千成は部屋に残り、衿華に申し訳なさそうに頭を下げていた。
「ごめん、親父が本当に無神経でさ……嫌な思いさせたよな?」
「ううん、全然!寧ろ神室くんのお父さん、面白くて優しそうな人だね」
衿華の言葉に、千成は少しだけ安堵した。そして、深く息をついて「とりあえず……食べかけだし行こうか」と言い、彼女をリビングに戻す。
旭はすでにテーブルに座り、リラックスした様子でテレビを眺めていた。彼は2人を見て、にっこりと笑う。
「さぁさぁ、改めて自己紹介しようか。
俺は
こんな息子と……一緒にいてくれてありがとな」
衿華は少し戸惑いながらも微笑みを返し、頭を下げた。
「その……お邪魔してしまってすみません……」
「いやいや、全然気にしなくていいよ。むしろこんな賑やかな夜は久しぶりだ。なぁ、千成?」
「……勝手に盛り上がるなよ」
千成はぶっきらぼうに答えながら、残っていた巻き寿司をテーブルに戻した。旭はその様子を見て笑っている。
「この巻き寿司……衿華ちゃんが作ったのか?
ひとつ頂いていいかい?」
「え、はい……どうぞ。でも、そんなに大したものじゃないです」
「いやいや、これは凄いぞ。千成が作る飯なんて、せいぜいカップ麺か冷凍食品だからな」
「余計なこと言うな!」
千成が顔を赤くして抗議するが、旭は気にせず寿司を一口食べて満足そうに頷いた。
「うん、これは美味い。千成、いい相手を持ったな。
衿華ちゃん、千成に作ってくれて感謝するよ」
その言葉に衿華は少し照れたように笑い、千成はますます居心地悪そうに視線を逸らした。
「で2人は……いつからこんな関係なんだ?」
興味津々な旭が問うと、衿華が「今週の月曜から……毎日私が神室くんのご飯を作ってるんです……」と返した。
「月曜から!?」
それを聞き、旭の目は大きく見開かれた。
「そりゃ悪いね……千成が本当に世話になってしまって。
今まで作ってくれてた分の食費は俺が出すよ」
「……いや、もう既にオレが全額負担してるからいい」
素っ気なく千成が返すが、「それでも手間賃なんて払ってねぇんだろうが」と旭が睨む。
「私としては……手間賃なんてそんな!」
衿華が否定するものの、旭は態度を崩さない。
「神室くんは……手伝ってくれてますから手間賃なんて大丈夫です!」
「そうだ。手間賃なんて……衿華も頼んでない」
千成も衿華に合わせて、旭にそう言った。
「お前が食費出すって言ったんだから、せめて俺が払うくらいの気遣いをしろよ」
「誰も頼んでないって言ってるだろ!」
「そうです……お金以外でももう十分貰ってますから!」
その衿華の発言に、旭はニヤリと笑った。
「そうか?じゃあ、まぁ、気にしないでくれ。
ほら、衿華ちゃんの寿司食って落ち着け」
「寿司食ったって、ピザも来るんだろ!」
「そうだぞ!だから今日はいっぱい食えよ。衿華ちゃんも遠慮なんてしなくていいんだからな!」
「腹一杯になるわッ!」
千成は旭の無駄に大きなリアクションにツッコミを入れ続ける。衿華もその様子に少し笑いながら、和やかな空気が広がっていく。
………………
…………
……
ピザを食べ終え、リビングに穏やかな静けさが戻った頃、時計が21時を指していた。
「さて、そろそろ……」
旭がゆっくりと立ち上がり、千成に向かって言った。
「千成、お前、衿華ちゃんを送ってやれよ。遅くなると親御さんも心配だろうしな」
「えっ、でも……」
千成は少し戸惑ったが、旭の真剣な表情に気づき、しぶしぶ頷いた。
「分かったよ、親父。三谷さんは……大丈夫?」
「普段よりは早い時間に帰すことになるが、大丈夫か?」という意味の含まれた千成の言葉。
「うん、大丈夫。ありがとうございます、神室さん」
千成の言葉の意味を正しく捉えた衿華は軽く頭を下げて旭を見る。
が、何も知らない旭はその様子を見て、安心したように口を開いた。
「それなら良かった。夜道は危ないからな、気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
衿華は笑顔で返すが、千成は少し恥ずかしそうに目を逸らしながら立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
千成が玄関に向かうと、旭が後ろから声を掛けた。
「おい、千成、あんまり優しくしすぎんなよ。調子に乗られるぞ」
「うるせぇよ、親父」
千成は慌てて扉を開け、「ピザ、ご馳走様でした。お邪魔しました」と丁寧に頭を下げた衿華と外に出た。
「親父……三谷さんが隣のマンションって知らないから『夜道は危ない』ってさ」
「まぁ、普通だったらそう考えちゃうよね。それよりも……」
空いたエレベーターに、彼らは乗り込んだ。
「呼び方……変えた方がいいよね」
不意に、衿華は千成を見た。
「えっ?呼び方……?」
「うん。神室くん……と、お父さんを呼び分けなきゃじゃん」
「確かに……そうだな」
エレベーターが静かに降りていた。
「呼び方……変えた方がいいよね」という衿華の言葉が、千成の頭の中で何度も繰り返される。
「神室くんって……呼び方、オレも親父も神室だし、確かに変えないといけないか」
千成は口を閉じたまま少し考え込み、そして、顔を赤くしながら言った。
「でも、呼び方変えるって……下の名前だろ?
なんか照れくさいな」
衿華は少し笑って、千成と同じ頬の色のまま答えた。
「うーん、そうだね……じゃあ……」
衿華は少し恥ずかしそうに千成を見つめる。
「神室くん……あの、今日からは、私もあなたのことを下の名前で呼んでいい?」
「えっ……?ああ……まあ、別にいいけど」
千成は少し照れくさそうに返事をする。普段、滅多に呼び捨てにされない自分の名前を、衿華が呼んでくれることに胸が踊った。
「じゃあ……呼び捨て。千成って呼んでもいい?」
「お、おう」
衿華がほんのり顔を赤らめながらそう言うと、千成も顔を背けて少し照れ笑いを浮かべた。
「千成も。私のこと……下の名前で呼んでよ」
「え……いいのか?」
「うん、もちろん!」
衿華は嬉しそうに答える。二人の間に少しの沈黙があった後、千成が言葉を続けた。
「じゃあ、えっと……衿華……」
「衿華……って、千成に呼ばれるのはちょっと恥ずかしいけど……嬉しいよ」
衿華がそう言うと、千成も同じように恥ずかしそうに笑った。
衿華のマンションの自動ドアが開く。
2人はお互いに顔を見合わせ、少しだけ照れながら、下の名前で呼び合う新たな関係が始まったことを強く意識していた。
「……千成」
衿華が静かに名前を呼ぶ。その声に、千成は思わず足を止めた。
「え?」
身を翻そうとした千成の袖が、不意に引かれた。
見ると、衿華が少しだけ頬を染めながら、彼の腕を掴む。
「まだ……行かないで」
潤んだ瞳が、千成を捉えていた。
「今日は解散がいつもより早かったの……ちょっと寂しい。
明日も……千成に会いたいよ」
その言葉に、千成はドキッとした。
胸が高鳴り、心臓が急に勢いのあるビートを刻み始める。
衿華の目が真剣で、少しだけ不安そうに見えたから、千成はその気持ちをどう返すべきか解らずに暫く放心状態になっていた。
「えっと……オレ、明日は……っていうか、毎週日曜日は午前中にバンドの練習があるけど、午後からなら空いてるよ」
数秒の沈黙の後に千成が言うと、衿華の顔に少しだけ期待の色が浮かぶ。
彼はその表情を見て、心の中で安堵した。
「じゃあ、午後から……会える?」
「うん、もちろん。親父は寝てるから安心しろ」
千成は少しだけ照れくさそうに頷き、衿華はにっこりと笑った。
「楽しみにしててね、千成」
その言葉に、千成もまた、少しだけ笑みを浮かべた。
「じゃ、また明日な、衿華」
「うん、またね、千成」
衿華を乗せた扉が閉まる。
千成は上階へと進んでいくエレベーターを見送りながら、心の中でまだ少しだけ高鳴る気持ちを感じていた。
───名前で……呼んでもらえた。
思い出すだけで、自然と顔が綻ぶ。
他の住民にこの顔を見られなければ良いなとも思いつつ、彼は部屋へと戻った。