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2章…第18話 Side.裕也

…寝不足だ。


完全な寝不足。


彼女が先に出かけてから、ベランダに出た。

タバコに火を付け、唇の端で咥える。


締めてもらったネクタイを見おろしてから…視線をあたりに彷徨わせた。


このマンションは低層で世帯数が少なく、ベランダに出ても周りの視線が気にならない作りになっている。


片瀬舞楽にはまだ知らせていないが…特に最上階のこの部屋は、室内の広さはないが、ベランダがかなり広い。


窓を開け放してしまえば、リビングに繋がって…人が来た時に重宝する、開放的な設計だ。


このマンション、実は俺も設計にかかわった。


SAIリゾートは今後、ホテル経営だけではなく、不動産業にも力を入れていく。

そのはじまりが、このマンションだった。





「しかし…初日から大の字で遠慮なく寝るとはね…」



昨夜の彼女には驚いた…

こっちが少々意識して寝付けなかったというのに、おやすみを言って1分で規則的な寝息を立てるんだから。



…咥えっ放しのタバコから灰がホロリと落ちる…


人差し指と親指でタバコをつまみ、紫煙を吐き出しながら、昨日飲んだビールの缶に捨てた。



あまりに眠れなくて、昨日ベッドから這い出し、冷蔵庫で冷えているビールを飲んだ。


そしてベランダで一服し、ベッドに戻ろうとして、タバコの匂いを気にしてマウスウォッシュをした。


そんな気遣いが久しぶりで…ふと胸が詰まる。


これ以上1人でいたら、また嫌なことを思い出すだろうと予想して、俺は意を決してダブルベッドに戻った。


足元を照らすフットライトをつけると、ベッドの真ん中でうつ伏せになっている片瀬舞楽。


初めて見たときから…可愛い顔をしていると思った。

好みのタイプだった?

…いや、そんなことはない。


でも、横顔が似てた。





「片瀬さん」


声をかけ、閉じた瞳を覗き込んでみる。

目を覚ます気配はない。

ちょっと頬をつついてみた。

…唇が突き出た…


「ふふ…おもちゃだな」


唇に触れたら、頬が膨らむのか?…


伸びた手を宙に浮かせて…途中で止める。

そのまま頭を撫でた。


「ん…」


反射的に仰向けになり、俺の寝る場所が空いたので、すかさず滑り込み、フットライトを消す。


やっとウトウトしたところで…足に柔らかいものが触れた…


それが何なのかはあえて考えず、寝たふりだ。




「俺は大木…」


人ですらない。樹木扱い…


吸い殻入りのビールの缶を持って部屋に入って思い出した。


今日のスーツがイケてないとか言ってたな。

その場で自分を見下ろし、ダークブラウンのスラックスが目に入る。



「寝不足で何も考えられん…」



ブルー系のネクタイとダークブラウンが合わないということか。

ならば濃紺のスーツに決まりだ。


着替えた頃、早井がエントランスに到着したという知らせが入った。









「裕也専務、おはようございます」


「おはよう。今日もよろしく頼む」


マンションのエントランスでは、専属ドライバーの早井が、専用車のドアを開けて待っていた。


後部座席に滑り込むと、シトラス系の香りに包まれてホッとする。



しかし、今日は頭が回らない。


あぁ…寝不足だ。




…まさか両親が、あのマンションを持っているとは思わなかった。そしてわざわざプレゼントしてくるとは。しかもあんな狭い部屋…試しているとしか考えられない。


片瀬舞楽があっさり同居を受け入れたことにも驚いた。


もし嫌がったら、解放してやろうと思っていたのに。

初めの約束になかったことだし、警戒するのが当然だから。


それなのに同じベッドで寝ることさえ、ろくに悩まずにOKするとは…

見た目に似合わず、遊び慣れているのかと、昨夜は少しだけ煽ってやったが。


あの熟睡ぶりから…どうもそうではなさそうだ。


でも…女はどんな風に変貌を遂げるかわからない。

忘れた頃に突然誘いをかけてくることだって考えられる。

…それなら美味しくいただくまで。もちろん、遊びに決まってる。



彼女の副業を知ったのは、クラブ「LUNA RUNE」のオーナーが、大学時代の友人、吉成健人だったからだ。


ホステスの履歴書を整理していて、うちの社員が紛れ込んでいることに気付いたらしい。


そこで確かめに行って驚いた。

吉成は彼女を見て何も思わなかったのか。

それにしては源氏名が同じ名前だったが…


何度か通って観察するうち、似ているのは横顔だけだとわかった。


仕草や笑顔、澄んだまなざし…それは完全に彼女だけのもの。


…だから、偽装婚約者の話を持ちかけたんだ。



計画を明かし、進める中でわかったのは、片瀬舞楽は正直で、責任感が強く真面目だということ。

…あぁ、だから同居を受け入れたのか。


あくまでも、俺と交わした契約を最優先に考えたから、迷いがなかったんだろう。


同じベッドで眠ることだって、偽装といえど、婚約者らしくしなければならないと思ったからかもしれない。


そんな責任感と正直さが災いして、意外なほど両親に気に入られてしまったが、明るい舞楽のおかげで、両親の嬉しそうな笑顔を久しぶりに見た。



可愛らしいが…いじめたくなる。

ここまで計画を進めてきて思う、片瀬舞楽への心境。


からかってみれば、あからさまにむくれて見せたり、大きな目を更に大きく見開いてみたり。



もし俺に妹がいたら、こんな感じなのかもしれない。


…そのくらいがちょうどいい。

女にハマるのは2度とごめんだ。



そういえば、マンションに来て、ちゃんと骨壺を出したのだろうか。遠慮せず手を合わせるよう、言ってやらなければならない。




「それから…寝る時は長袖長ズボンにしてもらわないと困るな…」



昨日はこっちも手足が出ていたから…毛布の中で触れあって困った。



「…はい?何かおっしゃいましたか?」


ひとりごとが聞こえ、律儀に声をかけてくる早井。何でもないと告げた頃、会社の正面玄関に到着した。




「おはようございます…キャッ…!」


「…おはよう」


…挨拶をしてくる女子社員の9割から聞こえる「キャッ」というのはなんだ?


そしてササっと走って行ってしまうが?



エレベーター前に到着すると、第一秘書の星野が待っていた。



「おはようございます。裕也専務」


「おはよう」


上層部のお偉いさんは、すでに上にあがったようだ。

星野と2人だけで乗り込み、エレベーターが上昇していく。


俺は星野の顔面を通り越し、パネルに手を伸ばした。


「秘書課…でしょうか?」


「…そうです」


「どういったご要件ですか?…後ほど私が参りますが」


「…いや、いい」



…俺は寝不足で、頭が回ってなかった。



秘書課へ向かって歩き出す俺の後ろを、星野も一歩遅れてついてくる。


秘書課のオフィスに足を踏み入れると、きゃあ…と女子社員の小さな悲鳴があちこちから聞こえて、ほとんどすべての社員が俺に注目しているのがわかる。


課長がすっ飛んできたが、別に彼に用があるわけではないので軽く手を挙げて制し、俺は彼女を探した。


…片瀬舞楽は、この前も至近距離にいた男性社員と肩を寄せ合って何か覗きこんでいる。


まだ始業前だ。

それは別にいいとして、この2人だけは、俺に注目していない…。



「片瀬さん」


声をかけると明らかに驚いて肩が上がる。


「は…はい…!お、おはようございます」


口を開こうとして、彼女の右手が、柳の手と触れ合っていることに気づいた。



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