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Ep.26 知ある無知



 その、背中がこげ茶色で腹が白い毛並みの野良猫は、長い尻尾をしなやかに揺らしながら冬の朝の公園を歩いていた。


 新品の純白ジャージを着たあまねと、赤ジャージに青いウィンドブレイカーを羽織った海星みほしは、その猫のうしろからついて行って遊歩道から外れて雑木林の中へと入っていく。


 そのバイカラーの猫は、不意に立ち止まったかと思えば、ついてくる二人の人間に対して振り返り「こっち」とでも言いたげな感情をこめたかのように「にゃあ」と鳴き声を上げ、また前を向いて四本の足で歩き始める。


 今は何も手には持っていない海星みほしと、片手に蓋を閉めたペットボトルを持っているあまねは、ただただ猫の後をついていって、茂る低木の間を抜けつつ公園の奥に入っていく。


 ――こんな公園の奥の方、人がまず入ってこないよね。


 そんなことを思ったあまねは、すぐ隣を歩く海星みほしをちらりと見る。


 海星みほしは、なんとなく狐につままれたような表情をしているが、猫の後姿から視線を外そうとはしていなかった。


 そして、あるところで藪に囲まれたようになっている場所の前にて、猫がもう一度振り返り、何かを訴えかけるように「にゃあ」と鳴いてから、その藪の中に入っていった。


 あまねは、すぐ隣にいる海星みほしに話しかける。


「えーっと……これって、藪の中に入ってほしいってことでしょうか?」


 すると、海星みほしは真剣な表情になって、その顔をあまねに向けて応える。


「ここまで来たら、行くしかないでしょ。アンタ先に行ってよ」


 そして、低身長な二人でも腰をかがめなければとても抜けられないないような、藪の隙間の向こうへと、まずはあまね、そして海星みほしの順番で入っていく。


 その、人目につかない鬱蒼と生い茂った藪の中にあったのは――


 赤いコートを着た小さな、三、四歳くらいの男の子がうずくまってすすり泣きをしていた。


 小柄なあまね海星みほしよりずっと小さな存在である、その赤いコートの下には赤いシャツを着ているらしい泣いていた男の子は、頭には丸いポンポンのついた赤い帽子を被り、下半身には白い綿のズボンを穿き、そして小さな足には子供用の黒い革製のブーツを履いていた。


「ちょっと、大丈夫!?」


 発見した小さな男の子に駆け寄って、あまねがそう声をかけると、うずくまっていた男の子はその顔を上げ、ずっと涙を流していたのであろう潤んだ瞳を見開きつつ、子供らしく弱々しい声を小さく発した。


「キィ……!? パーパ……!?」


 ――え!? 外国人の子供!?


 その男の子は明らかに日本人の子供ではなく、栗色の短めの髪に青い瞳の容貌をした、目のぱっちりして鼻の高い、就学前くらいの幼児なのに彫りの深さがはっきりわかる男の子であった。


 そして、その幼い男の子は声をかけてきた相手が自分の家族ではないことに気づくと、もう一度涙を流して、英語とは異なる言語であることが明らかにわかる外国語で泣き叫ぶ。


 「ノー! トゥノンセイパーパー! パーパー! マンマー! ドォヴェシェテー!?」 


 そんな、小さな男の子の涙を流しながらの叫び声に、あまねはおろおろとうろたえる。


 しかし、藪を抜けるにあたって後ろから遅れてついてきた海星みほしが、その男の子にすすっと近寄り、あまねにとっては予想外の行動をした。


 ぎゅっ


 海星みほしは、大声を上げて泣いている男の子をいきなり抱きしめ、その母性の象徴であるかのような大きく柔らかい胸を男の子の顔を押し当ててうずめさせた。


 あまねは、目の前のガサツだと思っていた少女のいきなりの行動にポカンとする。


 そして海星みほしが、見知らぬ男の子に対して、まるで母親が我が子を慈しむかのような優しい言葉をかける。


「よしよし、怖かったね。寂しかったね。でも、もう一人じゃないから安心して」


 なんとなくあまねは、その赤いジャージの上に青いウィンドブレーカーを羽織った少女が慈愛に満ちた表情で幼子を抱きしめるその様子からは、名匠の描いた絵画を見ているかのような印象を受け取った。


 身も心も母性的なオーラが溢れる少女に抱きしめられて、その大きく膨らんだ柔らかい胸に顔をうずめて、なんとなく落ち着いた顔を見せた幼い男の子は泣き止んでから、涙を目に浮かべたまま寂しそうに「……マンマ」とだけ呟く。


 しばらくあまねは放心してたが、そんな場合ではないと気を取り直して、目の前で幼児を抱きしめている海星みほしに話しかける。


「えーっと……なんだかこの男の子、英語じゃない言葉喋ってましたけど……海星みほしさん、何語かわかりましたか?」


「ううん、全然。そもそもワタシ、英語じゃないってことすら気付かなかったし」


 そう海星みほしが応えるので、あまねは考える。


 ――僕は、学校で習ってる英語以外の外国語なんかわからないし。


 ――今日は清掃ボランティアでの貴重品の紛失を防ぐために、スマートフォンは持ってきてないし。


 ――そうなるとこの手しかないか。


 そう思ったあまねは、男の子を抱いている海星みほしに尋ねる。


「ねえ、海星みほしさん。海星みほしさんは携帯電話持ってきてましたよね?」


「え? ええ、何年も前の古いタイプのガラケーだけどね」


「その携帯電話、貸してくれませんか? 僕のお姉ちゃんでしたら、もしかしたら何を話してるかわかると思いますので」


 瞳の大きな少女姿のあまねがそう少しだけ凛々しく顔を引き締めながら伝えると、海星みほしは少し戸惑った顔を見せたが、すぐにポケットからガラケーを取り出して目の前のあまねに手渡した。


 そして、海星みほしと外国人の男の子から少し離れた所で、自分の家の固定電話番号をプッシュして電話をかける。


 プルルルル プルルルル


 しばらくコール音が鳴ってから、誰かが固定電話の受話器を取った。


『はい、もしもし? どちらさまですか?』


 土曜日の休日に家で寛いでいた姉の利愛が、受話器を取って応えてくれたようだった。


「あ、お姉ちゃん? 僕です。 あまねです」


『まーちゃん? どうしたの? 新しくできた女の子のお友達と清掃ボランティア活動中じゃなかったの?』


「えーっと、ちょっと迷子の男の子をボランティア中に見つけて……その男の子、外国の子供で日本語がわからなくって、なんか喋ってるのが英語じゃないんだけど何語かわからないんだ」


『ふーん、じゃーちょっとその男の子と話させて。最悪何言ってるのかまったくわからなくても、受話器越しに翻訳アプリかませるから』


 利発で機転の利く姉がそういってくれて、あまねは若干笑顔になって、海星みほしに再び近寄り、その胸に抱かれている男の子の耳元にそっと携帯電話のイヤースピーカーを当てる。


 そして、男の子に優しく話しかける。


「何か話してみて、Please speak anything」


 すると、耳にガラケーのレシーバーを当てられた男の子はおっかなびっくりと、幼児らしい舌っ足らずな口調であまねを見つめつつ話し出す。


「ミ ポルティ ダ マンマ エ パーパ。ペル ファヴォーレ?」


 すると、通話口の向こうにいる利愛が何かを話しかけたのか、男の子の顔色がパッと明るくなって言葉を続ける。


「ミ キャーモ ニコラ! ヴェンゴ ダ バーリ! イン イターリア!」


 すると、子供を抱きしめている海星みほしがすぐ近くにいて携帯電話を男の子に対して構えているあまねに、男の子と利愛の会話を邪魔しないような小さな声で伝える。


「イタリア? 最後にイタリアって言った? この子、話してるのイタリア語なの?」


「みたいですね。 イタリア語なら大丈夫。お姉ちゃん、大学の第二外国語イタリア語取ってますので」


 あまねがそういうと、海星みほしは不機嫌そうな、だけどどこか感謝してるような、複雑な表情を見せた。


「ふーん、アンタのお姉さんもやっぱり良いところの子らしく、大学とか行ってるんだ。あれこれ言っても、裕福な家の子って学があったりするからこういう場面とかで何かと役に立つのね」


 そんな海星みほしの表情を見て、美少女姿に化けているあまねは、せめてもの真摯な本心を伝える。


 「海星みほしさん、でも僕だって英語は少ししかわかりませんし。それに、海星みほしさんの携帯電話がなければお姉ちゃんとは連絡できませんでしたよ。自分にはできないことは何かってのを理解して、その何かをできる人にお願いをして頼るっていうのも上手く生きるための知恵のひとつですので」


 そんなことをあまねが言うも、海星みほしはなんとなく承服しかねる表情を見せた。しかし、あまねは気にせず穏やかな口調で言葉を続ける。


「この世界ってお互いに利用のし合いとか、競争のし合いとかばかりじゃなくって、なんだかんだでお互いに近くにいる人を大切にし合って、助け合って生きるってのが物凄く大切なことですから」


 あまねがそう伝えると、海星みほしは少し照れた様子でそっぽを向いた。


 ただ、あまねには目の前の少女が小さな迷える子供を慈愛の念を持って抱きしめたこと、その姿を自分の前で見せてくれたことがなんとなく嬉しかった。


 この子供のいる場所に連れてきた、あの背中がこげ茶色でお腹が白いバイカラーの毛並みの猫は、いつの間にか二人の傍から消えていた。



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