き出す。
陽はもうマンションの影に隠れていて、涼しい風が千成の長い髪を弄んでいた。
………………
…………
……
スーパーの店内は、夕方の買い物客で少し賑わっていた。カートを押す衿華の隣で、千成はどこか落ち着かない様子でついていく。
「えっと……何がいるかな?
あ、卵は特売日だから絶対必要だよね!」
衿華は楽しそうに商品をカゴに入れていく。
その姿を見て、千成は思わず口を開いた。
「……なんか、やっぱり凄いな」
「え、何が?凄いの意味がわからないよ」
「三谷さんって、こういうの慣れてるんだなって。
オレ、食材の買い物とか全然しないから……」
その言葉に、衿華は悪戯っぽく笑いながら振り返った。
「こういうスーパーって神室くんとはちょっと縁がない場所なのかもね」
少しだけ揶揄う衿華だったが、それに気付かず、過去を懐かしむように千成は淡々と言葉を発した。
「そうだな。
母さんがいた頃はよく頭数で連れ出されてたけど……離婚したあとはほぼ一人暮らしになったから全く行かなくなった」
「お父さんは……ご飯を作ったりしないの?」
「作らない。父さんは土曜の夜に帰るなり日曜まるまる寝てしまうし、月曜は早朝に起きてコーヒーだけで会社に行っちゃうから」
「……なかなかオーバーワークのお父さんなんだね」
若干引いたような衿華の声に、千成は「まぁ……ワーカーホリックみたいな所もあるんだよな」と苦笑する。
結局、衿華が選んだ材料の全てを千成がレジで支払い、二人は袋を分けて持ちながら帰路についた。
「ここで荷物を全部オレが持てたら、異性としてポイント高いんだろうな」
独り言のようにボソッと呟かれた、何気ない千成の言葉。
それを聞いて、衿華はクスリと笑う。
「あの細い腕で全部持てないでしょ!
私の方が力あるかもしれないし」
「……男として屈辱的だけど間違いない」
悔しそうに言う千成。
だが彼は未だ気付いていなかった。
もうここまでで、変に緊張しないで衿華と喋れていたことに。