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Ep.6 幸福な人生について

 あまねは家を出るときには、大学で姉である利愛りあに会ってサプライズとして自分の女装姿を見せたら、特に学園祭も回らずにすぐに帰るつもりであった。


 だがこの日曜日の午前中、白と黒のゴシックロリータ服を身にまとい、華麗な美少女姿に化けていたあまねは今、聖智しょうち大学の学園祭であるセント=ソフィア祭を心から楽しんでいた。


 あるところでは、屋外に設置された特別ステージの上でのダンスパフォーマンスを観て楽しんだ。


 またあるところでは、カラフルなチョコチップでトッピングがなされたチョコバナナを買って美味しく食べた。


 またあるところでは、セント=ソフィアンくんと呼ぶらしいこの学園祭のマスコットキャラたる、胸に文字のようなものが書いてある赤っぽい臙脂えんじ色の鳥の着ぐるみと一緒に写真を撮ったりもした。


 またあるところでは、射的ゲームに参加し、おもちゃの銃でゴム弾を的に当てる遊びを楽しんだ。


 またあるところでは、品質にこだわったという挽きたてのコーヒーの香りを楽しんだ。


 もちろんあまねはそれらの催し物の全てを、初対面からほんの二時間すら経っていない親切な美少年、レイと一緒に互いに会話を交わしながら巡っていた。


 あまねは、いくらにぎやかなお祭りでも、もし自分一人で学園祭を回っていたとしたら、いや家族である姉と一緒に回っていたとしても――


 これほど楽しい時間は過ごせなかっただろうな、と思っていた。


 伊原いはらあまね、このいつもは中学校で目立たず輝かず、冴えない日々の暮らしを送っている引っ込み思案な少年は、かつて大諦ひろあきと最初に知り合った時のような幸福さを感じていた。


 加えてあまねは、このとき心のうちに罪悪感はまだなかった。


 あまねはゴスロリ美少女の格好をして、少女らしい仕草と言葉遣いを用いて、常に目の前の正義感ある少年をたぶらかしているにもかかわらず、その虚飾きょしょくに紛れた嘘の自分が真実の自分ではないことを仮初かりそめとはいえ忘れていた。


 不覚にもすぐ近くにいてあまねの傍を歩いてくれる美少年であるレイをまるで、お互い心安くなにもかもを打ち明けて気安く話せるかのような、お互いに心を知り合っている知友とも呼べる友達のように思ってしまっていたのである。


 ――小学校から中学校まで長年、大諦ひろあき一人しか友達がいなかったぼくが。


 ――ちょっとばかり美少女の外見になっただけで、こんなにすぐに、お祭りを一緒に回れる友達ができちゃうなんて。


 ――もしぼくが女の子に生まれてたら、ずっとこんなに楽しい人生が続いてたのかな。


 そんなことを、あまねはレイと学園祭を回っている間、密かに思っていた。





 二人で学園祭を巡り始めてから1時間半ほどが経過し、楽しい時間には終わりが付きもの、というのが世の常であるということを遍はわからされなければならなかった。


 あまねはレイと一緒に、姉と朝に約束した待ち合わせ場所へと再度訪れていたのである。


 正午直前、11月の晩秋の太陽光と、青空の間接的な光が広場を明るく柔らかに照らしている。


 隣にいるレイが視線を下げて、ゴスロリ服姿のあまねに微かに笑いながら柔和に伝える。


「そろそろ正午の時間だね、ヒカリちゃん。ボクはキミのお姉さんが来る前にキミから離れてた方がいい?」


「え? えーと……」


 そこで、あまねはもう一度自分の隠していた事実を思い出す。


 ――ぼく、レイくんに本当の性別どころか、本当の名前も教えてなかった。


 あまねの心の奥底で、何か言い表せないほど柔らかい部分が、ズキリ、と痛んだ気がした。


 それは、医学的な神経の痛みではなく、もっと何か説明のつかない、人間にとって大事な領域にある痛みのような気がした。


「あ、あの……レイくん……」


 あまねがおっかなびっくり、頭一つ分背が高いレイを見上げ、何かを伝えようとする。


 レイは「何?」とでも言いたげな顔で、すぐ目下にいる少女にその釣り上がり気味のぱっちりした瞳を向ける。


 あまねが何も言えないでいると、どこからともなく鐘の音が周囲に鳴り響く。


 カーン カンコンカーン カンコンカーン


 それはまるで、神の周りにいる天使が奏でる天上の音楽がほんの一部、地上に漏れ出たかのような荘厳な音色であった。


 カーン カンコンカーン カンコンカーン


 レイはその音色のする方向を見上げ、自然と笑顔になって口を開く。


「あ、教会の鐘の音だね。正午になったみたいだよ」


「教会? この大学って教会があるんですか?」


 あまねがそう、大きな瞳を向けて自然に尋ねかけると、レイがさっきとはまた違う、誰か大切な人が傍にいるかのような優しい面持ちになって近くにいる小さな少女に説明する。


「そうだよ? あの円い建物が聖イグナティウス教会で、そこの鐘の音。この大学の名物なんだ」


 そんなことを言われたあまねは、この広場に最初来た時は何の建物かわからなかった、上部にシンボルとしての十字架が備え付けられている円形の大きな建造物を再び見上げる。


「あの建物、教会だったんですね。十字架がついてるの、ただの飾りじゃなかったんだ」


「ああ、教会の設計者の人と、その人と同じ名前のイエズス会の創立者の一人から名前を取ってるんだって」


 ――レイくん、博識だなぁ。


 その知的な素振りに感心したあまねは、こんなことを尋ねる。


「詳しいですね。レイくんこの大学の学生じゃないって言ってましたけど、もしかしてぼくみたいに家族がここに通ってるとかですか?」


「あーっと、まあそうかな。とはいっても、教わる方じゃなくって教える方だけど。父さんがここの大学の教授なんで」


「教授!? 通りで!」


 あまねがそんな感嘆の言葉をソプラノ調な声色で口走ると、レイはその教会を見上げつつ、どこか寂しそうな懐かしそうな何かを心に思い浮かべた表情を見せて、こんなことを言う。


「さっきボクが言った『義を見てせざるは勇なきなり』って言葉もね、昔この広場でボクがあの鐘の音を聞きながら一生で一番大切な人に教えてもらったんだよ。しばらくの間はボクはその人には絶対に会えないけどね」


 ――いちばん、大切な人。


 あまねはその言葉に、またもや心の底にチクリとした先ほどとは違う痛みを感じたような気がした。


 レイはあまねの反応をかえりみず、教会の鐘鳴り響く方角を見上げつつ、言葉を続ける。


「でも、その時が来れば再びボクはその人に必ず会える。それがボクにとって最も大切な希望なんだ。その時がいつになるかは、ボクもこの世に生きている誰も知らず、天の神様しか知らないけどね」


 そこまで言ったところで、レイはハッとした顔を見せて、改めてあまねの方を向き、気まずそうな顔で告げる。


「あ、ごめんごめん、ヒカリちゃん。こんなこと、今日出会ったばかりの女の子に言うべきじゃなかったかな。ちょっと距離感バグっちゃってごめんね」


 そこであまねは若干照れた感じで、ほんの少しだけ微笑みつつ、どこか上目遣いになって目の前の美少年に伝える。


「いいえ、全然気にしてません。レイくんが心を開いてくれたような気がして嬉しかったです」


「そっか、それならいいんだけど」


 そんなことを言ってレイは、寂しそうな顔から気まずそうな顔を経て、いつもの爽やかな笑顔に戻った。


 カーン カンコンカーン カンコンカーン


 相変わらず、教会の鐘の音は広場に鳴り続けていた。


 レイが、別れを切り出そうと思ったのか手を掲げようとほんの少しだけ動かしたところ、真正面の黒と白のゴシックロリータ服を着たあまねがスカートの前で両手を重ね、恥ずかしそうに頬を染めた顔のままおもむろに口を開く。


「……アマネ、っていいます」


 そのゴスロリ美少女の小さな声での呟きに、レイは驚いたようにそのぱっちりした釣り目がちな瞳を見開いて尋ねる。


「え? いま何て……」


「アマネ、です。それがぼくの本当の名前です」


 レイに対して正面は向いているものの、恥じらいを見せた顔のまま上目遣いで見つめつつ、あまねは自分の下の名前だけではあるが、本名を教えた。


 アマネ、という音の響きは女の子だとしても通用する名前だとあまね自身が判断し、この自分に親切にしてくれた少年の恩に報いる気持ちからくるものであった。


 あまねの本名を聞いたレイはもう一度目を見開き、あからさまに分かるような驚愕の表情を見せつつ、言葉にもならない声を小さく口から漏らす。


「……アマネ……!?」


 しかし、このときのあまねにはそのレイの驚きが、本当はどのような感情からくるものかはまだ知らなかった。


 カーン カンコンカーン カンコンカーン


 秋の終わりの晴れ晴れとした快晴の空には、聖イグナティウス教会の鐘の音が青々とした天の美しさを表すかのように、快美に響いていた。


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