翌日、日曜日。
千成がバンド練習を終えて部屋に楽器を戻すと、ちょうど衿華からラインが来ていた。
『千成!バンド練習お疲れ様!お昼ご飯は食べた?』
『まだ食べてない』
千成がそう返信すると、一瞬で既読が付く。
どうやら衿華は、トーク画面を開きっぱなしにして彼の返事を待っていたらしい。
『じゃあ、ご飯準備するよ!寝てる千成のお父さんを邪魔しちゃ悪いし、狭くてごめんだけど……私の家に来て!』
可愛らしい猫のスタンプを添えて送られたメッセージを見て、千成の心臓はどくんと鳴った。
───衿華の家へ……行くだと!?
今までの一週間、衿華は千成の家でいつも食事を作ってくれていた。
けれど、その逆はない。千成が衿華の部屋に入ったことなど無かったし、そうするのも気が引けていた。
───衿華がオレの所で料理してくれてたのは、あいつの善意だからいいんだが……オレを家に招くなんて、何考えているんだ?勘違いしそうになる……
目頭を押さえて考えるものの、出てくるのは衿華が彼に見せる笑顔ばかりだった。
───あいつ……マジで有り得ないって。オレのこと信頼し過ぎだろ。
『わかった。10分後に行く』
衿華が来てと言っている以上、行かなければまずいかと思った千成。返信すると、またしてもすぐ既読が付いた。
『待ってるね!気をつけて来てね!』
最後に送られた猫のスタンプを見て、千成はスマホをポケットに仕舞い込む。
そして軽くため息を吐きながら、部屋を出る準備を始めた。
───隣のマンションとはいえ、部屋に野郎を入れるなんて……普通、もっと慎重になるだろ。
頭の中でそんな文句を言いつつも、千成の心臓は高鳴りっぱなしだった。
彼は妙に落ち着かない様子で寝癖がないか髪を直したり、着ているアウターシャツの裾を整えたりしていた。
終いには、金曜日に正悠らに言われたことを思い出して前髪を上げようか悩み出す始末。
───衿華と会うだけなら……前髪を上げても大丈夫な気がする。
いつの間にか彼はドライヤーとヘアアイロンを手にしていた。
───なんか、気を遣いすぎじゃねぇか、オレ……
そう自分にツッコミを入れながら、髪の毛をカールさせていく。ライブ時にはアイロンをかけることが多い彼だが、上げた前髪をカールさせるのは初めてで、少々苦戦しながらも巻き終え、ワックスで仕上げた。
『支度終わったから行くわ』
そうメッセージを入れた千成は隣のマンションの入り口に到着する。
インターホンを押すと、すぐに「はーい!」という元気な声が返ってきて、ドアロックが開いた。
『千成!304号室に来て!』
千成は衿華に案内されるまま、彼女の部屋の前に立った。
ドアが開くと、ふわりと柔らかな香りが鼻を擽る。
「どうぞ、入って!」
衿華の声に促され、千成は恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
「千成、前髪上げてきたんだね!」
興奮気味の衿華の顔は、やけに近かった。
千成は少しだけ耳が熱くなったが、直ぐに視線を逸らす。
───なんだこれ、めっちゃ女の子の部屋じゃねぇか。
千成が目にしたのは、淡いピンクや白を基調とした、いかにも「女の子らしい」と言えるワンルームの部屋だった。
ベッドには可愛らしいクッションがいくつか並び、小さなテーブルには花柄のクロスが敷かれている。
棚には小さなぬいぐるみや雑貨が整然と並び、窓辺にはレースのカーテンが揺れていた。
「思ったより……凄いな」
千成がぽつりと漏らすと、衿華は少し照れたように笑った。
「えっ、そうかな?普通だと思うけど……あ、散らかってるって意味……?そうだったらごめん」
「いや、全然散らかってないし……むしろ、オレの所と正反対すぎて落ち着かねぇ。いい意味で」
千成は部屋の隅に視線を向けながら、どこに座ればいいのか迷っている様子だった。
「あ、そこ座ってて!」
衿華が指差したのは、ベッドの近くに置かれた丸いラグの上だった。
「ベッドとかはちょっと……恥ずかしいから、そこなら……大丈夫?」
「いや、オレとしてはどこでもいいけど……まぁ、そこ座るわ」
千成は少しぎこちなく、ラグの上に腰を下ろした。
部屋を見渡すと、勉強机の上だけ乱雑になっている。
「衿華……さっきまで勉強してた?」
千成がそう問うと、少しだけ衿華は恥ずかしそうに頬を染めた。
「バレちゃったか。理論化学……粒子がぜんぜん出来なくて」
「これから無機とか有機とかが来るし、難易度跳ね上がるよな……」
「だよね……あっ、お茶淹れるから待っててね!すぐご飯作るから!」
そう言ってキッチンに向かう衿華の後ろ姿を、千成はなんとなく眺めた。
淡い色合いのエプロンを手早く身につける姿が、彼の目にはやけに可愛らしく映っていた。
───なんだこれ、オレ、めっちゃ場違いじゃねぇか……
部屋全体に漂う優しい雰囲気に、千成はますます居心地の悪さを感じる。
「千成、何か食べたいものある?パスタとか、オムライスとか……」
「……いや、何でもいい。お前が作るなら、それで十分だ」
そう答えた千成の声は、どこか少しだけ照れくさそうだった。
そんな彼の様子に、衿華は頬を膨らませる。
「何でもいいって……それが一番困るよ」
「じゃ……オムライスで」
キッチンで忙しそうに動き回る衿華を横目に、千成はラグの上でなんとなく部屋を見渡していた。
どことなく落ち着かない気分ではあったが、衿華の背中を見ていると、それも少しずつ和らいでいく。
やがて、テーブルに湯気を立てたオムライスが二皿並べられた。
ケチャップで可愛らしく描かれた猫の顔が、それぞれのオムライスの上に乗っている。
「できたよ!千成の分はこっち!」
「何だこれ、めっちゃ丁寧じゃねぇか」
千成は驚きながらも、衿華が作ったオムライスをじっと見つめた。
「可愛いでしょ?頑張ったんだから!」
「いや、まぁ……可愛いけど……オレにはちょっと可愛すぎるかもな」
そう言いつつも、千成はスプーンを手に取り、一口食べた。
ふわっと広がる卵の香りと、程よく酸味の効いたケチャップライスの味が口いっぱいに広がる。
「文句なしに美味いな」
「本当に?よかった!」
千成の素直な感想に、衿華は嬉しそうに笑った。
二人は向かい合いながらオムライスを食べ、たわいもない会話を交わす。
「そういえばさ、何でオムライスを選んだの?」
「ん?いや……オムライスって安心感あるし、お前が作るなら間違いないと思っただけ」
「そっか。千成、そういうの結構素直だよね。私に安心感持ってくれてるんだ」
「……別に普通だろ」
少し照れたように顔を背ける千成を見て、衿華はくすっと笑った。
「私も、千成と一緒に居ると落ち着く。ありがとね」
千成は、食事の間、衿華を直視出来なくなってしまった。
食事を終えたあと、衿華はお茶を淹れ直しながら、ふと千成に話し掛ける。
「ねぇ、千成」
「ん?」
「今日、私が『会いたい』って言っただけで、何も考えてなかったんだよね……。でも、せっかくだからさ、ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
「教えてほしいこと?」
「うん、化学の理論!粒子のあたり、全然わかんなくて……」
衿華が少し恥ずかしそうにそう言うと、千成は少し驚いた表情を見せた。
「お前、勉強得意そうなのに、そんなに苦戦してんのか?」
「うん……理論化学って、何回読んでも頭に入らなくて……千成、学年1桁の頭脳で教えてくれないかな……?」
そう言いながら、衿華は机から教科書とノートを持ってきた。
「知ってたんだな」
「知ってたよ。張り出されてたから」
「……まぁ、いいけど。オレ、教えるのとか初めてだから、解らなかったら言えよ」
「ありがとう!千成、頼りになる!」
衿華が満面の笑みを浮かべると、千成は少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らす。
二人は、化学の教科書を広げながら勉強を始めるのだった。