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Chap.3

Ep.37 大学


 寒さが緩む気配のない一月の下旬の日曜日の朝、杉並区内の駅前には、雑踏から吐き出される白い息が絶え間なく立ち昇っていた。


 傍から見たらまるで可憐な美少女のような姿の少年――あまねは、この自宅から離れた場所にある駅まで母親に連れて来てもらい、駅前から続く小さなロータリーの一角で足を止めていた。


 レディーススタイルの純白の布製アウターに、その下から伸びる細い脚は厚手の黒タイツに覆われ、女の子らしいローファーを履いている。ショルダーポーチの中には財布と黄色いシリコンカバーのスマートフォンと、姉である利愛りあに借りたハンドクリームが入っている。


 毛先が姫カットのように切りそろえられた長い黒髪のウィッグの頭頂部には、そのウィッグが外れないように頭を上から挟む格好で、白色のヘアカチューシャが取り付けられている。切りそろえられた前髪の下にある、冬の朝の光を受ける円らで大きな瞳は、光彩陸離こうさいりくり――優れた者を他者が見た際に光が入り乱れるかの如く一際目立っているような、そういう印象を周囲の道行く人に与えていた。


 女装をしている美少女姿のあまねは、左手首に巻かれている皮ベルトのお洒落な腕時計の、女の子らしく手首の内側にあるアナログ盤面で可愛らしい仕草で時間を確認する。


 すでに待ち合わせの時間を少し過ぎていたが、まだ姿を見せない海星みほしを待つあいだ、あまねは周囲の人々の往来をぼんやりと見つめていた。


 そのときだった。数メートル離れた位置から、若い男の二人組が、何気ない風を装いながらこちらに近づいてきた。


「ねえ、寒くない? そんなとこで一人でさ」


 片方が声をかけてくる。清潔そうな服装の、たぶん二十代くらいの男。あまねはうっすらと緊張しつつ、軽く首をすくめて視線を逸らす。


「えっと……大丈夫です……待ち合わせなので」


 あまねがそう、到底男の娘であるとはバレない高いボーイソプラノの声でそう応えるも、男はそれで引き下がろうとはしなかった。


「へえ、じゃあちょっとくらい暖かいお店の中で話そうよ。どこ住んでんの? 学生さん?」


 困惑が表情に滲んだ瞬間、すっと横から柔らかい声が割って入った。


「すいません。この子、ワタシと一緒なんで。これから急ぐ用事があってもう行きますから」


 すっと現れあまねの腕に腕を回してきたのは海星みほしだった。


 冬物の、ボトムス部分がロングスカートスタイル状の白いレディースワンピースに、アウターとして布でできている水色のジャケットを羽織って、その茶髪ショートツインテの頭には黄金色の真鍮のような星形の髪飾りと、赤と青の布で織られたリボンをアクセサリーとしてアピールしている小さな少女。


 あまねはつい数日前にその少女から、学費免除の推薦入試における面接試験が終わり、やっと肩の荷が下りたと電話で伝えられたばかりであった。


 肩にかけたショルダーバッグと、白いワンピースのトップス部分で中学生には似合わないくらいに大きく膨らませた彼女自身の魅力的な膨らみを軽く揺らしながら、彼女は大切な女の子の友達を護ろうと堂々とあまねの腕に腕を回して隣に立つ。その目線には、母猫が子猫を護ろうとするかのような光がこもっていた。



 美少女をナンパしようとしていた二人組の男は、気まずそうに一度顔を見合わせたが、やがて「あ、そう……じゃあ」と言って踵を返して去っていった。


「……ありがとう、海星みほしさん」


 電車のホームへ向かう前に、あまねは少しだけ緊張の解けた声で言う。


 海星みほしは何でもないように微笑んで、布製のショルダーバッグから小さなパスケースを取り出した。


「今日は、レイさんのお父様からこれ預かってるから、お金の心配はないわよ。ほぼ上限まで入ってるって言ってたから」


 そのパスケースの中には、あまねもいつも使っている交通系ICカードが入っていた。最高額として二万円までチャージできて、日本中で使えるはずのその電子マネーカードがあれば、少なくとも一日中の移動費には困らないという事だろうとあまねは理解した。


「いや……それより、そもそも今日はどこへ行くの? レイくんは来ないの?」


 改札を抜け駅のホームへと向かう最中、美少女姿のあまねは目の前の乙女な少女である海星みほしにそんなことを尋ねる。


 海星みほしは、歩きながら応える。


「レイさんは、今日はバスケの本番の試合よ」


「えっ、じゃあ……応援しなくていいの?」


 あまねの驚きに、海星みほしは小さく笑って首を振った。


「逆よ。レイさんが忙しいから、ワタシが行かなきゃいけないの」


 その言葉の意味を正確に理解する前に二人して、日曜日の午前中とは言えど中央線のそれなりに混んだ電車に乗り東に向かう。電車は新宿に着き、そこからまた東京を横切るように東へ東へと向かう。電気街として有名な街のその駅である、秋葉原駅に降りてから人混みの中をふたり並んで歩き、つくばエクスプレスの改札口へと向かっていた。


 秋葉原の雑踏を抜けて、地下にある冷えきったコンクリートのホームに立ち並ぶ頃には、あまねのなかの疑問が静かに積もっていた。


「ねえ、海星みほしさん……今日、僕たちどこへ行くの?」


「うーん……ちょっとね、東京から離れた静かな田舎よ。緑が多くて自然があって、でも大学もあるから、案外人も多いところ」


「え?……大学って……」


――ってことは、これから会いに行く人って。


 冷たい駅のホームにて並んだあまねが、これから誰に会いに行くのか大体察したところで、海星みほしあまねの方を見ないまま口を開く。


「ちょっとね。レイさんのお父様から頼まれてることがあって」


 そして、到着した電車に乗り込み、横に並んで座る座席を二つ確保したところで窓の外の暗闇が動き出す。


 どれくらい時間が経っただろうか、つくばエクスプレスの地下区間が終わり、弱いとはいえ刺すかのような冬の光が大きな窓から飛び込んできた。


 そしてそのうちに、郊外の冬枯れの木々と平地、田園の景色が車窓に広がり、東京の街から随分と遠く離れたのがわかる。


 車内は暖房がきいていて、二人は横並びに座ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。


 やがて、その電車は終点に到着する。


 つくば駅――つくばエクスプレスの終着駅であり、この駅だけは東京都から遠く離れた駅としては唯一、地下に造られている。


 つくば駅に着いたのはお昼の少し前。地下から地上へと上り建物の外に出ると、空は高く晴れ渡り、吐く息こそ白いが、冬らしく弱いが刺すような日差しがまぶしかった。


 駅前の通りに出たところで、あまねはおずおずとその後ろをついて歩きながら、ついにたまらず尋ねた。


「あの……海星みほしさん? そろそろ、誰に会いに行くか聞いてもいい?」


 すると、海星みほしは振り返りつつあっさりと答える。


「ちょっとね、手間のかかる一人息子さんを、お父様に面倒見るよう頼まれてんの」


――レイくんのお父さんの一人息子さん? ってことは、やっぱり……。


 あまねはかつて利愛りあに、姉の通う大学にて論理学の教授をしているレイの父親には、一人息子がいると教えられていた。


 そして、海星みほしが言葉を続ける。


「レイさんのお兄さんの、ミコトさんよ」


――レイくんのお兄さんの、ミコトさん。 


――茨城にある、国立大学の筑波山つくばやま大学に通うために一人暮らしをしているって言っていた、大学生のミコトさん。


 あまねは、すぐには言葉を返せなかった。思っていたよりもずっと遠くに来たような気がして――心のなかに小さな緊張が静かに走っていった。


 その人物――鳥神とりかみみことが、自分とどんな関わりを持つことになるのかを、自分の心と人生と、そして運命をどう変えてしまうことになるかを、あまねはまだ知らなかった。


 駅から遠くにあるはずの大学の建物より吹く風が、この美少女姿の小さな少年を迷える子羊を導くかのように、冬の空の下でその作り物の髪をさらりと撫でていった。

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