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Ep.38 論語


 冷たい北風が住宅街にあるアパートの外壁に吹きつける昼下がり、あまねはその日初めて、手に重さを感じていた。


 スーパーの購入品を入れるために使われる白いプラスチック袋を手にひとつ提げ、肩からはショルダーポーチが小さく揺れる。スーパーのレジ袋には、豆を甘辛く煮た調理済み総菜やカット野菜、すぐ食べられるようローストされたラムの肉類、調理しなくてもいいミックスナッツに果物としてリンゴ、レイと同じくミコトさんが好きらしい紙パックの葡萄ジュース、それからスタンダードに食パンなど、気取らない一人暮らし向けの食品が詰められていた。


 ミコトの家に行く前にスーパーで買い物をすると言われてついていって、そしてあまねが袋を持っているのは海星みほしに頼まれたからだったが、こうして美少女の姿のまま、道ゆく大学生らしい若者らの興味の視線をなんとなく向けられながら荷物を運ぶのは、どこか奇妙に落ち着かない感覚だった。


「もう少しで着くわよ」


 すぐ横を歩く海星みほしが、あまねのものよりは少しばかり小さくて軽そうなビニール袋を、片手に持ちつつそう言った。


 つくば市の郊外、低い住宅とアパートがまばらに並ぶ、いかにも大学生がそこら中に仮庵として住んでいるような建物の多い住宅街の通りの奥――地面の砂利が凍りかけたように白く乾いた敷地の端に、そのアパートはあった。どうやら築年数の浅い鉄骨造りらしく、二階建てで白い壁を見せた簡素なアパート。お世辞にも鉄筋コンクリートでできたマンションのように重厚たる佇まいとはいえないが、少なくとも外観はこざっぱりとしていて清潔な印象を受けた。


 海星みほしが目的地として目指していたのは、一階の端の部屋だったらしい。道路から開放になっているアパート一階部分のコンクリートの廊下を進み、突き当たりにあった黒いドアの前に到着する。


「……ここ?」


 あまねがドアを見上げてから小さく尋ねると、隣にいる海星みほしが無言で頷く。


 ――レイくんのお兄さんの、鳥神ミコトさん。


 ――どんな人なんだろう。


 ピンポーン


 海星みほしが玄関のインターフォンを押すと、直後――


 どさっ。


 何かが転げ落ちるような鈍い音が、明らかに部屋の内側から響いてきた。


 「……えっ?」


 あまねが目を見張る中海星みほしは表情を変えず、持っていたスーパーの品物が入っている白いプラスチック袋を、即座に隣にいるあまねに預け、肩から下げていたショルダーバッグから小さな巾着袋を取り出し、更にその中から鍵を取り出す。


 カチャリ


 海星みほしは、鍵を取り出したと思ったらすぐさま鍵穴に入れて回して、解錠する際の典型的な金属音を冷たい廊下に鳴り響かせる。


――えっ? 合鍵まで持ってるの?


――なんだか海星みほしさん、通い妻みたい。


 海星みほしがドアを引き開けたその瞬間、アロマのような芳しい香りと、まるで図書館のような本の匂いが冷たい空気に乗って外に流れ出してきた。


 玄関の奥――うっすらとした薄明かりの廊下の向こうにある暗がりの部屋には、倒れている人間の手が覗いていた。


 海星みほしは何も言わず、すぐさま玄関で靴を脱いで上がり、その暗がりの部屋に向かって急ぎ足で進む。


 あまねも、少し動揺はしたもののすぐさま冷静さを取り戻し、敷居をまたいでドアをゆっくり閉め、左右それぞれの手に持っていたスーパーのプラスチック袋を玄関近くに置いてから、少女らしいローファー靴を玄関に軽く揃えつつ脱ぐ。


 スカートを揺らしつつ、薄暗い廊下を抜けて入った室内。カーテンも中途半端に閉められていて昼間だというのに光が乏しい。


 しかし、閉じられたカーテンの隙間からは、まるで天へと登る階段のように太陽の光が斜め向きに差し込んでいて、さながら神の住む神殿のようなそこはかとない神秘的な雰囲気を醸し出していた。


 そのベッドの置いてあるフローリング床の部屋の様子を見て、あまねは思わず声を漏らす。


「凄い量の本……」


 壁沿いには天井まで届きそうな本棚が立てられていて、そこには分厚い背表紙がひしめいていた。


 タイトルの言語も日本語だけでなくさまざまな言語の題名が混ざっていた。英語、ドイツ語、スペイン語、中国語、ラテン語らしきものさえある。


 日本語の題名で中学生のあまねにとって意味が分かるものだけでも、その本の予想される内容は、哲学、論理学、数学、生物学、心理学、コンピューターサイエンス――どの本も、ぱっと見ただけで頭痛がしそうなものばかり。


 そのどれもが、読もうとする気を瞬時に挫くほど、難解な雰囲気を放っていた。この部屋の住民は、とにかくとてつもなく勉強家で、古今東西あらゆる書物を読もうとしていることが、あまねには直観的に感じ取れた。


 しかし、いまはこの仮住まいの宿に住むその者の容態の方が重要であった。


 今、美少女姿のあまねは振り向き、床に正座をしている海星みほしと、その正座した海星みほしの膝の上にて仰向けになっている男性を見る。やけに細身で、身長が175センチメートルくらいのレイよりもあからさまに背が高い、180センチメートル台前半くらいの長身の男性――鳥神ミコトに視線を移した。


 そのミコトというレイの兄と思しき男性はカジュアルウェアの上に科学者が着るような白衣を着ており、ミディアムの黒髪が乱れていた。眼鏡も何もかけていないその眼を瞑った顔は上を向いたまま動かず、その頬はやせこけ、顎には無精髭がうっすらと生えている。


 冷えた床に両脛をつける形で座った海星みほしは、まるで我が子の亡骸を悲哀か慈悲と共に抱く母親のような目で、その長身で細身の男性を仰向けにして支える。彼の細くて長い手足が、重力に従うようにばらりと床にはらわれている。


「ミコトさん……?」


 その頭を手で支えている海星みほしが名前を呼ぶ。


 その声に反応するように、仰向けになった男のまぶたが薄く開いた。


 裸眼のその目は虚ろで、焦点が定まっていなかったが、それでもどこか意識の芯だけは残っているように見えた。その、海星みほしの太腿の上に寝転がり両手で支えられ仰向けになっている、アバラが浮いてる様子が服の上からでもありありと想像できるくらいに体躯が細い長身の男性は、その乱れたミディアムヘアーの黒髪を重力にまかせたまま、かすかに口を動かした。


「……お腹……すいた……」


 第一声は、あまりにも日常的な言葉だった。


 あまねは頭に白いヘアカチューシャをつけた女装姿のまま呆然と立ちすくみ、その言葉に目をぱちくりとさせた。


「……なにこの人」


 そんなことを思わず呟いたあまねは、その全てが規格外の存在である目の前の男性――鳥神とりかみみことを、素直に「変な人」と心の中で思っていた。


 そしてこれが、レイと海星みほしの導きによる、あまねとミコトの最初の出会いであった。




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