「ずっと、レンズ越しに見てたんだよ」
……怖い。
「本当に、綺麗で。ずっと触れたいと思ってた……」
宮部の手が、有凪の頬に触れた。
手の甲で、撫でられた。
その瞬間、ぞわっと悪寒が走った。
「や、やめて……」
叫んだつもりだったのに。
有凪が発したのは、か細い声だった。助けも呼べない。絶望的な気分に陥っていたら、聞き覚えのある声が聞こえた。
「なにしてんすか」
風斗だった。
相変わらず、ダルそうにしている。
生意気で、クソガキで。そんな風斗の顔を見て、有凪は思わず泣きそうになった。安心したのだ。
涙ぐんでいる有凪に気づいて、風斗が眉を顰めた。
「なに泣かしてんの」
そう言って、風斗は宮部の肩を押し退けた。
宮部と有凪の間に割って入る。目の前に大きな背中がある。風斗の背中だ。そう思ったら、わけもなく安心した。
「……君には、手出しできないな」
宮部が、忌々しげに言った。
その言葉に、風斗が反応する。
「このひとにはできて、俺にはできない? それは俺が、
藤間貴一は、風斗の父親だ。
大御所俳優として、誰もが知る存在だった。
「僕はまだ、この世界で仕事をしていきたいからね」
宮部が、そう吐き捨てる。
「ダセぇ」
心底、軽蔑するみたいな声だった。
「小さな事務所の、なんの後ろ盾もないこのひとなら、自分の思い通りにできると思った?」
風斗の言葉に、有凪はハッとした。
自分は、そういう存在なのだ。
「アンタが視界に入るのも、不愉快だから。どっか行ってくれない?」
そう言って風斗は、あっという間に宮部を追い払った。
宮部の姿が見えなくなって、有凪は全身の力が抜けた。その場にしゃがみこむ。
「……平気ですか?」
「うん」
自分の声が、まだ潤んでいる。
「ありがとう」
ぐず、と洟をすする。
「……立てます?」
「うん」
そうは言ったものの、力が入らない。情けないなと思っていたら、風斗に腕を掴まれた。強制的に立たされるのかと思ったら、抱き上げられた。
「へぇ……?」
予想外すぎて、声がひっくり返る。
有凪を抱っこしたまま、風斗はスタスタと歩く。信じられない。いくら有凪が細身とはいえ、身長はある。決して軽々と抱えられるとは思えないのだが……。
同じことを思ったのか、有凪と風斗を見た坂井は、あんぐりと口を開けていた。
「ふ、二人とも、どうしたの……?」
焦る坂井に、風斗が事情を説明する。
坂井の表情が、顔面蒼白になっていく。
「も、申し訳ない!」
坂井が、ガバッと頭を下げる。
「マネージャーとして香椎くんのこと、もっと真剣にガードしないといけなかったよ……!」
何度も「ごめんね」「申し訳ない」と、坂井は繰り返す。
「……俺が、いつも冗談っぽく言ってたから。危機感を感じなくて当然だよ」
少しずつ、宮部の態度に異変を感じていたのに。それを坂井に伝えることができなかった。
「大丈夫だった? なにもされてない?」
風斗に抱かれたままの有凪を心配そうに見る。
「うん。平気だよ」
「これからは、鉄壁のガードをするからね……!」
有凪に抱き着きそうな勢いだ。そして、ちょっと坂井は涙ぐんでいる。
「それが良いと思いますよ。このひと、中身はごく普通の一般人だけど、外見は桁違いに綺麗ですから」
追い打ちをかけるように、風斗がそんなことを言う。
文句を言いたかったけれど、気力がなくて反論できなかった。
ちなみに、この問題を知って社長はブチ切れていたらしい。
抗議をしまくり、宮部をカメラマンとして使い続けるなら、二度と仕事はしないと啖呵を切ったという。
後日、社長から呼ばれて坂井と一緒に事務所に赴いた。
メンズ雑誌の仕事は、なくなるかもしれない。
なにも悪いことをしていないのに、有凪の側が仕事を失うのは不公平だと思う。
でも、仕方のないことだ。むしろ、所属タレントをきちんと守ってくれる事務所で良かったと、有凪は改めて思った。
坂井と一緒にソファに座り、社長と向かい合う。
「……それでメンズ雑誌のほうは、どうなりました?」
坂井が、遠慮がちに訊く。
社長の雪村は、パチパチとまばたきをした。
「メンズ雑誌? そんなもの、すっぱりと切ったわよ! ぐだぐだと言って、煮え切らない態度なんだもの」
あっけらかんと言い放つ。やはり、有凪は仕事を失ったようだ。
「そうですか……」
モデルの仕事は、好きだった。これまで頑張ってきたし、やりがいも感じていた。食べるものにも極力、気を使った。
好きなものを好きなだけ食べることは、絶対にできなかった。でも、それが有凪にとっては当たり前のことで……。
有凪が肩を落としていると、社長が立ち上がった。
「落ち込んでいるヒマなんて、ないわよ……!」
「どういうことですか?」
坂井が、眉を寄せながら問う。
「専属モデルにならないかって、声がかかってるのよ!」
「せ、専属モデル……?」
「例の月刊誌よ! 風斗と一緒に撮影した超有名雑誌! そこからオファーが来るなんて、すごいことよ~~!」
社長は浮かれている。小躍りしている。
有凪は、イマイチ現実味がなかった。
風斗と一緒に表紙を飾ったものは、まだ発売されていない。
「発売後に評判が良くて、とか。そういう理由なら分かりますけど……」
なぜ、自分が専属モデルに選ばれたのだろう。
「有凪が美しいからじゃない?」
「……はぁ」
釈然としない感じだ。それが、社長にも分かったのだろう。
「なんてね。理由は、聞いてるわよ」
「え?」
「被写体として良いのは、もちろんだけど。インタービューのときにね。すごく真面目で、質問に対して一生懸命に答えていたのが、印象に残ったんですって」
「そ、そんなことが、ですか……?」
あまりにも予想外のことで、有凪は拍子抜けした。
「質問に対して真面目に答えるのは、当たり前のことだと思うんですが……」
「そうとは限らないわよ。不機嫌な態度になったり、ワガママだったりね。そういうタレントはいるのよ。いくら事務所が教育しても、難しいのよね」
小心者の有凪には、考えられないことだ。
「それから、有凪のSNS。昔の投稿を見て、編集長が褒めてくださってたわよ」
「え……?」
風斗と一緒に映っている画像には、たくさん反応があるけれど。
昔の投稿で、特に話題になったものはない。
「どんなに小さな仕事でも、きちんとSNSでファンの子に報告してたでしょう。丁寧に文章を綴って、たくさん感謝をして。そういうところに、好感を持ったんですって。一緒に仕事をしたいと思ったらしいわ」
有凪は、思わず俯いた。
くちびるを噛み締める。涙がこぼれそうだった。
「ちゃんと見てくれるひと、いたんだねぇ……」
隣に座る坂井が、しみじみと言った。
その言葉に、有凪は何度も何度も、うなずいた。