カタカタ
東京都心から少し西側に離れた所の閑静な住宅街にある、砂利を敷き詰めた狭い庭と車を一台しまえるガレージがあるという、ごくありふれた一軒家の二階にある6畳程度の部屋。丸いレンズの眼鏡をかけた小柄な成人女性のプライベート空間に、カタカタとキーボードを叩く音が響いていた。
文化祭での遍とレイの出会った日曜日から数日が過ぎての、平日である木曜日の夕方。
一家の大黒柱である都庁職員の父親が銀行で住宅ローンを組んで建てた、広くないとはいえ武蔵野市内に土地付き二階建ての一軒家を構えている、四人家族である伊原家の二階。
都心のカトリック系の名門私立大学である聖智大学に通っている長女の利愛は、自宅の二階にある自室の机に向かって、愛用の赤いモバイルノートパソコンで提出用のレポートを書くために、キーボードを慣れた様子で叩いていた。
部屋の壁紙には、利愛の好きなルネサンス時代の巨匠の名作をプリントした絵画が額縁に飾られており、お洒落なデザインの家具とその上には彫像を手の平サイズに小さくレプリカした小物が設置されている。そして、机の上には大学の図書館から借りてきたレポートに必要な参考文献が何冊も積まれている。
コンコン
今、部屋の外側にいる誰かの手によりドアがノックされ、机の前で椅子に座っていた利愛は手を止め、その艶のある黒く長い髪を揺らしながら振り返って返事をする。
「はーい」
「お姉ちゃん? 入ってもいい?」
ドアの外から聞こえてきたのは、中学二年生の弟の、まだ声変わりもしていない少女のような高い声であった。
「どうぞ? どうしたのまーちゃん」
そう応えてからノブを回してゆっくりと扉を開けて利愛の部屋に入ってきたのは、その生まれつきの大きな瞳が目立たなくなるくらい度の強い眼鏡をかけ、両サイドの部分が若干伸びているメンズボブカットの肩近くまである黒髪で、中性的ではあるが瞳の大きな美少女のようだとは形容できない普段通りの姿をした弟である遍であった。
11月の晩秋であるがエアコンでぬくぬくと暖房の効いた部屋で、下半身にはぴっちりしたレギンスを穿き、上半身にはスポーツブラの上にゆったりとした大きめのTシャツを着ている利愛は、愛用のお洒落なデザイナーズチェアーを回転させ、部屋に入ってきたどこかおどおどした感じな弟の方にその小柄な体ごと正面を向ける。
遍は手に黄色いシリコンカバーのついたスマートフォンを持っており、このスマートフォンに相談したい内容が入ってるかのような顔を姉に見せる。
そして、姉の前にちょこんと正座し、自信のなさそうな顔で姉を見上げる。
「あの……お姉ちゃん、鳥神教授ってお姉ちゃんの大学にいるよね? 知ってる?」
「え? 鳥神教授って論理学の鳥神主教授? 知ってるも何も、今日大学でつい午前中に講義受けてきたばかりだけど。なんでまーちゃんが鳥神教授のこと知ってんの?」
弟から思いもよらないことを聞いた利愛は、その丸い形の眼鏡レンズの奥にある目をぱちくりさせる。
そして、遍は低く正座しながら、目の前で椅子に座っている姉を、慈悲を貰えないかどうかと求めるている小動物のような顔で見上げる。
「実はね……この前のお姉ちゃんの大学の学園祭で出会って一緒にお祭り回って遊んだ男の子の話したじゃない。女装した僕のことを女の子だと勘違いしたまま連絡先交換して友達になったって」
すると、利発な大学生である利愛は腕を組みつつ脚を組んで、弟の話を聞いた反応としてこんなことを言う。
「ああ、レイくんっていうあの広場ですれ違いざま私に挨拶かけてきたイケメンの男の子? そういえば今日の講義で教授が一人息子がいるとか言ってたけど……もしかしてあの子、鳥神教授の息子さんだったりするの?」
「うん……一人息子さんってのは知らなかったけど……あの男の子、その鳥神教授のお子さんで鳥神レイくんっていうんだ。で、今度の日曜日また一緒に遊ばない? ってさっきVINEメッセージでお誘いがきて……どうしよう、お姉ちゃん」
遍が少しだけしょぼくれて伏せてた顔を上げると、姉の利愛は年長者として導くかのように弟に対して言葉を発してくる。
「まーちゃん、せっかく友達になりたいって言ってくれてるならその心意気には報いるべきなんじゃない? いくら女装してて女の子と勘違いされているっていっても、その男の子がまーちゃんとこれからも仲良く遊びたいってのは事実なんでしょ?」
「うん……でも、僕……男の子のレイくんが女の子だと思っている僕を遊びに誘っているのって、一緒に遊ぶ理由が男の子と女の子としてのデート目的とかそういうことだったらやっぱりレイくんに悪いと思うし……」
「でもまーちゃん。いくら初対面が女装姿で勘違いされてるっていっても、本当はまーちゃん男の子じゃない。見た目や第一印象はどうであれ、男の子と男の子が一緒に遊ぶ仲の良い友達同士になって何か問題でもあるの?」
「いや、ない……けど、それはないけど……」
遍が気弱な少年らしく自信のない弱々しい声色で言葉を発していると、対照的に姉の利愛は芯の強そうな声ではっきりしっかりと諭す。
「向こうが好意をもって誘ってくれてるんだったら、逆にその気持ちに応えない方が相手の心情を損なうことになっちゃうわよ? それに、鳥神教授の一人息子さんときっちり遊んできたら、結果がどうなってもまた道が拓けるかもしれないし」
その姉の言葉を聞いて、遍はある程度決意を固めたが、まだ不安は拭いきれなかった。
「じゃ、じゃあ……大諦にも一緒についていってもらおうかな?」
そう遍が、子供の頃からの唯一の友達であって頼りになる逞しい幼馴染の名前を出すと、姉は顔を引き締めてしっかりと否定する。
「駄目よ、ヒロくんは中学三年生でもうこの季節になったら受験勉強あるでしょ。10月からは高校の受験が終わるまで一緒に遊ばないって約束したじゃない」
大諦は遍の一学年上の中学三年生で私立高校を受験予定であり、翌年の2月にある高校入試を控えて追い込み中なのであった。
「そ……そうだったね……じゃあお姉ちゃんも一緒に」
遍が自信なさげに、目の前の姉に対して一緒に行ってもらえるようお願いしようとすると、デザイナーズチェアーに座っている利愛が再び少し厳しめの口調で、眼前にて正座をしている弟に尋ねる。
「念のため、まーちゃんの意思を確認するけど。まーちゃんはそのレイくんって男の子と一緒に遊べるような仲の良い友達になりたいの?」
そう思いもよらない強い声で言われた遍は、あまり姉と目を合わせられないまま小声で言う。
「う、うん……できれば」
男子中学生である遍は男性に対して恋愛感情を抱くという、いわゆる同性愛の気はなかったが、それでも困っている自分を親切にも我が身を張って助けてくれた、あの鳥神レイという少年とはもっともっと友達同士として関係を深めたいとは思っていた。
そんな風に遍が迷いの多い中学生らしい戸惑った口調で告げると、利愛が年上の大学生の姉としての責任を果たすかのような表情になって柔和に応える。
「じゃあ、繰り返しになるけどその好意にはまーちゃんが自分自身で報いるっていうのが道理であり義務よ。まーちゃんがきっちりと自分だけの意思と責任で、そのレイくんって男の子の気持ちにしっかりと向き合ってきなさい。それがまーちゃんの成長にも繋がるしね」
そんなことを優し気に微笑みつつ明朗に言う姉の顔を見上げて、お姉ちゃんには一生敵わないな、といつものように思う遍であった。
そして、遍は自分の部屋に戻ってから、レイからのデートの誘いにメッセージアプリで了承の返事を出し、日曜日に再びあの親切な美少年と会って遊ぶことが決まった。
ただし、遍は自分自身が男であることを隠したまま、先日のようにゴスロリ服を着て女装して行くことに決めていたが――