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Ep.16 モラリア

11月の晩秋の、もうすっかり風が冷たいその日。日没時間が早い太陽が西の地面の向こうに落ちてからゆうに数時間は経つ夜の吉祥寺の街は、駅前の喧騒がゆるやかに薄れていく時間帯へと移行していた。


 その駅前の喧騒と夜空を照らす電気の灯りをを遠くにし、吉祥寺の駅からやや南にある木々の生い茂る暗がり――街灯の灯りが点在するだけの、薄暗い闇の支配する静かな公園に、ふらふらとした足取りで秋らしい白いブラウスにチェックのスカート、そしてカーディガンという私服コーデをした美少女が――いや、美少女の姿をした少年であるあまねがうつむき加減で歩いていた。


 あまねは、その闇に覆われた公園を、その心情の暗さを表すかのような暗澹たる顔つきで歩いていたが、その内心を知る者は当人以外にはどこにもいなかった。


 カラオケ店を飛び出してから、あまねはメッセージを誰からも受け取らないように、また映画を観る前に拡張した位置共有機能をシャットアウトするために機内モードにしたスマートフォンを開くこともなく、どこへ向かうあてもなく、ひたすらに歩き続けてきた。


 あまねにとっては、自分にとって掛け替えのない親友だと思っている幼馴染の大諦が、空手の練習や大会への出場で遊べなくて寂しい時には、よくこの公園に来ていて一人で色々な考え事をする癖があったので、レイに自分の本当の性別がバレてから、無意識のうちにこの公園へと足を運んだのは自然な事であったのだろう。


 しかし、空手の練習や大会が終われば、またいつものように朝は一緒に登校して、一緒に会話ができる大諦とは違って、レイとはもう二度と会えないことになってしまったという事実に、あまねの心の中の光は消えていた。


 そのような、偶然出会って自分に親切にしてくれて、せっかく仲の良い友達になりたいと言ってくれたレイと、むざむざ関係を終わらせることになってしまった絶望と後悔の念と共に、美少女らしい秋服コーデに身を包んだあまねはカラオケ店を飛び出してから、ただ夜の街を経て、人のいない暗がりの公園を漫然とさまよっていた。


 つい昨日に姉と一緒に買った、体が貧弱で背が低く四肢も細いあまねにとっては唯一ともいえる男の子っぽい部位であるそれなりに大きな足に、幸いにもぴったりとサイズが合ったユニセクシャルなデザインをしたグレーのスニーカーで、公園の砂利道を踏みしめる。


 歩きながら、あまねの心の中には振りほどくことのできない悲哀にまみれた慙愧の思いが、重たくのしかかっていた。


 ――レイくん、あんなメッセージ送られてきていきなりぼくがいなくなってどう思ったかな……。


 ――ぼくはレイくんが思ってくれていたような、お菓子作りが趣味のカワイイ女の子じゃなかったんだよ。


 あまねにとっては、メッセージを一方的に送っただけで何も言わずにカラオケ店から逃げ出して、あの友達になってくれそうだった優しくて頼りがいのある、女の子が相手のデートでまるで男の子のような役割を精一杯果たしてくれていた少女が今頃どんな思いを抱いているか、少し考えただけで胸が潰れそうであった。


 あまねはぽつりと、誰に聞こえないくらいの微かな声で呟く。


「……ぼく、本当に最低だよ……あんなにぼくのことを気遣って、親切にしてくれたレイくんを騙したまま、女の子のふりなんかして……それをそのまま隠し通そうとして……」


 ――あれだけ優しくしてくれて、ただ変装で美少女に上手く化けていただけの自分のことを、まるで本物の可憐な女の子ように大切に扱ってくれて。


 ――気を使ってくれて、映画に誘ってくれて、ご飯もカラオケも奢ってくれて……。


 それなのに、自分は騙していた。正体がバレて嫌われるのが怖くて、自分が本当は男であることを隠して、まるで“本物”の女の子であるかのように振る舞っていた。あまねの頭の中には、取り返しのつかないことをしてしまったという変えられない現実が、人の親切心を裏切ってしまったという身から出た錆ともいえる後悔が先ほどから絶えずに巡っていた。


 「……レイくん、怒っているよね。きっと、もう会ってくれないよね……」


 吉祥寺の公園のすぐ近くにある、落下防止用に池の周囲に取り付けられた柵の近く。その人気のない夜の公園には静寂と虫の声、そしてたまに遠くから聞こえてくる電車の音しかなかった。


 その、暗がりの中であまねは立ち止まって再び呟く。


「いや……でも、レイくんも最初は男の子のふりをしていたんだし、お互い様なんじゃ……?」


 暗闇の広がる夜の公園で、誰にも聞かれてないにも関わらずそう口に出してしまったことに、あまねは不意に罪悪感を抱き、その紫色のヘアカチューシャをつけた黒髪ロングのウィッグを被った頭をぶんぶんと振って心の中で否定する。


 ――いや違う! レイくんはお姉ちゃんの大学の学園祭でぼくをナンパから守るために仕方なく嘘をついただけだったけど、ぼくは最初っから会う人を騙すために女装していたんだ!


 ――せっかく、新しい友達ができたと思っていたのに……せっかく、仲良くしてくれそうな素敵な人が好意をかけてくれたのに……。


 ――ぼくが最初っから嘘をついていて、それからも本当のことを明かさずにそのまま押し通そうとしたから……結局、全部壊れることになっちゃった……。


 そんなことを考え、また再びとぼとぼとその長いロングの黒髪を憂鬱に垂らしながら歩き出そうとすると、グレーのスニーカーを履いている足元から乾いた音がした。


 パチン。


 紐の切れる音であった。


「あっ……」


 あまねが暗がりの中で、遠くの街灯からわずかに届く光で足元をみようとするもよく見えず、足を動かすと微かな光の中でどうやら靴紐が切れたようであることがわかった。


 昨日、姉と一緒に買った秋物の少女向けコーデに会うような、ユニセクシャルな可愛らしいグレーのスニーカー。その片方、左足の靴の紐が切れ、外側に垂れている。


 歩こうとしても、上手く歩けない。踏ん張ろうにも、バランスが崩れる。あまねは焦りつつも、片足でケンケンと跳んでなんとか近くの池廻りの柵近くに据えられていた、石でできたベンチらしき台座に座った。


「本当についてないや……なんでこんなときに……」


 あまねは、靴紐が切れた方の左の足を、今座っている石の台より少し低い、すぐ近くにあるもうひとつの石の台座の上に乗せる。


 そして、自分で歩けるようになんとか靴紐を結べないかと女子もののチェックのスカートをまくって、まるで本当の少女であるかのような白く細い綺麗な生足を晒し、立てた左の膝向こう側にその手を伸ばす。


 その際に、あまねはこんなことを思っていた。


 ――もしかして、レイくんを三回も騙したからバチが当たったのかな。


 そんな、罪悪感と自己嫌悪に入り混じった感情でその美少女らしい大きな瞳に涙が滲み始めた瞬間、後ろから中年らしき男二人の野太い声がかけられてきた。


「ねえねえお嬢ちゃん、こんなところでなにしてるのかな?」

「こんな時間に悪い子だねー、家出かな? おじさんが補導してホテルで保護しちゃおっかなー」


 あまねはびくりとし、肩を震わせて振り返る。


 背後からは、見た目からして酒に酔っているのが明白な、いかにも40代か50代のおじさんらしく腹の出ているだらしない体つきをした、毛髪の薄い中年の男が二人。街灯の灯がかすかに照らす暗がりでもわかるくらいの赤ら顔のまま、ふらふらとした足取りで、にやつきながら近づいてくる。


 日曜日の夜の店でしこたま摂取したのであろう、血管を介して脳に回ったアルコールによって理性が飛び、モラルのない発情期の獣同然の欲望を発露した酔漢二人の目的は、このような人気のない公園の暗がりで無防備にも肌を晒してしまっている、美少女にしか見えないあまねの体であることは明白であった。


 それはまさに、中学生であるあまねにとっての初めての貞操の危機、とも呼ぶべきものであった。


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