文化祭当時の朝。
千成はむくっと起き上がり、現れた衿華を招き入れた。
いつものように彼女は朝ごはんを準備してくれるのだが、今日はどこか違う。
「髪……ハーフアップにしてるのは初めて見たわ」
そう言うと、衿華がちらりと千成を見た。
「そうだっけ?文化祭だから、ちょっと気合い入れたんだよ!」
そう言ってレンチンしている仕草すら、いつもよりも洗練されて見えた。
ハーフアップになっているだけではない。髪は巻かれていて、いつもよりも華やかに見える。
メイクも普段より丁寧で、目元がほんの少しだけ強調されている気がして、千成は思わず視線を逸らした。
「まぁ……女子は皆、行事だとしっかり気合い入れてくるしな……」
千成は言葉少なに返しつつ、妙に落ち着かない気持ちになっていた。
「どうしたの?」
衿華は不思議そうな顔を向けてくる。
その顔すら、千成にはいつも以上に可愛く見えて、余計に落ち着かない。
「……いや、何でもねぇ」
ぎこちなく返しながら、千成は素直に思ったことを言えない自分自身に内心舌打ちした。
───なんでもねぇ、じゃないだろ。
可愛すぎるんだよ、朝から。
心臓を押さえながら外の景色を眺めていると、背後から声が掛かる。
「千成。前髪……上げるんでしょ?」
「まぁ……そうしろ、とは皆から言われてるよな」
接客において、自分の姿が清潔感の欠片も無いものだとは自覚している。だが、やはりクラスメイトや、他クラスの生徒に顔を晒すのは気が引けた。
だが───
「千成、逃げないで。私も気合い入れたんだから、千成も気合いを入れないと嫌だよ?」
千成は衿華の言葉に、思わず目を瞬かせた。
「だってせっかくの文化祭だよ?
私だけ頑張るのは……なんかズルくない?」
衿華はそう言いながら、電子レンジの前で腕を組み、じっと千成を見つめる。
「いや、お前が勝手に気合いを入れたんだろ」
その言葉に、衿華は千成を一瞬だけ睨んだ。
「そうだけど。でも千成がちゃんとしてたら、もっと私は文化祭を楽しめると思うんだよね」
「……別に、オレはいつも通りでいいし」
そう言いながら、千成は無意識に前髪に手を伸ばしかけた。が、その動きを見逃さず、衿華がすかさず詰め寄る。
「ほら、触った!やっぱりちょっとは気になってるんじゃないの!」
「ッ……うるせぇ!」
視線を逸らした千成に、衿華は満足げに微笑む。
「じゃあ、朝ごはん食べたらセットしてあげるね」
「いや、別に頼んでねぇし。自分で出来る」
「いいの!こういうの、女の子の特権だから!」
「は?」
「任せて、千成。私の好みのスタイルにしてあげる!」
そう言って衿華は弾むようにキッチンへ戻る。
千成はその背中を見送りながら、じわじわと自分の鼓動が早まっていくのを感じていた。
───好みのスタイル、って。
衿華が無邪気に言っただけなのは解っている。だけれども、千成はその言葉でやけに意識させられてしまったのだった。
………………
…………
……
文化祭は、曇天から始まった。
千成が通う佐倉第一高校は、金曜日と土曜日に文化祭を行う。
一日目は校内限定で、二日目で外部の人を受け入れる形だ。
「よし!気合い入れていこう!」
「Aチームの皆、頑張ってね!」
開会式を終えて、一番最初のシフトに入るAチームは準備に入っていく。
そんな中で───衿華が千成の隣に寄ってきた。
「ねえ、一緒に文化祭回ろうよ」
まだクラスメイトが半数近く残っている教室で、衿華はハッキリと千成を誘った。
前髪を上げたことで、いつも以上によく見えるクラスの景色。
衿華が千成を誘った言葉に、周囲の目が一斉にこちらを向くが、皆が微笑ましそうに彼らを眺めているのが判って千成はひと安心する。
「……別にいいけど」
ボソッと答えると、衿華は少し考え込んだあと、ふと思い出したように言った。
「生物部の企画、行きたいんだよね」
「生物部?」
「あんまり目立たないけど、毎年結構凝ってるんだって。
衿華が興味を示したのは、校舎の奥のほうでひっそりと行われる生物部の展示だった。千成は「ふーん」と頷きつつ、少し考えてから口を開く。
「だったら、それは二日目のほうがいい気がする」
「えっ?」
「一日目は校内限定だから、混むって言っても大したことはない。人気の企画は一日目に回るべきだろうな。お化け屋敷とか劇とか。で、二日目は外部の人も来るから、人気なのがさらに混むだろうし……避けた方が楽しめる」
「あっ……確かにそうだね」
「生物部の企画は落ち着いてるし、そんなに混まないだろうから、明日ゆっくり見に行けばいいんじゃないか?そのほうが快適だろ」
「確かに。千成、流石だねっ」
衿華は納得したように頷く。
「じゃあ、今日は人気のところに行ってみる?」
「そういうこと」
「ふふっ、千成って意外と文化祭慣れしてるんだね」
「は……?」
衿華が零した笑みに、千成はどきっとしていた。
「だって、ちゃんと計画立ててるし」
「……いや、別にそんなことねえけど」
千成は気恥ずかしさをごまかすように視線を逸らしながら、文化祭のパンフレットを開く。
言えなかった。
もしかしたら、衿華と回るんじゃないかと想像して色々と計画を立てていたことを。
「千成。行っておいで」
パンフレットで顔を隠していると、背後から声がかかる。
振り返ると、そこに居たのは正悠だった。
「堀田くん……それに……」
正悠の後ろには、玄杜や燈哉、そして凛咲の姿があった。
「折角の文化祭だろ。楽しめよ、お前ら」
燈哉がそう言って、千成の肩を叩く。
「あ、ありがとう……?」
燈哉のノリに対する少しだけの困惑と、不思議と湧き上がる嬉しさ。
千成が恥ずかしそうに顔を赤めると、彼らは前髪に隠れて滅多に見れない表情にニヤニヤと笑った。
「シフトに遅れたら怒る。でも……楽しんでね、衿華」
凛咲がそう言うと、衿華は「遅れないよ!」と頬を膨らませていた。
「さぁ、もう行かないと有名どころは混み合うぞ?」
玄杜がそう言って、2人を教室の外に促す。
廊下に出た2人が見たのは、ポスターや装飾が華やかに飾られている景色だった。
「……で、最初はどこ行くんだ?」
正悠らに促されてしまったことに若干の不満を持ちつつも、パンフレットを片手に千成は衿華の顔を窺った。
「うーん、お化け屋敷に行きたいかな!」
即答した衿華に、千成は一瞬だけ眉を顰めた。
「本気?衿華ってそういうの平気なタイプ?」
「えっ、普通に怖いけど?でも、それが面白いんじゃん」
さらっと言う衿華。
千成は内心で「無理に決まってるだろ……」と呟いた。
3年生の理系クラスは、毎年クオリティの高いお化け屋敷を運営している。昨年、千成はバンドメンバーに連れられて入ったのだが、あまりに怖すぎて失神しかけた過去があった。
千成は横目で衿華を見る。
「やっぱやめない?」
情けないところを見せたくないから、未然に防ぎたい───そんな一言だったのだが。
「えっ?何で?」
不思議そうな顔を向けられ、千成は誤魔化すように視線を逸らした。
「……いや、別に」
「じゃ、楽しもうね!」
すぐに順番が回ってきて、二人はお化け屋敷の暗い入り口に足を踏み入れることになった。
───想像以上に、クオリティがやばい。去年以上じゃないか……!?
千成は自分の背後にぴたりと寄り添う衿華を感じながら、内心「やっぱりやめとけばよかった……」と後悔した。
ゾンビ役の先輩たちが、視界の隅から音を立てて現れる演出、わざと上履きを脱がせて足の感触から不安感を煽る仕掛け、突然響く唸り声。
どれもよく作り込まれていて、千成は何度も悲鳴を上げかけていた。
「ちょ、ちょっとこれ怖すぎない……?」
衿華の声が震えている。千成は、ぎゅっと肩を掴まれたことに気付き、一瞬固まった。彼の心臓はバクバク鳴っている。衿華に肩を掴まれたからだろうか、それともお化け屋敷の恐ろしさが故か。
「お前、普通に怖がってんじゃねーか」
「そりゃ怖いよ……!」
「だったら最初から行くなよ……」
「でも、千成となら大丈夫かなって……」
不安そうな声で言われて、千成は言葉に詰まった。
───オレとなら大丈夫って、お前。
オレが一番怖ぇんだよ。例年通りなら……後半から怖さがヒートアップするだろうし。
だが、衿華にそんなことを言われてしまうと、妙に気を張らざるを得なかった。
───ああもう……恥ずかしいけど……暗いからほぼ2人きりだし……男を見せるしかねぇ!
「……ほら、行くぞ」
「えっ、待っ……!」
深呼吸の後に不安そうな衿華の手を掴むと、千成は意を決して前に進んだ。
衿華の前で悲鳴など上げられない。
目は瞑っていた。壁に手を当てながら、ただただ進むだけだった。
途中、絶叫した衿華に思いっきり腕を握られたりしたのだが、何とか出口に辿り着く。
「はぁ……はぁっ……」
千成の心臓はバクバク鳴っていた。けれど、出てきた衿華はそれ以上だった。
顔は青ざめ、肩で息をし、腕を震わせながら千成の服をぎゅっと掴んでいる。
「……やば……めっちゃ怖かった……」
衿華は息を整えながら、放心したように呟いた。
そんな彼女の姿を見て、千成は思わず苦笑する。
「お前が言い出したんだろ」
「そ、それはそうだけど……あんな怖いとは思わなかったし……」
また震える衿華。
それを見て、千成も顎の辺りを掻きながら言葉を零す。
「オレなんかずっと目を瞑ってたからな」
「えっ、そうだったの!?千成、めっちゃ強気だったじゃん!」
「んなわけあるか。オレも正直めちゃくちゃ怖かったっつーの……」
そう言うと、衿華は驚いたように千成の顔をじっと見つめた。
「……でもさ」
「ん?」
「最後まで手、離さなかったね」
衿華は少し照れくさそうに微笑む。
千成は一瞬言葉に詰まり、そっぽを向きながら適当に返した。
「まあ……暗かったしな」
「ふふっ、ありがとね」
衿華の素直な感謝の言葉に、千成はなんとなく居心地が悪くなる。
これ以上突っ込まれるのが恥ずかしくて、適当に話を逸らすことにした。
「……次、何する?」
「え?えっと……」
まだ衿華は動揺しているのか、ぼんやりと考え込んでいる。
その様子を見て、千成は思わず口元を緩めた。
「とりあえず、甘いもんでも食って落ち着こうか」
「あ、うん……そうする……」
こうして、2人は並んで屋台の方へと向かっていった。
その後、文系クラスの3年生の劇『リメ○バー・ミー』を鑑賞し、気付けば昼時になっていた。
屋台が並ぶ中、二人はクラスの出し物の焼きそばを手に取り、近くのベンチに腰掛ける。
「千成、楽しい?」
衿華が不意に尋ねた。
「……まぁ、それなりに」
少し考えてから答えると、衿華は「そっか」と口角を上げる。
「私ね、千成がもっと自信持てるように支えたいんだ」
「それは……何となく察してた」
千成が返すと、衿華は「やっぱりバレてたか……」と笑った。
「あからさますぎるだろ。無理やりオレを接客班にしたし、入口を担当させるように根回ししてたのはバレバレだったぞ」
そう言うと、衿華は頬を膨らませた。
「だって……千成って凄いのに、自分のこと低く見すぎだから」
千成は目を見開いた。
「でも、今日みたいに一緒に過ごせば、千成
「……」
衿華は笑いながら、焼きそばを口に運ぶ。
千成は、そんな彼女をぼんやりと見つめながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
───衿華といると、確かに楽しい。
それは、認めざるを得なかった。