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第9話 一緒の朝

 朝6時半。

 まだウトウトしていた千成は、突然インターフォンが鳴って飛び起きてしまった。

 眠い目を擦って画面を覗くと、制服姿に身を包んだ衿華が待っているのが見えたため、解錠ボタンを直ぐに押し、急いで顔を洗って歯を磨く。


「おはよう、神室くん」


 彼がパジャマ姿のままドアを開けると、衿華が笑みを浮かべた。


「あぁ……おはよう」


 千成が招き入れると、衿華は昨日と同じように丁寧な所作でローファーを揃える。


「朝ごはんとお弁当を作りに来たよ。と言っても、電子レンジで温めるだけなんだけどね」


 そう言う彼女は、メイクやヘアセットなど身支度を全て終わらせてから来ていたようだった。


「神室くんは……眠そうだね」


 大きな欠伸をした千成に、衿華は言う。


「普段は7時に起きて、ささっとコンビニ飯を食べて学校に行くから……30分とはいえ短いとな……」


「まあ、そうだよね。取り敢えず……神室くんは制服に着替えよ!私は冷蔵庫開けて準備しちゃうね」


「あ、あぁ」


 そう言うなり、衿華はキッチンへと歩みを進めた。

 彼女は昨夜、朝食用と弁当用に作り置きを用意していた。普段から、朝は時間がないため夜の間に作る習慣があるようで、2人分に変わっても特に苦労することなく電子レンジとオーブントースターを操作している。


 5分ほど経つと千成はシャツとスラックスに袖を通して戻ってきた。


「神室くん……制服とその長い髪はやっぱり合ってないね」


 千成が戻ってきたのを確認すると、衿華が冗談なのか本気なのか判らない顔でそう言う。


「いや、普通だろ……」


「髪の毛切ればいいのにね。

 そうだ、前髪上げてみてよ」


 衿華が言いながら、千成の顔をじっと見つめた。


「……なんで?」


 千成は怪訝そうに低い声で反応したが、衿華は全く気にせず、ニコニコとしたままだ。


「なんでって……神室くんの顔、まだちゃんと知らないから……もっとちゃんと見たいよ」


 その言葉に、千成は一瞬固まった。


「……別に、そんなの見ても何も面白くないだろ」


 が、直ぐに彼女の言葉を否定する。


「いいから、やってみて!」


 けれども衿華は手を伸ばし、千成の前髪をさっと掬い上げたのだった。


「ほら、こうやって……」


 彼女の手が触れた瞬間、千成は思わず少しだけ身を引いたが、抵抗する間もなく前髪は上げられてしまった。


「ほら、やっぱり……」


 衿華は一瞬、言葉を失ったように千成の顔をじっと見つめ───ぽっと頬を上気させていた。


「……なんだよ」


 千成はその視線に耐えきれず、むっとした表情を浮かべる。

 急に彼の前髪の下に隠れていた瞳が急にシャープになり、衿華は慌てふためく。


「え…… 嘘……いや……神室くん……顔、凄く整ってるじゃん!!」


「はぁ……」


 衿華の感想に、千成は呆れたように遠い目をした。


「だって、前髪で隠れてたけど、鼻筋も通ってるし、目も大きいし……何これ、モデルとか俳優みたいな顔立ちじゃん!かっこいい……!!」


 衿華のテンションが急に上がり、千成は思わず後ずさりする。

 彼女に掻き上げられた髪はそのままに。


「……この顔を他人に見せたくないだけだ」


 千成はそう返しながら、視線を逸らした。その言葉には、どこか自分を守るような硬さが滲んでいる。


 確かに、千成は自分の顔が客観的に見ても整っている方だという自覚はあった。

 けれども、それを良しとしない理由が彼の中にはある。

 とある出来事───詳細を彼は語ろうとはしないのだが、それが原因で、彼は自分の顔を人目に晒すことに抵抗を覚えるようになったのだ。

 前髪で顔を隠すのは、意識的な防御の一環。

 彼の今の顔を知る者は、父親とバンドメンバーのみだったのだが、たった今その中に三谷衿華という美少女が追加された。


「普通にしてるだけだし、別に大したことないだろ」


 ぶっきらぼうにそう言う千成に、衿華は少し眉をひそめた。


「神室くん、自分のこともっと大事にしなよ。

 こんなにカッコいいのに、前髪で隠しちゃうなんて勿体ないよ」


「……余計なお世話だ」


 冷たく聞こえる返事だったが、乱れた髪からぴょこんと出ている千成の耳がほんのり赤く染まっているのを、衿華は見逃さなかった。


「ふふっ、そういうとこも神室くんらしくていいよね」


「は?」


 千成が乱れた髪を整えながら呆れたように返すと、丁度電子レンジが鳴ったため、衿華はキッチンへと戻っていく。


 千成は一人その場に立ち尽くしていた。

 胸の奥に封じ込めたトラウマの事を少しだけ思い出しながら、小さく息を吐く。


 ───見られたのに……胸の奥を突き刺すようなあの頃みたいな痛みは感じなかった。


 もう一度、千成は衿華を見た。


「……三谷さん、ちょっとおかしいんじゃないか」


 そう呟きながらも、心の中に湧き上がる微妙な温かさを、千成は否定しきれずにいる。


「おかしくない。おかしいのは神室くんだよ」


「まぁ……そうか」


 千成は自覚していた。

 過去に植えつけられたトラウマのせいで、人間関係や感性がズレてしまっていることを。

 けれど、衿華は千成が思ってもみないことを言う。


「でも……そういう神室くんは面白いから」


「少なくとも、ステージに立ってない時のオレは面白い人間じゃねぇよ」


 地味な見た目の自分自身が何か言っても、例えそれがお笑い芸人レベルのものであっても、シラケる自信がある。

 ステージではそこそこウケてもらえるが、それは観客が〝MEBUKI〟の「カズナリ」として親近感や親しみを抱いているからだ。


 千成は衿華にそう言うと、彼女が机に置いていた料理に視線を落とす。


 テーブルの上に並べられたのは、ピザトースト、スクランブルエッグ、ポパイサラダ、そして湯気の立つコーンポタージュ。どれも彩り豊かで、朝日を浴びて輝いているかのようだった。


「ちゃんと温め直したから大丈夫だよ」


 千成の視線に気付いた衿華が、満足げにテーブルを見つめる。


 千成は椅子に座り、嬉しそうに「わぁ……」と声を洩らす。

 どれもシンプルな家庭料理の範疇に収まるはずなのに、その香りや見た目から漂う雰囲気は別格だった。


「……これ、全部昨夜の作り置きなんだよな?」


「そうだよ。でも、温め方ひとつで味が変わるんだよ!ちゃんと手間をかけたんだからね!」


 衿華が胸を張るのを見て、千成は小さく頷いた。


 ピザトーストを一口頬張る。カリッと焼かれたパンの上には、トマトソース、チーズ、そして細かく刻まれた野菜とベーコンが絶妙に絡み合っていた。


「……美味い」


 思わず口から飛び出た言葉に、衿華が嬉しそうに笑う。


「でしょ?昨日、ちゃんとトマトソースも手作りしたんだよ」


 次に千成はスクランブルエッグにフォークを伸ばした。ふわふわとした卵の食感が口の中に広がり、バターの香りが鼻腔を擽る。


「これも……プロの味みたいだな」


「ふふっ、ありがとう!」


 ポパイサラダは、さっぱりとしたシーザードレッシングがかかっている。ニンニクは控えられているため、学校に行く前でも安心して食べられる優しい味だ。


 最後に口をつけたコーンポタージュは、甘みの中にほんのり塩気が効いていて、優しい味わいが朝の空気にぴったりだった。


 千成はスプーンを置き、少し考え込むような表情を浮かべる。


「……大変満足です」


「嬉しいよ。そんなに美味しそうに食べて貰ったら作り甲斐があるから」


 衿華は少し照れたように笑った。


「……ありがとな」


 小さな声でそう呟く千成に、衿華は「どういたしまして」と柔らかく返す。


 その朝食の味は、ただの食事ではなかった。

 千成にとっては、嘗て失った幸福を呼び起こしてくれるようなものだったが───彼がそれに気付くのは少し先のことである。

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