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Ep.18 自省録

 夜の町を風が抜ける。もうじき12月に入ろうかという寒い季節の冷たい夜風が、レイとその脇に抱えられているあまねの頬を撫でる。


 街灯がポツポツと立ち並ぶ公園の外れ、あまねはレイに抱きかかえられたまま運ばれてきた。すぐ近くには、神社のような寺社のような格調高いやや小ぶりな赤い建物が、闇を纏い、静寂のただ中に鎮座していた。公園の外れにある、このような夜には人気のないそのお堂の近辺まで駆け抜けたレイは、ようやく足を止めるとそっとあまねを地面に降ろした。


「ハァハァ……ここまでくれば大丈夫だね」


 いくら毎日毎日部活動の練習として走り込み、スタミナと持久力を鍛えているバスケットボールのスポーツ選手であるレイといえども、少年一人を小脇に抱えて数百メートルというそれなりに長い距離を全力疾走する、というタスクは疑いようもなく重労働であった。


 レイはすっかりと疲労困憊し、あまねを優しく地面に降ろした後はその場に尻をつき、少女らしからぬ格好でその黒いズボンを穿いた脚を大きく開いて片方の膝を立てて座り、両手を地面につけて胸の膨らみがほとんどない上体を弓のように反らし、街の明かりが反射するだけの星の見えない暗い夜空を仰ぎつつ肩を上下させて荒く息をしていた。


「ハァハァ……疲れたぁ……」


 少年のような外見と仕草のレイによって優しく地面に降ろされて、女の子らしい横座りをしていた少女のような外見のあまねは、どこか涙目のままおっかなびっくりとレイに尋ねる。


「あ……あの、レイくん……? 何でぼくの場所が……ぼくが公園にいるってわかったの……? スマートフォンは機内モードにしていたから、映画を観る前にインストールしていた位置共有機能は効かないはずなのに……?」


 すると、レイが座ったまま隣にいるあまねの方を向いて、荒く呼吸をしたまま声を出して伝える。


「ハァハァ……機内モードだったらね……確かにメッセージは届かないし電話もかけられないんだけどね。位置共有機能でのGPSデータ取得は機内モードにしても切れないんだよ……だから、それをたどって探しに来たって訳……ハァハァ」


 その呼吸をなんとかかんとか繋げながら発するレイの言葉に、ずっとスマートフォンでの機能に疎い大諦以外に友達がいなかったせいで、そのようなスマートフォンアプリのシステム上のルールに関して無知だったあまねは、内心で気恥ずかしさの感情が湧き上がる。


 ――ぼくにはずっと、そういう機能を使い合う友達なんかいなかったから、そんなの知らなかった。


 あまねがそんなことを思っていると、目の前のレイが地べたに座りつつ再び、都会の真ん中にある公園から見上げる星も見えない暗い天を仰ぎながら、息も切れ切れにこんなことを言う。


「でもまあ、逆にそのことをあまねちゃんが知らなくって良かったかな……もし、スマートフォンの電源まで切られていたらお手上げだったよ……ハァハァ」


 あまねが何も言えないでいると、座ったままのレイは荒く呼吸をし、肩と胸を大きく上下させたまま、息と共に感情を吐き出すかのように言葉を続ける。


「……でも、流石に人ひとり抱えて全力で走って逃げるってのはキツかったかな……ハァハァ……ずいぶん前にミホシちゃんで似たようなことをした経験はあるけど、あっちは本物の女の子だったしなぁ……ハァハァ」


 そのレイの出し抜けの言葉に、あまねは気づかれるのを恐れていたことが、隠していたかったことが、目の前の友達でいたかった相手に知られていたことを自覚し、ひゅっと感情が揺さぶられる。


「や……やっぱり、バレてたんだね……」


 地面に座っていたままのあまねの感情が揺さぶられ、そのような嘆き声が自然と口から洩れてくる。


 ポタリ ポタリ


 涙の粒が、湿り気のある冷たい地面に一粒、また一粒と落ちていく。


 あまねは堰を切ったように涙を溢れさせた。


 ぽろぽろと涙が零れて、両頬をつたい、服の上に、スカートの上に、そして地面の上に落ちていく。


「う……う……ううう……ぼくぼく……レイくんに本当のことを知られたくなかった……お手洗いで生徒手帳を落としたばっかりに……」


 自己嫌悪にまみれてそんなことを言うあまねは、その変声期前のボーイソプラノな震える声で嗚咽を出し、慟哭し、涙を流す。


 一週間前には、ミホシと呼ばれる少女がゲームセンターでの二人のデートに乱入してきた。その時にあまねが流した涙は演技で流した嘘の涙であったが、今回のそれは紛うことなき本物の涙であった。


 ようやく呼吸が整ってきたレイは黙ってその涙を流すあまねを見つめていたが、やがて優し気な眼差しであまねを見つつ、柔和に口を開く。


「本当はね……映画を観る前にはもう気づいてたんだよ。あまねちゃんのその腕時計、手首の外側に盤面が来るような着け方してるよね? 女の子の腕時計の着け方は本当はこうなんだ」


 そう言ってレイは左の袖をまくり、自分の左手に着けている、その盤面が手首の内側に来るようにした腕時計の着け方を見せる。


 そんなことを言われて、あまねは一瞬ポカンとした。


 そして、レイと始めた会ったあの学園祭に行く直前、車から降りる際に、母親が自分に言ってくれたことを思い出す。


 ――そういう細かいところからあまねちゃんの本当の性別がバレちゃったりするんだからね――


 だが次の瞬間にはすぐにレイに対する疑問が湧き、その大きな眼を見開きつつ涙声のまま尋ねる。


「じゃ、じゃあ……どうしてその時に言わなかったの……?」


「そりゃあ、友達だもの。いくら友達でも、いや友達だからこそ、知られたくないことを探るわけにはいかないだろ?」


 そんな、外見どころか内面もまるで本物の美少年のようなレイの優しい言葉に、あまねの心中ではますます自己嫌悪が加速する。


 こんなに自分のことを思ってくれている人を、自分はずっと騙していた。何度も本当のことを打ち明けるチャンスはあったのに、結局自分からは何も言えなかった。その思いがあまねの精神の深い深い部分に耐えがたい痛みを与える。


 そして黒髪ロングの頭頂部に紫色のヘアカチューシャをつけたあまねはそのまま、後悔に充ちた胸の内を吐き出すように嗚咽交じりの声で、その手の甲で涙を拭いながら懺悔をするかのように語り出す。


ぼく……レイくんに会いたくて、一緒に仲良く遊べるような友達になりたくて……グスッ。でも、本当の自分じゃ嫌われる気がして……ずっと、騙してた。学園祭の時も、ゲームセンターの時も……グスッ……そして今日も……三回も……三回とも、全部、嘘ついて、女の子のふりして……ぼく、後ろめたくてもうレイくんと友達のままなんかでいられません……グスッ」


 その姿は、まるで壊れそうなガラス細工のように儚く、夜の闇に溶けそうなほど弱々しかった。


 そんな風に、座ったまま肩を震わせ、まるでこの世の終わりを嘆くかのように涙を一滴、また一滴と地面に落とすあまねの前で、レイは立ち上がり両手でズボンについた泥を払い落とす。


 そして、ゆっくりとあまねに近づき、まるで御伽話の王子様が、迷えるお姫様を扱うかのように優しく手を取って、立ち上がらせる。


 レイは、手を取って立ち上がらせた目の前のあまねを見つめつつ、こんなことを言う。


「ねえ、知ってる? ここのお堂の話?」


「え……?」


 手を引っ張られて立ち上がり、きょとんとしたあまねが見上げたレイは横を向き、すぐ近くにある格調高い朱色の小さな神社のようなお堂に視線を送る。


「この、井之頭公園のお堂はね、弁財天って言う七福神の女神さまが祭られているんだ。それで、弁財天様は嫉妬深い神様なんで、男女のカップルでお参りをすると、その男女は別れてしまうっていう都市伝説があるんだ」


 そこまで言ったところで、レイはかつて学園祭でそうしたように、あまねの手を何も言わずごく自然に離す。


 そして、二人の目の前にある、夜なので入り口の金属柵は閉まっているが、その神秘的な姿で闇に包まれた公園の静寂さの中に鎮座している弁天堂に、真剣な顔で視線を送りつつ口を開く。


「だからボクとあまねちゃんの二人で、この弁天様の祭られているお堂にお参りして、友達関係を解消して――」


 あまねの心臓が、そこでキュッと縮む。


 そして、レイが再びあまねの方を向いて、二週間前に学園祭で見せてくれたものと全く同じ様相で、爽やかな笑顔で柔和に告げる。


「――そして、もう一度改めて友達になろっか」


 その言葉により、あまねの涙は止まった。


 そして、その小さな口から小鳥が鳴くかのように囁く。


 「……レイくん、ぼくのことを赦してくれるの? 三回会って三回ともレイくんを騙してたぼくを?」


 すると、レイがすぐ近くにいるあまねを優しい眼差しで見つつ穏やかに告げる。


「キミに言っておくけど、その三回の倍以上の七回どころか、その七回の七十倍以上でもボクはキミのことを上限なく赦すよ。気にしないで。最初はボクはキミのことを女の子だと思って、キミはボクのことを男の子だと思って、お互いに同性だと思って友達になろうとしたんだから、その気持ちは大事にしようよ」


 そのレイの言葉に、あまねの心の中が大きく変わり、救われたような気分になる。


「う……うん。ありがとう、レイくん」


 そして、左足に履いている靴の紐が切れていたあまねは、レイに肩を支えられつつ、お堂の前に至るために備え付けられている小さな橋を渡り、夜なので閉じられた低い金属柵の前に並び、二人で手を合わせる。


 そして、お参りが済んだところで美少年のような外見をした少女であるレイが改めて、晩秋の盛りの季節を過ぎた虫の声が微かに鳴り響く夜の公園で、小さな美少女のような格好をした少年に向き合う。


 吉祥寺にある公園の夜の静けさの中には時折、電車の走る音が、車輪が線路を打ち鳴らす音が、遠くから響いていた。


 二人の間には、もう以前のような嘘も欺瞞もなく、ただ穏やかな時間だけが流れていた。


 そして、レイが微笑みながらあまねに手を差し出す。


「じゃあさ、改めて」


「え?」


「はじめまして。ボクは鳥神とりかみレイ、高校一年。バスケ部所属の、正真正銘の女子高生。よろしくね?」


 その冗談めいた挨拶に、あまねは吹き出しそうになりながらも、先ほどまで涙で濡れていた手をそっと伸ばした。


「は、はじめまして……伊原いはらあまね、中学二年。性別は……まあ、その……男の子です。よろしくお願いします」


 お互いに伸ばした二人の手がそっと触れ合い、握手をするという形で、さながら大切な相手との決裂と和解を経て新しい約束を結ぶかのように重なった。


 どこからともなく鳴る、ガタンゴトンという電車の車輪が鉄でできた線路を打ち鳴らす都会では聞きなれた走行音が、まるで物語の再スタートを告げる小さな鐘の音のように、静かに、確かに夜の闇に響いていた。


 今、あまねの目に溜まっている涙は、欺瞞に充ちた嘘の涙でもなく、悲哀に充ちた慙愧の涙でもなく、失われたはずだった大切なものの再生を告げる、歓びの涙であった。


 ――第1章 終わり――


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