ぼんやり…専務に副業が見つかり、こうして同居することになった日々を思い出していた。
すると突然、激しい口調の英語が寝室から聞こえてきた。
「Do a job that matches your salary!!」
ハッとして、リビングの椅子から勢いよく立ち上がる…!
意味はよくわからないけど…多分給料に見合う仕事をしろ、みたいなことだよねぇ。
私にも聞かせるつもりで怒鳴ったんじゃないかと震える…
早朝のリモート会議は、出社前に自宅マンションで行われる事が多い。
デスクは寝室に置かれていて、ベッドはうまい具合に見えないよう配置されている。
流暢な英語を喋る専務の低い声が相変わらず聞こえて、時々声が大きくなるところを見ると、議論は白熱しているらしい。
…何を話しているのか、私には理解できないけど。
会議の間、私はリビングでこの後の専務の予定を確認したり調整したり、その他事務的な仕事をする。
あの後いろいろあって、私は今、裕也専務の専属秘書として働いている。
いろいろ…は後で振り返るとして、お昼ご飯をどうするか考えなければいけない時間になった。
…この分だと、ここでランチをしてから出社になりそう。
少し早いけど、準備に取り掛かることにした。
「わぁ…見事に卵しかない…」
冷蔵庫を開けて、口をあんぐりと開ける。
…朝食にスープを要求されて、さっき覗いたばかりの冷蔵庫。
卵しかないのはわかってるはずなのに、もう一度びっくりしてどうするんだ。
会議の間に買い物に行けば良かった…と思いついても、もう遅い。
「卵しかないなら、卵を食べれば、よし」
ここへ引っ越してくる前の一人暮らしを思い出す。
卵どころか、マヨネーズすら入ってない冷蔵庫だった。
パンは昨日焼いたロールパンがある。
そこで、ゆで卵を作ってみじん切りの玉ねぎと合わせて、たまごサンドを作ることにした。
そして玉ねぎを入れた卵スープ…って、これは朝作ったやつの使い回し…
専務に食べさせるには、あまりに質素なランチだなぁと思いながら、玉ねぎのみじん切りをはじめた。
「あー…疲れました…」
専務がネクタイを緩めながら寝室から出てきた。
そのままラグの上にあぐらをかいて座り込むので「あの…皺になりますし、埃も付きますから」と言って、リビングの椅子を勧める。
このマンションは1LDK。
2人で暮らすには少々狭い。
そして、ソファがない。
引っ越してきた時から、ダブルベッドはあったのに、ソファは置いてなかったのだ。
大人しくリビングの椅子に腰掛け、姿勢を崩してスマホを眺める専務。
その前にランチョンマットを敷いて、作りたてのたまごサンドと卵スープを出した。
「…朝のスープと同じですね?」
「あ…すみません。冷蔵庫に卵しかしかなくて…」
「買い物は下のコンシェルジュに頼めると言いましたよね?」
…聞きました。
聞きましたが、私は自分でスーパーに行って吟味して食材を買いたいタイプなのだ。
「今夜、帰りにスーパーに寄って帰るので、お車は専務お1人で…」
「それはダメだと言ったでしょう?」
2人でここに暮らしはじめて3週間。何度同じやりとりをしたでしょう…
専務は会社への行き帰りに専用車を使うので、専属秘書の私も乗るよう言われている。
それはありがたいことなのだけれど、イレギュラーは決して許されないらしい…
「いただきます」
あふれんばかりのたまごが顔を出すロールパンを口に運んだ専務。
溢れたたまごを気にすることなくモグモグしている。
「美味いですね、たまごサンド。…悔しいですが…ね?」
神経質そうに見えるのに、食べる時の専務はけっこう豪快。
量もたくさん食べてくれる。
私はスプーンを持って行って、溢れたたまごを見ている専務に渡す。
「…隠し味に梅干しが入ってます」
ちょっと自慢の種明かしだったのに、専務は片方の眉を上げ、上目遣いで睨んできた。
「…変な取り合わせはやめていただきたい」
「変じゃないです。美味しさをさらに引き立てるんですよ?」
一緒に暮らしはじめた当初は、専務は私に、料理をはじめとした家事をまったく求めなかった。
でも私は染み付いた貧乏性が抜けなくて、しばらくして自炊を始めた。
そこで、専務にお裾分けしたら…その日から食事の支度を契約に追加されたのだ。
私の料理が認められたみたいで嬉しくて、かなり張り切って料理をしたと思う。
「まぁ…料理は任せてるので、好きにやってください」
そこではじめて、私がテーブルの横に立ったままでいることに気づいたらしい。
「…なにをしているんですか?君もさっさと食べてしまいなさい」
「…あー…」
「…?」
「自分の分まで、パンはなかったので」
すでに3個目のロールパンをひとくち食べている専務。
作ってないと知った表情は、アホなんか?こいつ…と物語っている。
お皿に食べかけのたまごサンドを置いて…ズイ…っと私の方へよこす。
「残りは君が食べなさい。途中どこかに寄って、足りない分は買い足しましょう」
「え…いや、あの…」
「なんですか?…嫌だとは言わせませんが?」
ジッと私を見る専務の切れ長の目の中に、私をからかって楽しんでいる様子を見つける。
ちょっと悔しくなって、サッと専務の前に座り、食べかけのロールサンドを口に入れた。
ここに、専務の綺麗な唇が触れた…
間接キス…
…なんて思っちゃったら、顔から火が出るかと思うほど、一瞬で熱くなる。
専務はうっすら笑ってそんな私を楽しそうに見ていて…その表情は絶対サディスト。
意地悪して楽しんでるのがありありとわかる…!
意識しないようにパクパク食べて、味なんかわからないうちにお腹の中に落としてやった。
ニヤリと弧を描く口元と私を見下ろす視線。
そんな表情、同居し始めた時は何でもなく見返すことが出来たのに、今はとても無理…
お皿を洗いながら、私は同居生活が始まったばかりの頃を思い出していた。