「そういえば……どっちの家でご飯を作った方がいいのかな。私の家は狭いから、あんまり2人で食べられる余裕なんてなかったのを今思い出したよ……」
不意に衿華は立ち止まって千成を見る。
「オレの所は一応、オレの私物しかないし……そこそこスペースはある」
「じゃ、神室くんの家で確定!ってことで!」
にっこりと笑った衿華だったが、千成は衿華を心配そうに見つめていた。
無論、長い前髪に隠されて表情は見えないのだが。
「男の部屋に上がり込んで……オレに何かされたりとか思わないのか?」
恐る恐る聞いてみる。
すると、さも当然のことであるように彼女は笑うのだった。
「思わないよ。だって神室くん、そんな度胸は無さそうだし……信頼してるから」
「オレを貶したり褒めたり、三谷さんって一体全体何なんだよ」
千成はツッコミを入れるのだが、既に衿華は鼻歌混じりの軽やかな足取りで彼のマンションのエントランスに入っていたため聞こえていないようだった。
「神室くん!早く!」
彼女はやはり楽しそうに、千成が来るのを待っている。
「わかったから、そんなに騒ぐなよ……」
千成は軽くため息をつきながら鍵を取り出し、オートロックを解除した。
ドアが開くと、衿華は目を輝かせて千成を見上げる。
「ねっ、部屋はどこなの!?」
「601だ。あんまり燥ぐなよ」
「ふーん、6階ってことは……最上階か!私は3階なんだけど、景色がもっと綺麗に見えるんだろうね」
千成は衿華のペースに少し気圧されながらも、エレベーターのボタンを押した。
千成は鍵を取り出して自分の部屋のドアを開ける準備をする。
チンと音が鳴って、エレベーターが開く。
601号室はエレベーターの目の前で、すぐさま彼は鍵穴に鍵を突っ込んでいた。
「一応掃除はしてあるけど……汚かったらごめん」
千成が控えめにそう言うと、衿華は首を横に振った。
「いやいや、あんまり気にしないから。
それに……もしも掃除するなら手伝うよ」
その言葉に、千成は少し驚いたように目を見開く。
「三谷さんに料理を作ってもらう立場なのに、余計な手間をかけさせる訳にはいかないから」
「そっか……そういうとこ、真面目だよね」
衿華はふっと微笑み、千成の背中をじっと見つめる。
鍵が回り、ドアがゆっくりと開かれた。
開かれた扉に、「おおっ……」と声を洩らした衿華。
彼女の視線の先には、きちんと片付けられたリビングが広がっていた。
家具はモノトーンに統一されたシンプルなものばかりで、生活感はありつつもどこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
「意外と綺麗じゃん! もっと散らかってるのかと思ったのに」
「……意外ってなんだよ」
千成は衿華の反応に苦笑する。
「いやいや、いい意味だって! なんか神室くんらしい部屋だなって思っただけ」
「オレらしい……か」
衿華は「お邪魔します」と言いながら丁寧にローファーを脱ぎ、先を往く千成についてリビングに足を踏み入れた。
すると彼女は、部屋の奥に置かれたセパレートタイプのベースアンプと、スタンドに立掛けてあるベースとアコースティックギター(弾き語り用に使われることの多いギター。アコギと略される)に気が付く。
「あっ、ベース! これ、神室くんが使ってたやつだよね?」
「うん。見たいんならスタンドから出してみようか」
そう言うと、ひょいと愛機を掴んだ千成。
ソファの上に腰を下ろすと、ローズウッド指板の白いプレシジョンベース(ベースの種類で、通常はプレベと略される)を構える。
「へぇ……近くで見るとカッコいいね! 神室くんが弾いてるとき、すごく似合ってたし」
衿華の何気ない言葉に、髪に隠れた千成の耳が少し熱くなる。
「……そうかよ」
短く返しながらも、どこか嬉しそうな彼の様子に、衿華はクスッと笑った。
そして、ふと何かを思い出したように声を弾ませる。
「ねぇ、折角だし聴いてみたい!何か弾いてよ!」
衿華は興奮のあまり頬を上気させていた。
「え……」
突然のリクエストは困ると千成が言おうとするも、衿華は彼を遮って続けた。
「神室くんのベース、もっと聴いてみたかったから!」
「いや、でも……オレは何を弾けばいいんだよ。何か知ってる曲はあるか?流行りのとか」
千成は今まで、「何か弾いてよ」と言われたことがなかった。
こういう時、即興で弾けるような持ち曲を準備しておくのがセオリーなのだが、彼にそのようなものなどない。
困ったなと思いつつも、衿華の反応を待つ。
「うーん、一応流行りのは聴くけど、タイトルが思い出せないんだよね」
そんな衿華に千成は「じゃあ……」と少しだけチューニングを確認し、アンプにベースを繋ぐと、スマホで原曲を流しながら手慣れた動きで弦を弾き始めた。
「あ!!これは名前も解る!〝Mr. GOLD APPLE〟の『シリンガ』だ!」
千成のスマホから流れる特徴的なギターサウンドに興奮した衿華は、じっと千成を見つめている。
千成はイントロでは見事なスラップ(親指で弦を叩き、人差し指や中指で弦を引っ張ってはじく奏法)を見せ、歌詞が始まると指弾き(人差し指と中指の腹で弦をはじいて演奏する奏法)を始めた。
しかし。
「……あれ?」
千成が一通り弾き終わっても、衿華の反応は微妙だった。
喜んでくれているものの、最初に見せた期待感にそぐわなかったような気がするのだ。
「えっと……どうした?」
「いや、イントロやアウトロとかは凄いかっこいいな……とは思ったんだけど……何ていうか……」
衿華は困ったように首を傾げる。
「私、普段ベースの音を意識して聴いてないから……
正直、弾いてくれた音が慣れてない音ばっかりでよく解らなくて……特にサビとか……」
その言葉を聞いた瞬間、千成は目に見えてガッカリした表情を浮かべた。
「そう……だよな……普通の人は……わざわざベースだけ聴いたり……しないもんな」
凹む千成。
誰かに「弾いてみて!」と言われても微妙な反応を招いてしまうのがベーシストあるあるだ、ということは、動画サイトのショート動画で見たことがあり知っていた。
ベースの音はかなり低いし、演奏時のフレーズはルート音(コードの構成音の中で一番低い音)ばかりをなぞるため地味なものが殆どなのだ。
スラップ奏法は目立つが、イントロとアウトロでしか使わない曲だったため、衿華は地味な部分ばかりに感じられてしまったのだろう。
彼の声はどこか沈んでいて、弾き終わったばかりの手をだらりと下ろす。
「ごめんね! 別に悪い意味じゃなくて、ただ私が音楽に詳しくないだけで……!」
慌ててフォローする衿華だったが、千成は首を振って「気にするな」と短く返す。
普段なら「どうせ誰も理解してくれない」と諦めてしまうところだが、目の前で必死に謝る衿華の姿を見て、千成はふっと息をついた。
「……まあ、いいよ。オレが勝手に弾いたんだし」
諦めたようにそう言うのだが、衿華の視線は真っ直ぐだった。
「でも……私もベースの音、もっと理解出来るようになりたいな」
「……え?」
「だって、ベースは神室くんが一番好きなことなんでしょ? それをちゃんと理解したいもん!」
真っ直ぐな目でそう言う衿華に、千成は一瞬言葉を失う。
「……変なやつだな、三谷さんって」
思わず呟いた千成の口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「一応、作曲用にアコギもある。さっきは満足して貰えなかったっぽいけど……次は満足して欲しい。
ギターの弾き語りも出来るけど……聴いてく?」
「……うん!歌ってるところも見たい!」
衿華の期待に満ちた声を背に、彼はベースをスタンドに戻してアコギを取り出していた。
「じゃあ……曲は……」
「昨日歌ってた、オリジナルの曲がいい」
「わかった。『月夜を越えて』だな」
弦を軽く弾いて音を確かめると、千成は目を閉じて深呼吸をする。
細かいカッティングの音が、衿華の耳に心地よい刺激を与えていた。
切ないアルペジオから始まったAメロに、彼の尖った歌声は何故か噛み合っていて、どこか孤独を感じさせる。
けれども、そこには不器用ながらも前に進もうとする強さがあった。
衿華は息を呑んだまま固まっていた。
千成の声は、やはり、彼女に見せる卑屈な態度や控えめな性格とはまるで違っていた。まっすぐで、力強くて、けれども弱い部分もしっかりあるという彼の本心をさらけ出しているようだった。
最後に千成がアドリブで入れた
それは儚い余韻を残し、やがて部屋は静寂に包まれる。
「……どうだった?」
千成が恐る恐る顔を上げると、衿華は目を輝かせながら拍手をしていた。
「すごい! 神室くん、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」
その言葉に、千成は少しだけ目を伏せる。
「……まあ、弾き語りなんて滅多にやらないけど、今日はなんか調子良かったのかもな」
言いながらも、彼の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「また聴かせてほしいな、神室くんの歌」
「次の箱ライブまでお預けな」
ギターをそっとスタンドに置く。
千成は胸の奥にわずかな自信が芽生えるのを感じていた。