数分後、ギターを持った衿華がぎこちなく椅子に座り、千成が隣で構え方を教えていた。
「こうやって膝に置いて、右手で軽く弦を弾く感じだな」
「こう……?」
衿華が恐る恐るピックで弦を弾くと、ポロンと控えめな音が響いた。その音に彼女は思わず笑みを浮かべる。
「なんか、思ったよりも綺麗な音がするね!」
「まあ、初心者でも簡単に音が出せるのがアコギのいいところだな」
千成はそう言いながら、衿華の手元を見つめていた。彼女の動きはぎこちないが、その一生懸命さが伝わってくる。
───やっぱり58万……とんでもなくいい音だな。
千成も感心したように、うっとりと音色に耳を澄ませる。
「神室くん、弾いてみてよ!この前アコギ使ってたんだし!」
「……まあ、そっか」
千成は少し照れくさそうにしながらも、衿華からギターを借りた。そして、彼女の隣に座り、軽く弦を弾いて音を確かめる。
───あーやっぱ、良い音だな。
彼はそう思いながら、指先でコードを押さえ、C、G、Am、Em、F、C、F、Gの順番でシンプルなアルペジオ(和音を構成する音を、1音ずつ順番に弾く演奏方法)を奏で始めた。ドイツの作曲家パッヘルベルが作ったカノン進行と呼ばれるコード進行で、ヒット曲によく使われるものだ。
優しい音色が店内に広がり、衿華は目を輝かせて千成を見つめる。
「すごい……なんか、癒されるね」
「アコギって、そういう音を出すのが得意なんだよ。ベースとはまた違った魅力がある」
千成が弾き終わると、衿華は心底感心したように拍手を送った。
「神室くん、本当にすごいね!なんか、こんな風に弾けたら素敵だなぁ」
「……その気になれば、すぐに覚えられると思う」
千成の言葉に、衿華は「そうかな?」と微笑んだ。
彼女のその表情を見て、千成は少しだけ誇らしい気持ちになる。
結局、衿華はそのアコギに未練を残しつつも購入は見送り、千成とともに店を後にした。
………………
…………
……
夜。
夜、千成と衿華は食卓を挟んで向かい合っていた。
切り分けられた手作りの手巻き寿司と和風サラダ、アオサの味噌汁がテーブルの上に広がり、彼らの合間にはほんのりとした温かさが漂っている。
「三谷さん……本当に何でも出来るんだな」
「美味しいものを作りたくて頑張ってるからね!
それに……神室くんが凄く嬉しそうに食べてくれるから、それでもやり甲斐を感じてる……かな?」
「嬉しそうって……このレベルを毎日食べさせられていたら、綻ぶのも仕方がないだろ」
そんな会話が続く中、突然───玄関の鍵がガチャリと回る音がした。
「げ!もしや……親父っ!?」
千成は慌てて、スマホの通知画面を見た。
そして、一瞬で顔面を蒼白にする。
通知欄には、『仕事が片付いたから早く切り上げるぞ』とメッセージが入っていたのだ。
「な、何っ!?」
千成は戸惑う衿華に視線を向けた。
「三谷さん……父親が来た!ごめん!オレの部屋に!」
千成は急いで衿華と、彼女の食べていた食器を一緒に自分の部屋に押し込んだ。
今までは彼女を入れなかった寝室。けれども今は緊急事態であり、入れざるを得ないと判断したのだ。
彼が部屋のドアを閉めた瞬間、玄関の扉が勢いよく開かれる。
「今帰ったぞ!いやぁ、今日は早く切り上げられて助かったよ」
明るい声がリビングに響き渡る。千成の父親である神室
けれども、片付け終わるよりも早く、旭はリビングへ入ってきてしまった。
「ん?なんだ、ずいぶん豪華な食事してたんだな。
お前、いつからこんなにちゃんと作れるようになったんだよ?」
旭はテーブルの上を見て目を丸くした。手巻き寿司の具材や味噌汁の残りがまだ少しだけ残っていたのだ。
「えっ……あっ……そのっ……」
千成は言葉に詰まり、適当に言い訳を考えようとしたが、旭の視線が鋭くなる。
「お前、バンドメンバーの2人を呼んでたのか?
にしては何か……男らしくねぇ匂いがするんだが」
「ち、違う!何でそうなるんだ!」
千成は必死に否定しながら、片付けを続けた。しかし、その挙動不審な態度を旭はさらに怪しむ。
「ふーん。まぁ、別に誰かいたって構わないけどな。
それより、今日は珍しく早く帰れたからさ、一緒に……」
「いや!オレは親父は風呂にでも入れよ!」
千成は食い気味に答え、旭の提案を強引に遮った。
旭は一瞬驚いたが、すぐに肩を竦めて笑う。
「なんだよ、お前、今日はやけに慌ててるなぁ。
さては、本当に誰か呼んでたな?」
「だ、だから違うって!」
千成の声が大きくなる。旭はその様子を面白がるように笑いながらソファにどっかりと腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取った。
「まぁいいや。何か隠してるっぽいけど、深くは聞かないでおくか……まだ寝るのも早いしな。千成、ちょっくらコンビニでなんか買ってきてくれ」
「嫌だよ、親父が行けばいいだろ」
「何だ、やけに今日は楯突くな……」
溜息混じりの声。
旭がテレビをつけ、野球中継を見始めたのを横目に、千成はようやく安堵の息をついた。
しかし、まだ油断は出来ない。
部屋の中で待っている衿華のことが頭から離れない。
───早く何とかしないと。
千成は一瞬だけ自分の部屋の方を振り返り、旭に気付かれないようにその場を離れた。
リビングを出て廊下を歩き、自分の部屋のドアをそっとノックする。
中にいる衿華が小声で「大丈夫?」と答えるのを聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
「なんとか誤魔化せてる。親父も気にしないだろうから、もう少しだけここで待っててくれ」
「……うん、解った」
衿華の声は少し緊張していたが、彼女なりに状況を理解しているようだった。千成はもう一度「すぐ戻る」と言い、リビングへ戻ろうとした。
しかし───
「なぁ、千成」
背後から旭の声が響いた。振り返ると、旭が立ってこちらを見ている。彼は腕を組み、興味津々といった顔をしていた。
「なんだよ、親父……」
「いや、さっきからお前の動きが怪しすぎるんだよな。なんか隠してるだろ?」
「隠してないって!疲れてるだろ!いつもみたいにさっさと風呂入って寝ろ!」
「いやいや、今日は2時間早く帰れたし……電車も運良く座れたから熟睡出来たのさ。
それよりも……隠し事がある時の顔は、お前が小さい頃から変わってないんだよなぁ」
旭はニヤリと笑い、千成の肩をポンと叩く。
そして、千成が咄嗟に動こうとするのを制するように、彼の部屋のドアに向かって歩き出した。
「待てよ!そこは関係ないから!」
「へぇ、関係ない部屋に行って独り言してたのか?」
旭の手がドアノブに触れた瞬間、千成は慌ててその前に立ちはだかった。
「本当に何もないって言ってるだろ!入るなよ!」
「お前がそんなに焦るなんて珍しいなぁ……これは面白そうだ」
旭は非力な千成を横に押し退け、ドアを開けた。
途端、千成の耳に聞こえてきたのは衿華の「えっ……」という驚きと戸惑いが入り混じった声だった。
「こんにちは……」
その声はどこかぎこちなく、彼女が感じている緊張を隠しきれていない。
「……おや?」
旭は一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤリと笑った。
「なるほどな。これはこれは……」
「……三谷衿華です。突然お邪魔してしまってすみません!」
千成が部屋を覗くと、衿華は慌てて頭を下げていた。
そして旭はその姿を見て、千成を楽しそうに見る。
「いやいや、そんなに恐縮しなくてもいい。まさか千成がこんな可愛い子を連れてくるとはなぁ」
「ち、違う!別にそういうんじゃなくて……!」
千成が必死に否定するが、旭は彼の言葉を無視して笑い続けていた。
「でも、お前、家に女の子を連れ込むなんて……どういう関係なんだ?」
「だ、だから!ただのクラスメイトだって!」
「ふーん、ただのクラスメイトねぇ……」
旭は疑わしげに目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「まぁ……お前も大人になったんだなぁ。せっかくだから、衿華ちゃんも一緒にお茶でも飲むか?そうだ、ピザでも頼むか」
「親父、頼むから余計なことしないでくれ!それにオレらは食い終わってるから!」
千成は頭を抱えながら叫んだが、旭は全く気にする様子もなく、リビングへと戻っていった。