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Ep.17 福音の備え


 いかにも女の子を粗末に扱いそうな、ベロンベロンに酔って赤ら顔になった、体がでっぷりと太った毛髪の薄い中年男性が二人。その足取りがふらついた男らが、群れからはぐれた獲物としての動物のような可憐な美少女を発見し、我が物にしようと見定めつつ近寄ってきている、という危機的な状況にあまねの口から自然と怯えにまみれた声が漏れる。


「ひっ……!」


 涙目で、まさに少女であるとしか思えないような変声期前のソプラノ調な高い声を上げるあまねに、そのいかにも太った体に着ている中年らしい安っぽい服をだらしなく着崩した酔漢二人はよろついた足取りで近づきながら、にやついた笑みを浮かべつつ、こんなことを言ってくる。


「なになにー? そんな可愛い声なんか出しちゃって? 怯えなくていいよー?」

「そうそう、おじさんたちはねー、こんな暗がりで寂しそうにしてる女の子のこと気にかけているだけなんだよー?」


 先ほどあまねの口から声が漏れたのは、恐怖からか、それとも自分でも気づかぬうちに喉元までせり上がった悲鳴だったのか。あまねの喉は乾いて、体は強ばり、うまく動かすことすらできなかった。


 酔漢二人のその視線は、本当は少年であるあまねを完全に"女の子"として見ていた。そして、誰が見てもその目は好意的なものではなく、目の前にいる柔肌を晒した雌に、動物の雄としての欲望を無理やりにでも注ぎ込んでやろうという危険な気配があからさまに滲み出ていた。


 ――早く逃げなきゃ……!


 あまねは頭ではそう考え、座っていた石の台から立ち上がり逃げ出そうとする。


 バタリ


 しかし、左足の靴紐が切れている今、瞬時に逃げ出すことなどできるはずもなく、つんのめってその場にうつ伏せの格好で倒れてしまった。


 それに、スカートを穿いた女の子の格好のままで走るには、あまりにも足運びが慣れていない。地面に伏したあまねが焦れば焦るほど、体の中で何かが軋み、心臓ばかりが痛いほどに鳴っていた。


 あまねは咄嗟に立ち上がろうとしたが、靴紐が切れたせいで足元が不安定で、うまくバランスが取れない。


 「ちょっと、やめてください……! 近寄らないで……!」


 まだ声変わりをしてないのでまるで本物の少女のように高い、小鳥が怯えるかのような震える声で叫んでも、男たちはその場を離れるどころか、逆に嬉しそうに笑いながら近づいてくる。


 ――お願い! 神様! 助けてください!


 ほんの一週間前にゲームセンターでのレイのとデートでそう思ったように、あまねは絶望的な状況の中でそう神様に祈った。


 赤ら顔の酔漢二人は、目の前で逃げ出そうとしてその場に倒れた美少女に、邪な考えの男性が若い女の子に対してよからぬことをするチャンスが生まれたと考えたことが明白なまでに分かる様子で、更ににやつきながら近づく。


 「おじさんたちねー、ちょっと心配しているだけなんだよー? そんな警戒しなくてもいいんだよ?」


 片方の酔漢がにやにやと笑いながら近づいてくる。もう一人も、フラつく足取りのまま、あまねと台座との距離を詰めてきた。足音が、砂利を踏む音が、禍々しい兆しであるかのように小さく、しかし確実な音を立ててあまねの耳に飛び込みにじりよってくる。


 「だめっ……来ないでください……っ」


 地面に伏したあまねは弱々しく振り向いて見上げ、震える声で懇願するが、そんなものが通じる相手ではないと本能が理解していた。女の子の姿であることが、こんなにも無力で、危険なのだと、初めて知るような錯覚すらあった。


 ――だめだ……このままじゃ……このおじさん二人に乱暴される……!


 ――ぼくは本当は男だって言ってもこんな格好じゃ、聞いてくれるかどうかわからない……!


 ――むしろ、そっちの方が好きな人だっていう可能性もある……!


 酔漢二人によりこれから自分の身に降りかかる、ファーストキスもまだの男子中学生にとっては確実に一生忘れられないトラウマになるような災厄的な経験について、あまねが絶望的なまでの想像をした、次の瞬間――


 タッタッタッタッタ


 あまねにとっては聞き覚えのある、赤いスニーカーを履いた足の駆ける音が近寄ってきた。


 ドカッ!


 この場に速足で駆けつけ、まるでヒーローか神様の使いのように颯爽と現れた長身の美少年のような様相のレイが、スリムな少女にしてはあまりにも強い力で酔漢一人を押し倒し、その場に横倒しに転ばしてしまった。


 ――え!? レイくん!?


 ――なんでぼくがここにいることがわかったの!? スマートフォンは機内モードにしていたはずなのに!?


 あまねは、いきなり現れた、自分のやってきたことのせいで二度と会えないことになってしまったと思い込んでいたレイの姿に、そんな戸惑いと感激の入り混じった思いを抱く。


「ぐぁぁぁ」


 体をふらつかせてべろんべろんに酔っぱらっていた、でっぷりと腹が出て太った中年男一人の、地面に倒れたその口から空気の抜けたような声が漏れる。


「ああぁー? なんだこのガキ?」


 飲み仲間が地面に倒れたのを見て、もうひとりの同じくアルコールが脳に回って足元がふらついている男が血気盛んに、少年のようにしか見えないレイに襲い掛かろうとする。


 しかし、いくら先天的に筋肉量が多く力の強い男性といえども、しこたま呑んだアルコールで酔っぱらって千鳥足でしか歩けない不摂生な太った中年の動きを、十代半ばの現役の女子高生で、高校では部活動としてのバスケットボールの厳しい練習を放課後には毎日のようにしているスポーツ少女なレイが躱せないはずがなかった。


 レイはその身を軽やかに翻して、酔っぱらった太った中年男の襲撃を受け流して華麗にいなし、つい一週間前にダンスゲームで高得点をたたき出したその身体能力で舞うようにしゃがみこんで、その男のふらつき加減の両足に足払いをかけて転ばせる。


 黒髪ロングの美少女姿のあまねにあからさまに性的な悪戯をしようとしていた酔っぱらった男二人が地面に転がり、そう簡単に立ち上がれないのを確認した上で、地面に臥せっている儚げなお姫様のような挙動をしているあまねの元に、まるで頼りになる王子様のような仕草で駆け寄り、しゃがみこんで寄り添い優しく声をかける。


あまねちゃん、大丈夫?」

「あ……はい、ぼくは大丈夫です……でもレイくん、どうしてここが?」


 本当は男の子であるにもかかわらず、先ほどまで男二人に犯されそうになっていたという恐怖で涙を目に浮かばせていたあまねは、少しばかり顔を紅潮させて、伏した状態のまま呆けた感じでレイを見上げてそんな疑問を尋ねる。


「話はあと、今はここから逃げるよ。しばらくの間は力を抜いてボクに身を任せておいて」


 レイはそうあまねが逃げ出す前と変わらない口調で相変わらず柔和に言って、地面にうつ伏せになっていたあまねを片方の腕で小脇に抱え、ひょいっと持ち上げた。


 あまねは気づけば自分の体がふわりと宙に浮いていた。小脇に抱えられ、その女子高生としての少女らしからぬ頼もしい腕に支えられながら、あまねの視界が一気に変わる。


 あまねは、いきなり体が地面から離れて浮きあがった感覚に一瞬戸惑ったが、この場面ではレイにその身を預けた方がいいと感じたので、特に力をいれることもせず、先ほどまで自分とのデートにおいて優しく接してくれていたその相手の言うとおりに身をそのまま任せることにした。


 そして、レイはあまねを片方の腕で小脇に抱えたまま――女子高生の少女が少年を持ち上げているにもかかわらず――勇ましい足取りで駆けだし、その場から一目散に遁走してしまった。


 夜の灯りが微かに点在する暗がりの広がる空間には、可憐な美少女に不埒な事をしようとした酔っぱらった二人の中年男性の、寝ころんだまま発する言葉にならないクダを巻いたような呻き声が小さく響き、遠くから響く虫の声、街の雑踏の微かな音、そしてどこからともなく聞こえてくる電車の走行音に紛れ、夜の街の中にある公園の闇へとかき消えて行ってしまった。


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