「千成と一緒にいると楽しくって、他の男の人のことは考えたくないんだ」
そう言いながら、衿華は柔らかく微笑んだ。
それは揶揄うような笑いでも、軽い調子のものでもなく、真っ直ぐな気持ちが滲んだ笑顔だった。
ほんの僅かに頬が紅潮しているのが判る。
「……は?」
千成は、箸を止めた。あまりにも不意打ちすぎる衿華の発言に、言葉を失っていた。
千成の目の前で微笑む彼女の表情が、妙に彼の胸に引っかかる。
何気ないようで、どこか特別な響きを持つ言葉。
その意味を深く考えたくないのに、無意識のうちに意識してしまう。
「……オレと一緒にいると楽しい?」
自分で言葉を繰り出してみると、なんだか気恥ずかしくなってくる。
けれども、衿華は「うん」と、ごく自然に頷いた。
「だって、千成と話してると面白いし、気を遣わなくていいし……何より、落ち着くんだよね」
さらっと言われた言葉なのに、千成の胸の奥にじわりと熱が広がっていく。
けれど、それを悟られたくなくて、彼は視線を逸らした。
「……オレ、別に面白くもないし、気なんか遣わせてないつもりもないけど」
「自分を卑下しないでよ。私は……千成といると、なんか自然体でいられるんだ」
衿華は微笑みながら言う。
その表情があまりにも屈託のないもので、千成はますます落ち着かなくなった。
「……それにね」
衿華は少しだけ視線を落とし、箸で弁当の中の卵焼きをつついた。
「もし、誰かと付き合うことになったら、その人のことをちゃんと好きになりたいし、大事にしたいって思うんだ。ちょっと重いかな?」
「……そんなことはないだろ」
「ありがと。だから、ただ顔がかっこいいとか、条件がいいとか、そういう理由で付き合うのは違うかなって」
衿華の言葉は、妙にすとんと千成の胸に落ちた。
彼女の言っていることは、すごく真っ当だ。
好きだから付き合う───ちゃんと大事にしたいと思える相手と。
そんなの、当たり前のことのはずなのに。
千成はなぜか、その言葉に引っかかってしまう。
「……ふーん」
それ以上、何を言えばいいのかわからなくて、適当な相槌を打つ。
けれど、心の中ではずっと同じ言葉がぐるぐると渦巻いていた。
───じゃあ、オレは?
衿華はオレと一緒にいると楽しいって言った。
でも、それは「友達として」なのか?
もし、衿華が誰かを好きになったら、オレはどう思うんだろう?
考えたくないのに、勝手に想像してしまう。
───衿華が他の男と笑い合っているところ。
誰かに「好き」って言っているところ。
誰かの隣で、オレといるときみたいに自然な顔をしているところ───。
「……っ」
千成は無意識に、手に持っていた箸をぎゅっと握りしめた。
「千成?」
衿華が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
千成は慌てて誤魔化すように、口元に手をやった。
「……いや、何でもねぇ」
「そっか?」
「にしても……お前、卵焼きばっか食ってんな」
「え? あ、うん。今日の卵焼き、ちょっと味付け変えてみたんだよね」
「へぇ……」
話題を逸らしたくて適当なことを言ったのに、衿華は嬉しそうに頷いた。
その姿を見て、千成はまた心の中で溜息をつく。
───わかんねぇ。
自分が何を考えているのか、何を感じているのか。
ただ、胸の奥が妙にざわついて、落ち着かなかった。
………………
…………
……
「それじゃあ、カフェのシフト調整が済んだから発表するね!」
「部活とか他の用事とかで変更が要るって人は、早めに私に連絡してね!」
衿華はそう言いながら、プリントを配っていく。
───オレの名前は……あった。
文化祭は2日間あるが、千成はDチーム、両日ともに最期の1時間半を接客として担当することになっていた。
「千成。俺たち、同じチームだな。胸張っていこう」
前の席に座る、
「うん……よろしく」
苦手な接客だが、Dチームのメンバーにあったのは彼に関わったクラスメイトの名前だった。
リーダーに就いているのは、級長の衿華。副リーダーに正悠がいて、他には
「Dチームの時間が1番忙しい時間らしいから頑張ろうな」
正悠がそう言ってくる。
「げ、そうなんだ……」
最も忙しい時間に配属されてしまったことに思う所があった千成。
だが、衿華をちらりと見ると彼女はにこりと笑いかけてくる。
───もしかして、衿華はわざとオレを忙しい時間に置いたのか?
衿華の笑顔を見た瞬間、千成は直感的に確信した。
───わざとだ。
千成の苦手な接客、それも最も忙しい時間帯。
偶然だと考えるには、タイミングが良すぎる。
千成は半ば呆れたようにため息をつき、配られたシフト表を指でなぞった。
Dチームの接客時間帯は、ちょうど文化祭が最も賑わう時間。
そこに千成の名前があるのは、果たしてただの偶然なのか、それとも──。
ちらりと衿華を見ると、彼女はすでに別のクラスメイトと話していた。
相手の質問に答えながら、手際よく対応している。
───オレを成長させようとしてる……とか?
そんなことを思う自分に、千成は少し驚いた。
衿華が何を考えているのかはわからないが、彼女ならそういうことをしそうだ。
苦手だから避けさせるのではなくて、苦手だからこそ挑ませる。
そんな意図が透けて見えるような気がした。
「神室、そんな顔するなって。やるしかないんだし」
いつの間にか隣に現れた燈哉が、肩を軽く叩いてくる。
「花崎くん……それはそうだけど」
「ま、文化祭でクラスメイトと一緒に大変なことを片付けるなんて、やってみたら意外と楽しいかもしれないぞ?」
正悠は気楽に笑っていたが、千成はまだ腑に落ちない気持ちを抱えていた。
───衿華は本当に、オレに成長してほしいと思ってるんだろうか。
それともただの偶然で、千成が考えすぎなだけか。
衿華が再びこちらを見て、少しだけ口元を緩める。
それはまるで「頑張ってね」と言っているかのような表情だった。
「……ったく、仕方ねえな」
千成は小さくぼやきながら、シフト表を折りたたんだ。
どうせ逃げられないなら、せめて全力でやってやる。
そう思いながらも、文化祭当日の自分を想像するだけで、胃のあたりが少し痛み出した気がした。
「じゃあ、Dチームの人はこっちで打ち合わせしよう!」
衿華が軽く手を叩いて促すと、千成たちは教室の後ろに集まった。
彼女はプリントを手にしながら、メンバーの顔を見渡す。
「接客と裏方の担当はもう決まってるけど、接客の中でも入口、ホール、会計があるし、裏方もドリンク係と盛り付けがあるから、それを分担しよう」
接客6人、裏方4人の計10名のチーム。
接客班は千成、正悠、玄杜、燈哉、衿華ともう1人、彼女と仲のいい韓国風メイクの女子生徒だった。
「入口2人、ホール3人、会計1人で分担するよ。希望はある?」
メンバーを見渡していた千成だったが、ここで燈哉がビシッと手を挙げる。
「俺、会計やるわ! こういうの得意だし」
「じゃあ、ホールは俺がやる」
玄杜もすぐに決めると、正悠は「じゃ、俺もホールにするよ」と返す。
「
正悠が問うと、衿華の友人は答えた。
「いいよ、あたしはホールで」
「おっけー!
接客メンバー5人の視線が、一斉に千成に向く。
「私と千成は……入口やろっか」
なにか含みのある衿華の表情と、ニヤついた4人。
───衿華に……嵌められた……
千成の担当の場所は、いつの間にか決められていた。
周りの表情から察するに、衿華が何かしたのだ。
千成は思わず衿華を睨んだが、当の本人はまったく悪びれた様子もなく、にこりと笑っている。
「オレが入口……!?」
「うん、そうだよ! 入口ってね、お店の印象を決める大事な役割なんだから!」
「いや、それをオレにやらせるのはミスキャストだろ……」
文化祭で最も賑わう時間帯の接客。しかも、入口担当となれば、客の第一印象を決める重要なポジションだ。
ただでさえ千成は接客に苦手意識を持っているのに、それを入口に配置するとは。
「ううん。千成なら……大丈夫だよ。
私がついてるから!それに、千成は客商売に向いてる気がするから!」
「えっ……それは?」
「勘!」
「はぁ……?」
千成は呆れながらため息をついた。周囲はそんなやりとりを見て微笑んでいる。
「大丈夫だよ、千成と一緒にやるから」
そう言われて、千成は言葉に詰まる。
「それが余計にプレッシャーなんだけど」
「えっ、酷いよっ!」
衿華はわざとらしく肩をすくめて見せたが、すぐに真剣な顔になる。
「でも、本当に大丈夫。入口はただのお出迎えじゃなくて、お客さんに『楽しい場所だ』って思ってもらうための役割だから」
その言葉を聞いて、千成はちらりと衿華を見た。
彼女は、真剣な目をしていた。曇りのない瞳は、ただ千成だけを捉えている。
───オレをここに配置したのは、やっぱり偶然じゃない。
やはり衿華は、千成の変わるきっかけを作ろうとしている。
それは千成の中で確信に変わったが、それでも何故か楽しそうだと思える自分もいた。
「……ったく、仕方ねぇな」
千成はしぶしぶ頷く。
「やるならちゃんとやれよ、千成」
正悠が、千成の肩にぽんと手を乗せる。
「勿論……そうするよ……」
そんなやりとりをしながら、Dチームの準備は着々と進んでいくのだった。