「…え?嘘…」
そこには、youというアカウント名と、未設定のアイコンが『おいしそうですね』と返信したとのお知らせが。
「専務…何してくれてるんですかね…」
交換したメッセージアプリで、さっきやり取りしたトーク画面を開いた。
裕也専務のメッセージアプリのアイコンは、SNSと同じく未設定だ…
『お疲れさまです。SNS、フォローありがとうございました。メッセージなんですけど、マズくないですか?』
送信すると、すぐに既読がつく。
『おいしかったね!…の方が良かったでしょうか?』
…いや、一緒でしょ。
てか親しげな方がより一層まずくない?
『いえいえ…やり取りしてるのを、会社関係にでもバレたら、マズいかと思ったんですけど』
『大丈夫ですよ。バレませんから』
結構大雑把な人なんだろうか…
本当に、掴めない人だ。裕也専務。
その後2〜3回のやり取りをしてメッセージが終わり、なんだか不思議な気持ちになる。
会社の上司…しかも女子人気のヤバいイケメン専務と偽装婚約者になって、SNSでやり取りしてるなんて。
先週はまったく知らない人だったのに、人生とは…どう転ぶかわからない…
その後、寝る前に確認してみると…裕也専務のSNS、今までの写真がすべて削除されていて、伝統うどんの写真だけが投稿されていた。
迷って…ハートを1つ送って、眠りについた。
専務のご実家への挨拶という重要ミッションがあっさり終わり、これまでと同じ毎日が戻ってきた。
変わったことといえば、夜バイトに行くダルさがなくなったこと、そして引っ越しを考えるようになったことだろう。
私の銀行口座には、裕也専務が振り込んでくれた大金と、両親の借金をチャラにした数字がしっかり残っている。
返済したあとのお金も残っているが、裕也専務はこれも報酬だからと、残金を受け取らなかった。
後は言ってたように、裕也専務に呼び出しを食らったら、買ってもらったスーツを着て会合に挑めばヨシ…という感じ。
すべて、順調に進んでいると思っていた。
なのに、裕也専務のご実家に挨拶に行って1週間が過ぎたある朝。
出社してみると、なぜか課内がザワついていた。
「本当だって…!裕也専務がこの階にいらしたの!」
「…てことは、部長室?」
「いや!課長も後から入っていったよ?」
裕也専務が秘書課近くに来た。
それだけで、秘書課は上へ下への大騒ぎになる。
それは皆、もしや裕也専務直属の秘書に任命されるかも…という夢を抱いているからだと聞いたことがある。
でも…すでに始業時間は過ぎているんですが…?
みんな課長がいないのをいいことに、噂しまっくっていた。
もしもこの噂の中に…裕也専務との偽装婚約の話が紛れ込んだらどうなるのだろう…
しかも、料亭に連れて行かれて実家に行って、かつての自室に入ってマイカーの助手席に乗ったなんて知られたら…
はりつけ火あぶりの刑…ってとこかな。
「皆そんなに気になるのかなぁ…裕也専務のこと」
隣の席の同期、柳くんがちょっと椅子を寄せて、私にだけ聞こえるように言う。
「う…ん、スゴい人気だよね」
柳くん…今日もとっても綺麗。
整えられた眉は緩くカーブしていて、お肌はヒゲなんて見えないツルスベのもち肌。
ふんわり石鹸の匂いがするし、口元に持っていった手も白くてとても綺麗。
「…なんか舞楽、顔、変じゃない?」
「…へ?ど、どこが?」
顔が変だなんて、聞き捨てならない。たいして可愛くも美人でもないって自覚はしてるけど、さすがに変はヤバい。
不安そうな顔を突き出す私にのけぞる柳くん。
「あ…ごめん、言い方間違えた!お目々のメイク、右だけしか完成してないよ?」
ふふ…っと柔らかく笑う柳くんは、私なんかよりずっと可愛いし色っぽい。
「え…じゃ直してよ!いつもの七つ道具、持ってるでしょ?」
皆の大騒ぎは続いているので、その間にやってもらうことにする。
柳くんは引き出しから道具を出して、右手の小指にパフを挟み、アイシャドウをブラシにのせた。
「できてると思ってたけど…左も悲惨だね。両方いじるよ?」
うんうんと頷き、立ち上がった柳くんに合わせ、少し上を向きながら目を閉じた。
…2人とも夢中になっていて、あたりの喧騒が静かになっているなんて気づかなかった。
「いったいなにを…しているんですか?」
聞き覚えのある低音ボイスと冷たい言い方。
「…あ、裕也専務…」
目を閉じている私より、柳くんの方が早く気付いた。
「…っ!?」
裕也専務?…
目を開けると、至近距離にやや目尻の上がった切れ長二重が迫っている。
「片瀬舞楽…君、ちょっと来て」
あ、敬語じゃない…
どうでもいいことに気づいてしまう呑気な自分を殴りたくなる。
なぜなら、秘書課の皆さんが、めちゃくちゃ私を見てる…
いや見てるというより睨んでる。
先を歩く裕也専務を追いながら、私は柳くんに「ごめんね…」と謝り、柳くんは「メイクは完成したから」と小さく返事をもらった。
秘書課を出て、急に静かになった廊下。
コツコツ響く裕也専務の革靴。
後ろから見た今日のスーツは黒。
ポケットに手を入れて歩く足は長く、その背中は広い。
専務役員室、と書かれたドアをノックなしに開ける裕也専務。
そこには、第一秘書の星野陸斗さんがいた。
「…専務、M社との約束の時間が迫っておりますが…」
「30分ずらしてください」
間髪を入れず言う裕也専務の、無謀とも思える言葉に、星野さんは嫌な顔1つせず「かしこまりました」と頭を下げた。
奥にあるドアを開けると、そこが専務の執務室らしい。
高級そうな革張りのソファにどかっと腰掛け、口を開いた。
「ちょっと…想定外の事態になりました」