遍が自分の名前を下の名前だけ教えたところ、レイは顔色を変えて急に間合いを寄せてきた。
「本名アマネっていうのキミ? 本当に?」
「え……あ、ハイ。僕の本当の名前は遍です」
遍がそう遠慮気味に言うと、美少年の様相であるレイは先ほどの少しばかり距離を置いた振る舞いとは打って変わって、あからさまに違う積極的な挙動で目の前の瞳の大きなゴスロリ美少女に詰め寄るかのように話しかける。
「そうなんだ! うわー、ボク、なんかこの場で今日キミにあって運命感じちゃうなー! ねえ、良かったらボクと連絡先交換してよ! ボク、もっとキミのこと知りたいなー!」
――え、なにこの態度の急変。
遍は、目の前の少年の仕草の豹変に、心の中に本能的な防御感情のようなものが生まれて少し引きつつ一歩下がった。
もし十代の年頃の少女であったら、高身長のスマートな美少年に運命を感じると口説かれて悪い気はしなかったのだろうが、遍は格好こそ美少女であるものの中身は正真正銘の少年である。
いくら美少年とはいえども今日出会ったばかりの相手に「運命を感じる」と言われても、感情的なものよりも理性的なものを重視する性質であり、同時に男性に対して恋愛感情に基づく魅力を感じるわけではない男子中学生の遍にとっては、その言葉は肉体的性別が女の子である場合に比べては、それほど心には響かなかった。
遍が一歩下がって顔をこわばらせた様子に気づいたのか、先ほどまでエキサイトしていたレイは我に返ったような表情を見せた。
そして、遍と近づけ過ぎていた距離を、赤いスニーカー靴を履いた足で下がって、申し訳なさそうな表情で改めて伝える。
「ごめん、アマネちゃん。また距離感バグっちゃったね。ボクちょっとこういうところあるんだ、許してくれるかな」
「えーっと……いえ、それはいいですけど……」
遍が冷や汗をかいたような感じで、レイのちょっと冷静さを一時欠いていたことに関する謝罪の言葉を受け取ると、当のレイがすまなさそうな口調で微笑みつつ、柔和に伝える。
「でも、ボクがアマネちゃんともっと仲の良い友達同士になりたいってのは事実なんだ。そこのところはわかってほしいな」
そんなレイの申し出に、遍の心の中に感情機序に基づく作用でできていた、触ることも見ることもできない防御壁が自然と取り払われる。
――友達。
異性の友達がおらず、同性の友達が一人しかいない遍は、その言葉には弱かった。
――大諦と同じように、レイくんは僕と仲の良い男の子同士の友達になってくれるかも。
遍はそんな淡い期待を抱いてしまい、黄色いシリコンカバーに収まった愛用のスマートフォンを取り出し、表面をタッチして操作してから差し出して、先ほどの申し出に応える。
「二次元コードを表示しますので、読み取ってください。VINEでいいですか?」
「ああ! もちろん!」
レイは警戒もせず軽快に応えて、白いシリコンカバーに収まった携帯していたスマートフォンを取り出す。
そして、お互いにコミュニケーションアプリであるVINEのアカウントを交換したところ、レイはその画面に表示されたアカウント名としての遍の下の名前を見て笑みを浮かべつつ、こんなことを言う。
「アマネちゃんの名前、こんな漢字で書くんだね。『遍く行き渡る』の『遍』と同じ意味か……。綺麗な名前だね」
「有難うございます」
遍が頬に朱の入ったまま笑顔でそう言うと、目の前のレイも顔を綻ばせつつ口を開いて己のフルネームを告げる。
「ボクの名字は鳥神、鳥神レイっていうんだ。キミのお姉さんに聞いてもらったら、ボクの父さんが本当にここで教授をしているってわかってもらえると思う」
「レイくんが僕を騙してる、だなんて思ってないですよ。レイくんも僕にとって、仲の良い男の子のお友達になってもらえたら嬉しいです」
遍が照れながら上目遣い気味にそう伝えると、目の前のレイはちょっと後ろめたそうな、微妙な表情をした。
そして、しばらくの静寂が流れてからレイが、意を決したように何かを言おうとする。
「……遍ちゃん、実はボクは……」
そこで、この昼下がりの広場に、遍が良く知っている小さな人影がやってきて、その声が響いた。
「おーい、まーちゃーん! どこだー!? お姉ちゃんが来てやったぞー!?」
その遍を探すための声を発しているシルエットとは、美少女の格好をしている今の遍と同じように艶のある長い黒髪を後ろに伸ばし、遍よりも小柄で円いレンズの眼鏡をかけている大学生の姉、伊原利愛の姿であった。
目の前のレイの長身で細身な体の向こう側にいる、この広場へとやってきた姉に気づいた遍は、お互いに向き合ってたレイから体ごと顔をそむける。
そして、困惑しているレイに横目使いで頬を赤らめながら伝える。
「えーっと……お姉ちゃんが来たみたいです。レイくん、今日はこれまで、ということでお願いします」
「うん、わかったよ。また絶対連絡するから!」
そんなことを言って、レイは爽やかな笑顔を再び見せ、手を振りつつ踵を返し、遍から離れるように駆けて行ってしまった。
その際、すれ違った遍の姉の利愛に軽く手を掲げ挨拶をするような素振りを見せ、正午を過ぎた学園祭の喧騒の向こう側へと消え行ってしまった。
身長が140センチメートル台半ばと遍よりも小柄な姉の利愛は、いきなり現れた見ず知らずの背の高いスマートな美少年に突如として挨拶をされ、ほんの少しだけ放心していたが、すぐに我を取り戻した。
そこで遍の姉である利愛は、目視で弟を探すことは諦め、赤色カバーのスマートフォンを取り出して電話をかける。
プルルルル プルルルル
ビロリロリロロロン ピロリロリロロロン
姉がその手持ちのスマートフォンで弟に電話をかけると、程なくして遍の持っていたスマートフォンがそれなりの音量で鳴り始める。
鳴っているスマートフォンを手にした、ゴシックロリータ姿の遍が姉の後ろからゆっくり近づくと、姉はそのよく知っている弟の携帯の呼び出し音がした方角に振り向く。
後ろから近づいてきていた、呼び出し音の元である黒髪ロングの美少女に姉は注目するも、目の前で起こっている出来事を理解できないようなポカンとした顔を見せた。
艶やかな黒髪が長く、瞳が大きなゴスロリ美少女姿に変装していた遍が、手を掲げて恥ずかしさを混ぜた面持ちで口を開く。
「えーっと、……お姉ちゃん。やっほ」
静寂、そして叫び声。
「ええええーーーーっ!!? まーちゃん!!?」
――そうだよね、その反応が当然だよね。
遍がそんなことを思っていると、姉の利愛はふたつの円い眼鏡レンズの向こう側にある目をキラキラさせながら弟に近寄りつつ、叫びにも似た感激の声を上げる。
「うっわーっ!!? なにそれ!? なにそれーっ!? 可愛いーーーっ!! 何? お母さんから受け継いだコスプレ魂が目覚めたの!?」
「えーっと……というか、お母さんのコスプレ愛に巻き込まれたっていうか……」
遍がそんなことをまたもや引き気味に伝えると、姉の利愛はちゃっちゃとかけていた電話の呼び出しを切って、その手持ちのスマートフォンをカメラモードに切り替える。
「いまはそんなことどうでもいい! 写真撮らなきゃ! 写真!」
ピピッ カシャッ ピピッ カシャッ
姉は、感激した様子をその小さな体全身から溢れさせて、まるで芸能人を追うパパラッチになったかのように、美少女に可愛く化けた弟をそのスマートフォンのシャッター音を鳴らして撮りまくっていた。
晩秋の太陽が真南の方角から差す、この大学構内の片隅の広場で、遍が姉一人だけがカメラマンとなった撮影会に付き合っていると、ここにきてすぐに見かけた都会に住むには余りにも白い鳩が一羽、広場を拙く歩いていたと思ったらすぐに飛び立ち空のかなたに消え行ってしまった。
――レイくんって、もしかしたら白い鳩が化けた精霊だったのかな。
そんな非現実的なことを、遍は不意に思ってしまった。
広場に響いていた、教会の鐘の荘厳な音色はいつの間にか鳴りやんでいた。