文化祭2日目。
千成は衿華が行きたがっていた生物部の企画に足を運んでいた。
「こっちこっち凄いんだってよ! 生物部のタッチプール!」
衿華が嬉しそうに千成の袖を引っ張る。
体育館横の特設スペースには、子供用プールを使ったタッチプールが二つ並んでいた。
ひとつは高校の近くにある、印旛沼の在来魚類を集めたもの。
水面を覗き込むと、モツゴやオイカワ、コイを始め、ナマズなんかも泳いでいる。
もうひとつは東京湾の生き物を集めたタッチプールだった。
こちらにはヒトデやアメフラシ、ヤドカリ、ハゼ類の姿が見える。
そして……
「サメ!? こんなに小さいの、初めて見た……」
衿華が驚いたように声を上げる。
プールの中には、体長40センチほどのサメが泳いでいた。
「それはドチザメって言うんです。まだ幼体なんですが……優しく触っちゃって大丈夫ですよ」
生物部のメンバーが説明しながら、手のひらでそっとドチザメの体を撫でる。
千成も手を入れ、恐る恐る背中をなぞった。
「……ザラザラしてる」
サメ肌という言葉の通り、滑らかそうに見えても、手の平には細かい凹凸が伝わっている。
「ね! 面白いよね!」
衿華は目を輝かせながら、次々といろんな生き物に触れていく。
その無邪気な笑顔を見ると、千成はこの後に控えるライブへの緊張が薄れていくような気がしていた。
タッチプールを楽しんだあとは、うさぎの餌やり体験へ。
生物部の小屋の前には、1本50円で餌用のニンジンが用意されていた。
「うさぎ、可愛い……!」
衿華が手のひらに乗せたニンジンを差し出すと、茶色のうさぎがピョコピョコと近付いてきた。
ちょこんと立ち上がり、小さな口でポリポリとニンジンを齧る。
「……オレのことめっちゃ警戒してるんだけど」
千成が同じように餌を差し出してみるが、うさぎはひくっと鼻を動かした後、ぴょんと後ろに跳ねてしまう。
「あはは、千成ちょっと威圧感あるのかも?」
「うさぎ相手にそれはねぇだろ……」
渋い顔をしながら、千成はもう一度ゆっくりと手を差し出してみる。
すると今度は、別の灰色のうさぎが恐る恐る近付いてきた。
警戒するように千成の手をくんくんと嗅いで───漸く、ちょこちょことニンジンを齧り始める。
「お……食ってる」
じっと見つめていると、柔らかい毛並みや、ちまちまと動く口元がやけに可愛く思えてくる。
ニンジンを食べ終えると、ちょこんと座り込み、つぶらな瞳で千成を見上げてきた。
「……なに?」
じっと見つめ返すと、うさぎはぴょんっと前足を一歩踏み出し、さらに近付いてくる。
「え、なに、もしかしてオレのこと気に入った?」
千成がそっと手を伸ばすと、うさぎは逃げるどころか、ふわりとした耳をぴくぴく動かしながら、大人しく撫でられている。
試しにそのまま、柔らかい背中をなぞると───
「うわっ……モフモフだ……」
思わず声が洩れ、口角が緩む。
それほど、手の平に伝わる感触は気持ちが良かった。
「千成、凄いね! さっきまで警戒されてたのに……もう懐かれてる!」
衿華が目を輝かせながら覗き込んでくる。
「いや……まぁ、オレも動物好きだしな……」
灰色のうさぎは、千成の手に気持ちよさそうに身を預けていた。
もう一度そっと背中を撫でる。
「おまえ、結構可愛いな……」
自然と小さく笑みが零れる。
そんな千成を見て、衿華もふふっと笑った。
「千成、凄く優しい顔してる」
だが、すぐに彼女の表情は曇る。
「でも……私には未だそんな顔を見せてくれてないよね」
衿華はぽつりと呟いていた。
「は?」
千成がうさぎから顔を上げると、彼女は口を尖らせ、ジトッとした視線を向けてくる。
「だって、そんな柔らかい表情、うさぎにしかしてないじゃん。私にはいつもツッコミ入れるか、たまに苦笑するくらいでしょ」
「いや、それは……」
千成は反論しようとした。
けれど確かに、衿華相手にこんな顔をしたことはあったかと考えれば、思い当たるものがない。
「ふーん、そっか。千成って、私よりうさぎのほうが好きなんだ」
「あのな……」
衿華はわざとらしく大げさな溜息までついている。
「ち、違うって。うさぎは……ほら、癒しっていうか……」
「ふーん……千成って、動物に対してはそんな甘々なんだね?」
「まあ、そうかもな」
千成が観念したように認めると、衿華はジトッとした目をさらに強めた。
「私だって撫でてほしいのに」
ボソッと放たれた言葉。
それを聞いた途端、千成は目を見開き───茹で上がった顔になっていた。
「……マジ?」
「……えっ?」
自分で口に出した言葉に驚いたのか、衿華は一瞬固まり───そして、すぐさま頬が、耳が、朱に染まっていく。
「……ち、違う! そういう意味じゃなくて!」
慌てて手をぶんぶん振る衿華に、千成は困惑しながら視線を逸らした。
「いや、流石に、それは……未だ……」
「だから違うって! その、えっと……つまり!」
衿華は顔を真っ赤にしながら、必死で言い訳を探すように目を泳がせた後、何かを思いついたようにぱっと顔を上げた。
「千成のえっち!」
「はぁ!?」
思わず、千成の声が裏返る。
「いやいやいや、どういう流れでそうなる!?」
「だ、だって千成が変なこと考えるから!」
「オレのせい!? お前が言い出したんだろ!」
衿華は耳まで赤くしながらぷいっとそっぽを向き、状況を掴めない千成はうさぎに視線を戻す。
……灰色のうさぎは、何のことかとでも言いたげに、きょとんとした顔で千成を見つめていた。
………………
…………
……
13時。
舞台袖に集まった千成、健明、康太の三人は、円陣を組んでいた。
「いいか、お前ら。やることは一つだけだ」
康太が低い声で言い、スティックを持った手を差し出す。
「最高のライブをする」
健明がにやりと笑い、康太の手に触れた。
「──ぶちかまそう」
千成もベースを握る手に力を込めながら、2人の上に自分の手を重ねる。
僅かに声は震えていた。
「「「せーの……!」」」
3人の声が重なり、手が勢いよく跳ね上がる。
それを合図に、千成たちは各々の楽器をセットして緞帳が上がるのを待った。
体育館の向こう側からは、観客たちのざわめきが波のように押し寄せ、開演を待ちわびる期待が熱を帯びて伝わってくる。
千成はベースのネックを握りしめながら、深く息を吸った。
緊張で心臓が締めつけられそうだった。
彼らは昨日、リハーサルを完遂し、先輩やたまたま居合わせた他の軽音部員にも演奏を見てもらうことで、多少のイメージトレーニングはした。
けれども、それとは息遣いがまるで違った。
今日の相手は全校生徒、そして外部から来た保護者や来賓、他校生、学校見学に来た中学生などだ。
昨日の何十倍もの人々が、彼らを見に来ているのだろう。
心臓がドクドクと、激しいビートを刻み始めた。
───未だ見えないのに、何千もの視線を浴びている気がする。
千成はベースのネックを握りしめた。掌が少し汗ばんでいる。
心臓の鼓動がやたらと大きく感じられ、胃の奥がじんわりと締めつけられる。手汗も酷かった。
普段のライブとは違う。相手はなにか特定の演者のファンなどではない。
学校では、人と話すのが苦手で、いつも1人でいた。
休み時間は賑やかな教室の隅でイヤホンをつけて、ただただ参考書と格闘するだけだった。
同じクラスにいても、何を話せばいいのか分からず、話し掛けられても気の利いた返しができなくて、どんどん人と距離が出来ていった。
そんな自分が、今、数百人の視線を浴びるステージに立とうとしている。
しかも、「軽音部で一番上手いバンド」とまで言われて。
───笑われたらどうしよう。期待に応えられなかったら? 失敗したら?
無数の不安が押し寄せ、頭がぐらぐらする。
指先が痺れそうだった。
健明がフットチューナーのスイッチを入れ、チューニングの最終調整に入った。
そして───遂に、放送部員の合図で緞帳が上がる。
瞬間、千成の視界が真っ白に焼かれた。
強烈なライトに目の前が歪む。
暗闇の中にいたのに、一気に剥き出しにされるような感覚。
一斉に、視線が集まる。
足が震えそうだった。
「千成!!!」
不意に、衿華の声が、目の前から飛び込んでくる。
最前列───そこに、衿華たちがいた。
衿華がまっすぐに千成を見て、にこっと笑う。
桃杏珈が興奮したように手を振り、凛咲が静かに見守っている。
正悠、玄杜、燈哉もこちらを見て手を振ってくれた。
───あぁ……何だよ。普段通りじゃねぇか。
じんわりと、冷え切っていた心が温まる。
喉の奥に詰まっていたものが、すっと消えていく。
千成は、ゆっくりとベースの弦を撫でた。
指に伝わる振動が、自分をステージへと引き戻す。
そして、千成は一歩、前へと踏み出した。
その表情は、昨日の中夜祭とは違う、どこか安心したような顔だった。
「〝MEBUKI〟です!宜しく!」
彼は、いつものライブ時の調子を取り戻していた。