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第16話 楽器店

 千成と衿華が歩き出すと、彼女はにこやかに問いかけてくる。


「ねぇ、神室くん!次は神室くんの行きたいところに行こうよ!どこ行きたい?」


 千成は、少しだけ驚いた表情を浮かべる。


「オレの……行きたいところ?」


「うん!今日は神室くんと楽しみたいなって思ったから……!」


 衿華の言葉に、千成は一瞬考え込むように視線を落とした。どこか行きたい場所があるかと問われて、頭に浮かんだのは楽器屋だった。

 弦を張り替えようとは思っていたし、最近、新しいエフェクターが欲しいとも思っていた。もしかしたら、掘り出し物も見つかるかもしれない。

 けれど、その考えが口をついて出る直前で、彼は言葉を飲み込む。


 ───オレの趣味に三谷さんを付き合わせるのって、どうなんだろうな。


 衿華はバンドのことを好意的に見てくれている。それは解っている。けれど楽器屋なんて、彼女にとっては縁遠い場所だろうし、興味を持てるかどうかも分からない。


 ふと視線を横に向けると衿華は小さな紙袋を両手で抱えながら、楽しげに彼を見上げていた。さっきまでの買い物で満足したのか、安堵に似た表情を浮かべている。


 千成はその顔を見て、ますます言い出し難くなった。


 ───オレが楽器屋に行きたいなんて言ったら、三谷さん、いい人だから気を遣って付き合ってくれるだろうな。でも、それで退屈させたら申し訳ないし……


「どうしたの?神室くん、何か行きたいところある?」


 衿華の問いかけに、千成は少し口ごもった。


「いや、別に……」


「えー、そんなことないでしょ?」


 衿華は楽しそうに微笑みながら、千成を見上げる。


「さっき、楽器屋さんの前を通ったとき、神室くん、すっごく目が吸い寄せられてたよね?

 楽器屋に行きたいって言うと思ってたんだけどなぁ」


 その言葉に、千成は一瞬ぎくりとした。

 確かに、通りがかりにショーウィンドウ越しに見えたものに目を奪われたのは事実である。

 けれどまさか、それを衿華に見られていたとは思わなかった。


「……いや、別に、そんなつもりじゃ……」


「嘘でしょ?だって、すごく真剣な顔してたもん。神室くん、ああいうの好きなんでしょ?」


 衿華は悪戯っぽく笑いながら、千成の横顔を覗き込むようにしてきた。その視線に千成は視線を逸らし、少しだけ頬を染める。


「あっ!やっぱり!そうなんでしょ!」


 彼の表情で察した衿華は、楽しそうに笑っていた。


 ───認めるしかないか。


 千成はそう腹を括り、口を開く。


「まあ……好きだけど。オレの趣味なんて、三谷さんには面白くないだろ」


 けれども、そんな彼を衿華は否定した。


「そんなことないよ!

 寧ろ、神室くんが好きなものってどんな感じか、もっと知りたいなって思う。だから、行こうよ、楽器屋さん!」


 衿華の明るい声に、千成は言葉を詰まらせた。彼女の好奇心に満ちた表情を見ていると、拒否する理由が見つからない。


「あぁ……解った。じゃあ、ちょっとだけ寄るか」


「やった!」


 衿華は嬉しそうに小さくガッツポーズをして、千成の横にぴったりと寄り添った。


 千成は少し気恥ずかしさを感じながらも、心の中で安堵していた。彼女が嫌がるどころか興味を持ってくれているのは意外であり、少しだけ嬉しくもある。


 ───オレの好きな場所を見せるのも、悪くないかもしれないな。


 そんなことを考えながら、千成は楽器屋に向けて歩き出した。隣では、衿華が楽しげに彼の歩調に合わせてくる。その無邪気な笑顔が、千成の心を少し軽くしてくれていた。


 店内に入ると、普段よく聞くアーティストの曲がかかっていて、彼の心はさらに軽くなる。


「うわぁ!楽器が沢山あるね」


 衿華は楽しそうに周囲を眺めていた。

 こういった店は大抵、入口付近にギターがあり、奥の方にベースが陳列されている。


「ここら辺のギターはあまり詳しくはないんだけど……」


 千成が言いかけると、衿華は「うん!そうなんだろうって雰囲気で何となく気付いたよ」と返してくれた。


「やっぱり……ベースが見たいんでしょ?」


「まぁ……ね」


 衿華に心の内を見透かされているのが、千成には恥ずかしく、それも相まって声が上擦ってしまう。


 奥に進むにつれて、壁一面にベースが並ぶエリアが見えてきた。黒や白、木目調のものから、鮮やかな色合いのものまで、多種多様なデザインが目を引く。


「わぁ……ベースって、こんなにいろんな種類があるんだね」


 衿華は感嘆の声を漏らしながら、目を輝かせていた。そして───たまたま近くの一本に目を向ける。


「これ、たぶんアッシュかアルダー(どちらとも木材の種類)だな。ベースって見た目だけじゃなくて、材質とかで音も全然違うんだ。触ってみると判るんだけど……」


 千成はそう言いかけて、少し言葉を詰まらせた。

 試奏するには店員を呼ばなければならない。衿華と一緒にいる手前、わざわざ声をかけてまで試奏するのは、どこか気が引けた。


 けれども、衿華は千成の話に興味津々だった。


「材質で音が変わるんだ!」と、目を輝かせて聞いてくれているのだ。


「木材の種類で音が変わるんだ。重い木だと音が太くなったり、軽い木だと明るい音になったり。あとは硬さとかでも変化する」


 そんな彼女の期待は裏切れないと、彼は口だけで説明する。


「オレが使うのはエボニー指板とアルダーボディの重いやつだけど……結局は好みの問題だと思う」


「ふーん……じゃあ、神室くんの好きな音って、太い音……なの?」


 衿華は素直に興味を向けるが、千成は少し言葉に詰まった。


「うーん、言葉で説明するのは難しいんだよな。低い音がしっかり響く感じっていうか……でも、やっぱり弾いてみないと伝わらないかも」


「そっか……なんだか奥が深いね」


 衿華はわかったような、わからないような表情を浮かべたが、その純粋な眼差しに千成は少しだけ気恥ずかしさを感じた。


「まぁ、興味が湧いたならそれでいいんじゃないか。音楽ってそんなもんだし」


 千成は少し照れたように視線を外しながら答える。


「うん、興味はすっごくある!神室くんの好きな音、いつか分かるようになりたいな」


 衿華が笑顔で言うと、千成は思わずその表情に目を奪われた。


「……そっか。そのうち、教えてやるよ」


 千成の声は少しだけ低かった。

 彼はいつも使っている替え弦を手に取り、価格を確認すると、思わず眉間に皺を寄せる。


 ───また値上がりしてる……


 心の中で軽く嘆きながらも、彼はそれを顔に出さないようにしていた。衿華が隣にいる以上、情けない姿は見せたくない。少しだけ溜息を飲み込み、淡々と会計に向かう。


「神室くん、それ何?」


「……ベースの弦。消耗品だから定期的に買い替えるんだ」


 衿華が興味深そうに覗き込んでくると、千成は無意識に袋を少し隠すように持ち直した。


「へぇ……結構頻繁に変えるんだね」


「まあ、錆びてすぐにダメになるからな。今回はこれだけで十分だ」


 千成は軽く肩をすくめながら答えたが、内心では「高いなぁ」と思っていた。

 父親から貰う小遣いは生活費込みで貰っているため余裕はあるのだが、学生の身分で趣味にお金をかけるのは、それなりに覚悟がいる。


 レジを済ませた千成は、「じゃあ、そろそろ出ようか」と言いかけたところで、衿華が足を止めた。


「……これ、すごく素敵だね」


 彼女の視線の先には、アコースティックギターが1本、光を浴びて展示されていた。シンプルでありながら、木目の美しさが際立つ一本だ。


「ああ、アコギか。確かに綺麗だな」


 千成もそのギターに目を向ける。素材には上質なスプルース(木材の一種)が使われており、艶やかな仕上がりが目を引く。彼はそのスペックを一瞬で見抜いて、値札を見た。


 ───58万円か。値段相応で流石だな……


 彼は手の出せない領域のギターに息を呑む。


「触ってみたいなぁ……」


 けれども、彼女がぽつりと漏らした言葉は、千成の耳にもはっきりと届いた。値段など気にしている様子はなく、ただそのギターの魅力に心を奪われているようだった。


「店員さんに試奏させてもらえるか聞いてみたら?」


 試奏だけならば問題ない。

 千成の発言に、衿華は驚きつつも振り向く。


「えっ、でも私、全然弾けないよ?」


「別に弾けなくてもいいだろ。興味があるなら、ちょっと触れてみるだけでも楽しいかもしれないし」


 千成の言葉に、衿華は少し戸惑いながらも、もう一度ギターに目を戻す。

 艶やかな木の表面に映る光、滑らかな曲線、弦が張られたネックの繊細な作り……彼女はその全てに魅了されていた。


「……うん、聞いてみようかな」


 衿華は千成の言葉に背中を押されるようにして、意を決したように店員に声をかけた。

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