翌日、月曜日の朝。
衿華は千成からのラインを受け取っていた。
『親父はもう出社したから大丈夫だ』
そのメッセージを見た衿華は、安心したように微笑みながら、朝食のタッパーを手に取った。旭が居たせいで、昨日は家で準備をする羽目になったのだが、それでも彼女は上機嫌な様子で千成の家へ赴く。
が───
マンションのロビーに着くと、エレベーターを待っているときに、運悪く旭と鉢合わせしてしまった。
「おっ、衿華ちゃんじゃないか。おはよう」
旭はスーツ姿で、仕事に出かけるところだった。衿華は一瞬目を丸くした。
それでも、彼女はすぐに笑顔を作って挨拶を返す。
「あ、おはようございます、神室さん」
だが、旭は何かを察したようににやりと笑った。
「おや、朝から何か持ってるね。千成にでも渡しに行くのかい?」
衿華は顔が赤くなるのを感じながら、慌ててタッパーを隠そうとしたが、すでに旭の目はその内容を見抜いていた。
「えっ、あの……」
「ふふ、まさか料理を作って持って行くなんて、千成も幸せ者だな」
旭は軽く肩を叩きながら、少し意地悪く言う。
が、やけに真面目っぽい口調になり、衿華を真っ直ぐに見つめた。
「もしかして、毎朝……千成のために料理してくれてたのか?親としては有り難い気持ちも申し訳ない気持ちもあるのだが……」
「そ、それは……」
衿華は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、どう答えるべきかと視線を泳がせる。
一方の旭はまた表情を一変させた。にっこりと笑って、衿華の反応を楽しんでいる様子だ。
「まぁ、あんな奴だが仲良くしてくれ。あいつの事で悩むことがあるのなら、いつでも相談に乗るからな」
旭は懐から名刺入れを取り出すと、中から一枚、衿華に渡した。
「あ、ありがとうございます……」
衿華はタッパーを両手でしっかりと抱えたまま、名刺を指に滑り込ませるようにして受け取る。
「うんうん。まぁ、お互いに頑張れよ」
旭はそう言って、軽く手を振りながら去ってしまう。
「はぁ、真面目なのかおちゃらけているのか解らない人だなぁ……」
取り残された衿華はその場で小さく溜息をつき、タッパーをしっかりと抱えて千成の部屋へと向かった。
………………
…………
……
登校時間、千成と衿華はいつものように並んで昇降口へと歩いていた。
「……で、結局、あの問題はオレなしでも解けたか?」
千成が昨日の勉強の話を振ると、衿華は少し考え込んだ。
「うーん……標準レベルの部分はなんとか。でも、まだちょっと応用問題は不安かな」
「そっか。なら、また昼休みとかにでも……」
千成がそう言いかけた瞬間、衿華の靴箱に何かが入っているのが目に入った。
それは小さな封筒──手紙だった。
「また……か」
衿華は一瞬だけ表情を強ばらせたが、すぐに何事もなかったように取り出し、さりげなくブレザーのポケットに滑り込ませる。
千成に気付かれないよう、できるだけ自然に。
「ん? どうかしたか?」
「ううん、何でもないよ」
衿華は笑顔を作りながら靴を履き替える。
だが、その手元はどこかぎこちなかった。
千成は特に気にすることなく、自分の靴箱を開ける。
だが、ふと横目で見た衿華の様子に、なんとなく違和感を覚えた。
───なんか、今の動き、不自然じゃなかったか?
しかし、衿華は何事もなかったかのように「行こっか」と千成を促し、さっさと昇降口を抜けていく。
千成は少しだけ眉をひそめたが、特に何も言わず、彼女の後を追った。
───気のせいか? いや、でも……
妙な引っかかりを覚えながらも、千成は衿華を追いかけるように歩く。
が、彼女は教室の目の前でふと足を止めた。
「千成、先に教室行ってて。私、ちょっとトイレ寄ってくるから」
「……あぁ、わかった」
千成は少し不思議そうに返事をしたが、それ以上は何も言わなかった。
衿華は千成が教室に入るのを確認してからトイレに入ると、その手紙の中身を確認した。
………………
…………
……
昼休み、千成は少しだけ憂鬱そうにスマホを眺めていた。
『千成、ちょっと用事があるから先に行ってて』
そう衿華からメッセージを受け取っていた。
『わかった。待ってる』
千成は、いつものように西館の外階段へ向かう。
昼休みの賑やかな校内から離れ、風が吹き抜ける外階段は相変わらず心地よい場所だった。
が、今日は妙に落ち着かない。
なんとなくスマホを弄りながら時間を潰していたが、ふと視界の端に違和感を覚えた。
階段の下の方───中庭に、人が集まっているのだ。
───な、何だ?
千成は無意識のうちに身を乗り出し、人集りの中心を探した。
そして───そこに、衿華の姿を見つける。
───何で、あいつ……?
衿華の前には、背の高いイケメンが立っていた。
周りの生徒たちはヒソヒソと何かを話している。
───もしかして……
遠巻きに見ていた千成の胸がざわつく。
何を話しているのかは聞こえないが、男はどこか余裕のある表情で衿華を見つめ、衿華は真剣な眼差しで何かを伝えているようだった。
───知り合い?それとも……?
千成の指先が無意識に強張る。
衿華が千成に隠していた手紙のことを、彼は知らない。
けれど、何か嫌な予感がしてならなかった。
が、次の瞬間、衿華がぺこりと頭を下げる。
そして、そのまま踵を返して足早にその場を離れていった。
───断ったんだ。
千成はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ和らいでいく。
それでも、衿華が何を話していたのか気になって仕方がなかった。
そのまま彼女が昇降口に入り、こちらに向かってくるのを窓越しに見て、千成は何気ないふりを装いながら、ポケットに手を突っ込んだ。
───聞くべきか、聞かないべきか。
考えているうちに、衿華が階段を上がってくる。
彼女はいつもの笑顔を作りながら、千成の前に立った。
「お待たせ!ごめんね、待たせちゃった」
その顔を見た瞬間、千成はふっと肩の力を抜いた。
「あ……いや、別に」
───今はまだ、何も聞かない方が良いだろうか。
千成はいつものように衿華と並んで座る。
衿華は、千成の隣に座ると、いつも通りに弁当を広げた。
だが、彼はどうしてもさっきの光景が頭から離れない。
───何を話していたんだろう。やっぱり……
聞きたいが、聞いていいのか迷う。
千成は弁当を開ける手を止め、ちらりと衿華の横顔を盗み見た。
「……何?」
衿華がふと顔を上げ、千成を見つめる。
その目はいつも通り穏やかで、特に何かを隠しているようには見えなかった。
「いや……」
千成は一瞬迷ったが、結局言葉を飲み込んだ。
どう聞けばいいのか、解らなかった。
聞けば、衿華に悪い気がして、それでも知りたい自分もいて───と、せめぎ合う悶々とした思いが彼の胸の中で渦巻く。
すると、衿華は小さく笑った。
「千成、さっきからなんか変だよ。何か気になることでもある?」
「……別に」
千成は素っ気なく答えながらも、視線を逸らす。
しかし、衿華はじっと彼を見つめたまま、少し考えるように唇を引き結んだ。
そして──
「もしかして、さっきのこと?」
核心を突かれ、千成はわずかに肩をこわばらせた。
衿華はそんな彼の反応を見て、少しだけ目を細める。
「……見てたんだ?まぁ……この位置なら見えちゃうか」
「……まぁ、な」
千成は観念したように答え、弁当の箸を動かすふりをする。
衿華は少しだけ目を伏せ、ため息混じりに微笑んだ。
「大したことじゃないよ。ただの告白だった」
「……告白?」
「うん。手紙、今朝の靴箱に入ってたやつ」
───やっぱり、さっきの光景は告白だったのか。
そう千成は無言で彼女の言葉を反芻する。
「それで……断ったんだな」
「うん」
衿華はそれが当たり前とでも言うように、あっさりと頷いた。
「何で?あの人、めちゃくちゃ容姿が整ってたし」
思わず千成は聞いていた。
衿華は驚いたように目を瞬かせたが、すぐにくすりと笑う。
「……何でって。その人のことを好きじゃないから……だよ?」
その言葉に、千成の胸の奥がかすかにざわつく。
衿華は何でもないようにそう言ったが、千成にはどうしても気になった。
───じゃあ、その男がもし好きだったら、付き合ってたのかよ?
そんな考えが頭を過ぎる。
だが、それを口に出せるような勇気はなかった。
「……そっか」
結局、それしか言えなかった。
衿華は「うん」とだけ返し、また弁当に視線を落とす。
千成もいつも通りのふりをして弁当を口に運ぶ。
けれど、食欲は少しだけ失われていた。
「それに今は……」
衿華は真っ直ぐに千成を見た。
「千成と一緒にいると楽しくって、他の男の人のことは考えたくないんだ」
「……は?」
千成は思わず、箸を止めた。