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2章…第20話

「改めてよろしくね、片瀬さん!」


専務役員室をノックすると、星野さんが出てきて、中に招き入れてくれた。


「はい。よろしくお願いいたします」


星野さんは確か、裕也専務より少し年上のはずだ。

落ち着いた優しい表情と溢れる清潔感、そしてテキパキとした身のこなしは、できる秘書そのもの…!といった感じ。


「まず、この資料を入力してくれる?後で画面共有しながら解説するのに使うから」


「…はい。かしこまりました」


よくわからない数字が並ぶ資料…

時間がかかりそうだけど、大丈夫かな。


星野さんのデスクの隣にあるパソコンで入力作業に入ったものの…

心配は的中。



「えーっと…あとどのくらいで終わりそう?」


「は、はい…1時間もあれば何とか」


画面から目を離さなかったので、確かではないけど、明らかに目を見開いた星野さん。


「す、すいません。急ぎます…!」



結局、30分ほどで星野さんが交代すると言い出し、私は会議室の準備を任された。


行ってみるとそこには、成田さんをはじめとした、秘書課の数人が準備を始めている。


私を見て、あからさまに嫌な顔をされたけど、私も手伝わなければならない。


「…あなたは給湯室でお湯でも沸かして来て」


成田さんに言われ、奥へと引っ込む。


そこにはお茶菓子として、和菓子が準備されていたので、お湯を沸かしながら緑茶の用意をした。


その時だ。不意に成田さんが入ってきて、カッターナイフを取り出し、手にした箱をザクザクカットし始めた。


覗き込むと、洋菓子を出すのに、箱を切っているらしい。


「ちょっとあなた、邪魔よ!」


そんなに身を乗り出したつもりはないが、邪魔になってしまったかと、慌てて離れた。


「…イタッ!」


瞬間、頬に痛みが走り、思わず手をやると…

切れてしまったのか、血がついている。


「あらぁ…ごめんなさい。手が滑っちゃったかも…」


成田さんはチラッと私を見て、謝罪の言葉を口にしたけど…笑顔が不気味だ…


私はそこにあったティッシュを抜き取り、頬に当てる。

深い傷ではなさそうだけど、さすがに私だって女の子。

傷がどれほどのものか、気になる。



「…イタッ!」


すると今度は指先に痛みが走った。


「あぁっ!ほらっこんなとこに手を置いてたら、また切っちゃうわよ?」


カッターナイフを手に、もう切る必要のない洋菓子の箱を切りながら、私の指も傷つけたようだ。


さすがに恐ろしくなり、私は給湯室を出て星野さんのいる役員室へと向かう。


「…どうしたのっ?」


頬や指から血を流した私が突然入ってきて、星野さんが驚きの声を上げる。


「いえ…その、お茶菓子を出そうとして箱を切っていたら、間違えて指を切ってしまって…」


絆創膏の在り処を聞いて、とりあえず血を止めようとした。



「自分ではやりにくいだろう。貸してごらん」


星野さんはちゃんと消毒をして絆創膏を貼ってくれたけど…私は花苗花壇の面々がいつやってくるかと気が気ではなかった。


「後でちゃんとやるので、適当でいいです…」


「ダメだよ。…女の子が顔に傷を作って…いったいどんな箱の切り方をしたの…」


「はぁ…すみません…」


…成田さんのことは、なんとなく言えなかった。


鏡を覗くと、頬骨のあたりに貼られた絆創膏が恥ずかしくて…マスクをしようかと迷う。


すると裕也専務が入ってきて、私は慌ててお辞儀をした。



「…なにごとですか?」


裕也専務が私に気づき、顔を見てすぐ異変に気づかれてしまう。


そして伸びてきた指先で、頬の絆創膏に触れたので、私は思わず手を出してしまった。


「指まで…?」


右手と左手を確認され、隠しようがない。


「はい…ちょっとした、ミステイクです…」


裕也専務は私をジッと見下ろすと、意味深に眉を寄せた。


「…星野さん、必要なら、彼女を病院へ」


「いえいえ…そんな!大袈裟です!」


慌てて大丈夫アピールをして、私は、会議室に戻った。






会議室にはもう成田さんをはじめとした秘書課の面々はいなくなっていた。 


星野さんに言われて、一緒に資料を一部ずつ席に置き、最終チェックをして…やっとお役御免となった。



「片瀬さんさ…入力作業苦手なら、これからちょっと練習してみる?」


星野さんは、自分が付き合う、と言ってくれた。


「え?私に…ですか?」


あまりに優しくて意外な提案をしてくれたので、恐縮する…。


「うん。今朝、裕也専務が直接君に手伝いを言いつけたから、もしかしたら期待されてるんじゃないの?」


…それはないない…!と、大きく手を振りたくなったが、そんなふざけた仕草をするわけにはいかない。


「いえ、期待だなんて、あの…」


「傷を心配したりさ…あんな裕也専務、初めて見たんだよね」


…それは偽装婚約者だからで!

気づかるのではないか…と、少し焦る。



「いえ、私があまりに働かないせいだと思います。同期の中で、いまだに第2秘書も務められないのは私だけですし、さすがにコピー取りとお茶くみだけでは、給料泥棒に当たるからと!それで、今日はきっと直々に指示を出されたのではないかと思います…!」


「…そうなんだ」


あんまり納得していない顔で頷かれ、いつの間にか入力の練習だけは約束させられて、私は解放された。




…その夜、先に帰宅した私は、キッチンを使っていいものか迷ったので、コンビニで買ったお惣菜とおにぎりで夕飯を済ませた。


裕也専務の帰りは遅く、どうしようかと悩みながら…シャワーだけ先に使わせてもらうことにする。


髪を拭いていると、バタン…と、玄関のドアが閉まった音がした。


洗面室は玄関のすぐ脇にある。


そこにいた私は、ヒョイと顔を出して「お帰りなさい」と声をかけた。


「…………あぁ」


立ち尽くす裕也専務。何だか様子が変だ。


「どうかしました…」


一歩近づいてみると、お酒とタバコと甘い香水の香りをまとっていることに気付いた。


見ると、目のふちがほんのり赤くなっている。


…裕也専務、酔ってます?



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