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第20話 ふとしたことでも触れてしまう距離

 千成はノートを開き、モル濃度の計算問題を解説していた。


「てことで、溶液の体積が0.5リットル、溶質が0.1モルだから……」


 彼はシャーペンを持ち、衿華に見えるように逆さ文字で式を書き込もうとする。だが、普段やり慣れない動作に手が止まりがちになっていた。


「えっと……これで、こうなって……」


 ぎこちない手つきで文字を書く千成を見て、衿華がクスリと笑った。


「千成、逆さ文字間違ってるし……

 そんなに無理しなくていいよ。隣に座って教えてくれないかな?」


「……隣?」


 突然の提案に千成は手を止め、衿華を見つめた。


「うん。その方が千成も書きやすいでしょ?」


 衿華は自然な笑顔を浮かべながら、ポンポンと自分の隣を叩く。


「いや……でも、隣だと、近すぎるだろ……」


「近すぎるって何が?

 そっちの方が千成は教えやすいでしょ?」


 衿華の無邪気なのかよく解らない言葉に、千成は内心で頭を抱えた。


 ───いやいや、そういう問題じゃねぇだろ……!


 が、暫く逡巡した後、千成は観念して席を移動する。


「じゃあ、隣で教えるけど、セクハラだとか変なこと言うなよ?」


「今まで言ったことないでしょ!ほら、早く教えてよ?」


 衿華がノートを開いて待っているのを見て、千成は仕方なく隣に腰を下ろした。


 ───近い。めっちゃ近い。


 肩が軽く触れそうな距離感に、千成は心臓が跳ねるのを感じる。


「えっと……じゃあ、モル濃度の計算な。溶質のモル数を溶液の体積で割るから……」


 千成はペンを持ち、問題の数式を書き始めた。

 だが、ふとした拍子に衿華と肩が触れ合い、思わずペンを止める。


「ごめん、痛かった?」


「いや、全然痛くないけど……!」


 心配そうな衿華が千成の態度を不思議に思ったのか首を傾げるのを見て、彼はますます焦った。


 ───お前、無防備すぎだろ……!


 なんとか気を取り直し、計算のヒントを書き始める。


「じゃあ今書いた誘導の通りに計算してみて」


 衿華は指示通りにすらすらと計算し、答えを導出した。


「そうだな、モル濃度は0.2モルパーリットルになる」


「うん、しっかり解けた!!次もお願い!!」


 衿華がノートにメモを取りながら答える。


「じゃあ、次は酸化還元滴定の問題な。これは酸化剤と還元剤のモル比を考えるんだけど……」


 千成が説明を始めると、衿華がノートを覗き込むように顔を近づけてきた。


「ねぇ、ここってどういうこと?」


 衿華の髪が千成の頬にふわりと触れた瞬間、彼の動きが止まる。


「あ……っ!?」


 千成は慌てて体を少し後ろに引くが、衿華は全く気付いていない様子でノートを見ている。


「ここって、酸化剤が1モルのとき、還元剤が2モル必要ってこと?」


「あ、ああ……そうだよ。だから、還元剤が酸化剤の2倍になるんだ」


 千成は声を震わせないように必死で説明を続けた。


 ───やばい、これ、意識しすぎて全然集中できねぇ……


 衿華が解き終わると次に進むべく、千成は圧平衡定数の問題を開いた。


「この問題は、平衡状態のときの圧力を考えるやつで……」


 説明を続ける千成だが、隣の衿華の肩がまた軽く触れるたび、彼の集中力はどんどん削られていった。


「千成、ここも解らない……教えて!」


「あぁっ……ちょっと待て。オレも落ち着いてから教えるから……」


 千成は深呼吸をして気持ちを整えようとするが、隣に座る衿華の存在感が大きすぎて、どうにもならなかった。


 ───これ、勉強どころじゃねぇだろ……!


 心の中で叫びながら、千成はなんとか説明を続けるのだった。

 けれども彼の説明で衿華は確りとやり方を覚えてくれる。


「千成の教え方、とっても解りやすいよ。本当にありがとう」


 衿華がノートを閉じて微笑む。その無邪気な笑顔に千成は一瞬視線を奪われ、バレたくなくて慌てて目を逸らした。


「別に……オレは普通に教えてるだけだし。お前がちゃんと聞いてるからだろ」


 ぼそっと返しながら、千成は次の問題に目を落とした。しかし、隣に座る衿華の存在感があまりにも大きく、どうにも集中できない。


「千成、次の問題もお願いしていい?」


「あ、あぁ……次も似た問題だな。これ、応用レベルでちょっとややこしいけど……」


 千成が説明を始めたその時、衿華が身を乗り出してノートを覗き込んだ。


「えっと、この式ってこういう風に変形するの?」


「あ、そうだな。ここで……」


 衿華の動きに気を取られた瞬間、ふとした拍子に彼女の肩が千成に触れ、その勢いで───豊満な果実が彼の腕に軽く当たってしまう。


「っあ……!?」


 そのとき、千成の体が一瞬ビクリと硬直した。


「ごめんね、近すぎた?」


 何も気づいていない様子の衿華が無邪気に首を傾げる。その仕草がまた、千成の理性を試しているようだった。


「い、いや……別に。大丈夫だから」


 千成はなんとか声を絞り出し、視線をノートに戻す。けれど、心臓は止まらない勢いで高鳴っていた。


 ───ちょっと待て、これ本当にやばいだろ……!


 心の中で叫びながらも、千成は必死に平静を装った。

 衿華が再びノートに視線を落とすが、千成の隣で身を寄せるたびに、彼の意識は完全にそちらへ引っ張られる。


 ───オレ、こんなんで教えられるのかよ……!


 時計を見ると、まだ14時を少し過ぎたところだったが、千成の体感ではもう何時間も経ったように感じられた。


「千成、ここもうちょっと詳しく教えてくれる?」


「あ、あぁ……ここは、圧力の単位を揃えないといけないから……」


 なんとか説明を終えた千成は、そろそろ限界を感じ始めていた。








 ………………

 …………

 ……








 時計の針が15時を指した頃、千成は教科書を閉じ、大きな溜息をついた後に軽く背伸びをした。

 衿華もノートを閉じ、ふぅっと小さく息を吐く。


「よし、とりあえずここまでだな。これで粒子の計算問題は解けるはずだ」


「うん、ありがとう!千成が教えてくれたおかげで、なんとなく分かってきた気がする!」


 衿華は嬉しそうに笑い、机の上を片付け始める。

 その様子を見ながら、千成は自分のペースで飲んでいたお茶を一口含んだ。


 片付けが終わり、ふとした沈黙が訪れたとき、衿華が千成をじっと見つめた。


「ねぇ、千成」


「なんだよ?」


「千成って、普段……私がいない時は何してるの?バンドとか勉強以外で」


「音楽聞いてる……かな?」


 唐突な質問に千成は少し驚いたが、すぐに肩をすくめて答える。


「どんな音楽……聞いてるの?」


 真っ直ぐな視線。


「オレは……フェスとかに出てる日本のバンドが殆どだな。純ロックとかパンクとかメロコアとか……色々」


「へぇー!なんか千成っぽいと言ったらそうかもね。

 ジャンルはよく解らないけど……具体的にはどんなバンド?」


 衿華の目が興味津々に輝いているのを見て、千成は少し考え込む。


「邦ロックだと、有名なのだと……」


 千成は出来るだけ衿華でも知っていそうな名前を列挙していく。


「うわ、名前は聞いたことあるけど……どれも千成が好きそうな感じする!」


「そうか?」


「うん。なんか……疾走感があって元気が出る感じの曲が多いよね、きっと」


「そうだな。オレは歌詞よりも曲調の方が好きだ」


 衿華はにっこり笑いながら、さらに千成に質問を重ねる。


「ねぇ、千成のバンドって、どんな感じの曲やってるの?やっぱりそういうジャンル?」


「まぁ、近いな。オレらのはメロコア寄りだけど、ちょっとポップっぽい要素も入れてる感じだな」


「へぇー、面白そう!千成が好きな曲とか、オススメの曲があったら教えてよ」


 衿華の興味津々な様子に、千成は少し照れたようにスマホを取り出した。


「じゃあ、最近よく聴いてるやつな。まだメジャーデビューしてないバンドなんだけど……これ、聴いてみろよ」


 千成が音楽アプリを開き、スマホの音量を大きくする。

 流れ始めたのは、疾走感のあるギターリフと力強いドラムが印象的なロック調の曲だった。


「すごい、カッコいいね!なんか……歌詞は恋愛っぽい感じだけど聴いてると元気出る!」


「だろ?ライブハウスの先輩のバンドなんだけど……

 こういうのが好きなんだよ、オレは」


 千成が少し得意げに言うと、衿華は頷いた。


「千成がオススメしてくれた曲、もっと聴いてみたいな。今度、色々教えてね」


「あぁ。無限にあるぞ」


「全部聴くよ。無限に付いてく」


「聴きすぎて成績落とさない程度にな」


「そこら辺は大丈夫だよ!」


 二人の会話は、音楽の話題をきっかけに、さらに和やかに続いていく。

 千成はふと、衿華が自分の好きなものに興味を持ってくれることが、少し嬉しいと感じるのだった。

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