「……三谷さんは、オレみたいな奴と違って、ちゃんとした人間だからさ」
千成は視線を床に落とし、低い声で言った。
「ちゃんとした人間……?」
衿華はその言葉に戸惑いを覚えたが、すぐに何かを察したように口を開く。
「……神室くん、何かあったんだね。過去に、すごく辛いことが」
千成は、一瞬だけ、衿華を睨んだ。
けれど、真っ直ぐな彼女の瞳に映る自分を見て、解いてしまう。
「大丈夫。私は……神室くんの味方だから」
千成は息を呑んだ。
このまま塞ぎ込んではいけない、そんな気がした。
「味方だから」という一言。
それが千成の心の中に隠していた記憶を呼び起こす。
中学2年生の頃のこと。
母親が突然、宗教にハマり込み、借金を作り、家族を顧みなくなった。
挙句の果てには新しい男を作り、父と自分を捨てて出て行った。
その後、母親が熱心に信仰していた宗教の司祭の息子──同級生の一人が、千成を「母親を見捨てた薄情者」だと罵倒し、取り巻きたちと執拗に虐めた。
その時から、千成は自分の価値を見失い、誰かに必要とされる存在ではないと信じ込んでしまった。
「……オレの家、壊れたんだ。母親が変な宗教にハマってさ。借金作って、オレたちを捨てて出て行った」
千成は衿華に、静かに話し始めた。
「それだけじゃない。母親を奪った宗教の司祭の息子が、オレを徹底的に虐めたんだ。……オレが母親を見限ったからだってさ。勝手に出ていったのは向こうなのに」
声が震えているのを自覚しながら、千成は続けた。
「それで……オレは自分が何の価値もない人間なんだって、そう思うようになってしまった」
衿華はしっかりと、相槌をうちながら千成の言葉に耳を傾けていた。
「でも、そんなオレを誘ってくれた奴がいるんだ。
『バンドをやって、天下に名を轟かせてやろうぜ』ってさ」
千成は微かに笑った。その笑顔には、バンドメンバーである健明と康太への感謝が込められているようだった。
「あいつらがいなかったら、オレは今頃どうなってたか……解らない。でも、だからって……オレが自分を許せるわけじゃないんだ」
衿華は一歩、千成に近付いた。
迷うように視線を揺らした後、そっと千成の手を取り、軽く握った。
その肌の温かさが、千成の胸にじんわりと広がる。
「神室くん……だからバンドで頑張ってたんだね」
その一言に、千成は驚いたように顔を上げた。
「……なんで、そう思うんだよ」
千成は、再度、衿華の瞳に映る自分自身を見た。
波打つ湖畔に映る山のような影は、明らかに三谷衿華という女子生徒の影響を受けていた。
衿華は千成の手を握ったまま、静かに微笑んだ。
「だって、バンドのことを話してるときの神室くん、すごく楽しそうだったから。
自分の居場所を見つけたんだなって、今理解出来たんだ」
千成は一瞬言葉を失った。
衿華の言葉は、まるで自分の中の本当の気持ちを言い当てたようなものだったのだ。
「居場所、か……」
「うん。きっと、神室くんをちゃんと見てくれる人たちがいるんだよね。
それが、バンドメンバーの2人なんでしょ?」
衿華の声は優しくて、まるで包み込むようだった。
千成は小さく頷きながら、ぎこちなく笑っている。
「……そうだな。あいつらがいなかったら、オレ、どうなってたか解らない」
「だったら、もっと自信を持っていいと思うよ。神室くんは、ちゃんと頑張ってるんだから」
衿華の言葉に、千成は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……ありがとな、三谷さん」
千成がそう呟くと、衿華は少し照れくさそうに笑う。
「私も……あの2人みたいに、神室くんを見れていると嬉しいんだけど」
「……出来てる。ちゃんとオレを見てくれてありがとう」
2人とも照れくさくなって、自然と握った手は解けてしまった。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか。みんな待ってるし」
「ああ……そうだな」
千成は立ち上がり、衿華と並んで歩き出した。
彼の胸は少しだけ軽くなっていた。
「でも……やっぱり」
衿華は教室のドアに手をかける前に、振り返る。
「ねえ、神室くん」
彼女の声に、千成は小さく反応して顔を上げた。
その瞬間、衿華の視線がじっと彼を見つめているのに気付く。和装に身を包み、髪をセンター分けにされた自分の姿を見定めるように。
「……何だよ」
千成が訝しげに問い返すと、衿華は少し照れたように微笑んだ。
「カッコよすぎ。
似合っててズルいと思うよ、その和装。
それに……髪型も。
なんだか、凄く大人っぽく見える」
「は……?」
千成は驚いたように目を見開いて───羞恥に手で顔を隠す。
「普段の神室くんもいいけど、こうして髪を上げてると雰囲気が全然違う。
なんていうか……堂々としてそうな感じ?」
「堂々とか……イメージと違いすぎないか?」
千成は顔を赤くしながら目を逸らす。
その反応は、衿華が初めて見た、前髪に隠れていない素のものだ。
「違わないよ。本当に素敵だと思う。少し背筋が伸びて見えるっていうか……かっこいい」
衿華の言葉が静かに響く。千成は反論しようと口を開くが、うまく言葉が出てこない。
「さ、戻ろう? みんな待ってるし、早く見せてあげたらきっと驚くよ」
衿華は笑顔を浮かべながら教室のドアを開けた。
───三谷さんと居ると、調子が狂わされてしまうな。
千成は小さく溜息をついて衿華の後を追う。
胸の奥で彼女の「かっこいい」という言葉を何度も反芻しながら。
………………
…………
……
男子更衣室の前では正悠、玄杜、燈哉の3人が待っていた。
千成と衿華の姿を認めると、彼らは一斉に顔を上げる。
「……悪かったな、千成」
最初に口を開いたのは正悠だった。彼はいつもの飄々とした雰囲気を抑え、真剣な表情をしている。
「ごめん、やりすぎてた。俺たち、勝手に盛り上がっちゃってさ……千成が嫌がってたのに気付けなくて、本当にごめん」
玄杜も頷きながら続ける。
「無神経だったよ。無理やり髪型変えたりして……」
「……ほんと、悪かった」
燈哉も視線を下げながら謝罪の言葉を口にする。
千成としては、ただあの瞬間だけが恐怖だった。
けれど今は、関わりの薄かった正悠と、全く話したことのない玄杜と燈哉が千成を理解しようとしてくれている。
彼はどう反応していいか解らず、衿華をちらりと見た。
その視線を受け止めた衿華の瞳は、柔らかく、そして力強かった。
彼女は口を開かず、ただ静かに微笑むだけだったが、その微笑みには「大丈夫だよ」と言っているような安心感がある。
「あぁ……」
千成は息をするのも忘れていた。
まるで、瞳の奥に温かな灯火が揺れているような気がしていた。
どんなに不安で心が揺れていても、その光を見ていれば進むべき道が見える、そんな不思議な感覚を千成は覚えた。
───背中を押してくれているんだな。
そんな確信が、千成の心の中に広がった。
と同時に、彼は肩の力を抜く。
───ありがとう、三谷さん。オレの味方になってくれて。
衿華の穏やかな眼差しは、彼にとって言葉以上に雄弁だった。
「……堀田くんたちは悪くない。
オレも……頑張るから」
周りの雰囲気に流されたのか。
気付けば千成は思ってもないことを言っていた。
「急には変われないからと思う。
ゆっくりだけど……オレは変わりたい」
千成の言葉に、正悠、玄杜、燈哉の三人は顔を見合わせた。驚いたような表情だったが、すぐにそれぞれの口元に笑みが浮かぶ。
「そうか。じゃあ、俺たちもゆっくり付き合うよ。お前が変わるのをさ」
正悠が肩をすくめながら軽い調子で言うと、玄杜が頷いた。
「急がなくていい。無理する必要もないしな」
「でも、少しずつってのは大事だよな。俺たちも協力するからさ!」
燈哉が明るい声で言い添える。
───オレは、変わりたいと本心で思っていたのか?
千成は飛び出た言葉に戸惑いながらも、彼らの言葉を受け止めていた。
これまでの彼ならば、受け入れることはできなかっただろう。
けれども、衿華の存在が、彼の心にわずかな余裕を与えていた。
───この人たちは、敵なんかじゃない。
心の中で静かに芽生え始めた何かを感じ取り、千成はフッと笑う。
「……ありがとな」
小さく呟くと、正悠たちはまた顔を見合わせて笑った。
その様子を見ていた衿華も、ほっとしたように息を吐く。
「神室くん、少しずつでいいんだよ。無理しないで、自分のペースでね」
その言葉に、千成は衿華をちらりと見た。
彼女の穏やかな表情は、安心感を与えてくれる。
───三谷さんが、オレを信じてくれている……
過去の虐めから他人との関わりを絶っていた千成。
その心を覆い尽くす氷のようなものが、段々と溶けていっていることを彼は知らない。
衿華の瞳が少しだけ嬉しそうに細められた。
「じゃあ、神室くん。
文化祭、私たちと一緒に頑張ってくれる?」
「うん!」
少しだけ変わろうとしている自分。
それを今は受け入れてやりたいと千成は思ったのだった。