目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報

2章…第25話

専属秘書という辞令が下りた3日後、すべての荷物を専務役員室に移動することになった。



「舞楽…しっかり頑張るんだよ!恋も仕事もね!」


「なに…『恋も』って…?」


聞き返したけど、意味深な笑顔を向けるだけの柳くん。


同時に、遠巻きに鋭い視線が向けられていることに気づく。


あからさまに不機嫌なため息。

でも…以前のような攻撃は、あれから1度も起きていない。


秘書課の先輩方は、成田さんはじめ気の強い美人が多くて、ある意味覚悟していたけれど…意外なことに皆さんおとなしかった。


こうして何事もなく秘書課を出られるとは。





「2年間、お世話になりました!」


…挨拶は大事だ!


ガバッと頭を下げた私を、拍手で送ってくれたのは、課長と柳くん、そして数名の男性社員。


謝罪されない代わりに意地悪もないけど…最後は無視されて終わりか…


私は柳くんに手を振り、段ボールを抱えて専務役員室へ向かいながら、そう思っていた。




「ようこそ舞楽ちゃん!」


専務役員室では、第一秘書の星野陸斗さんが両腕を開いて待っていてくれた。


「星野さん、親戚の子を迎えるわけじゃないので」


壁に軽く寄りかかりながら、腕を組む裕也専務。



「あの…今日から、よろしくお願いします」


昨日、寝る前にもベッドの上で言ったこと。



「あぁ…そう何度も言わなくてもいいですよ」


「え〜…そんなに何回も言われてるんですか?専務、何をお願いされてるんだか…!」


わかりやすいチャチャを入れる星野さんに、裕也専務がこれまたわかりやすくうんざりして見せる。



「社内で星野さんだけは、我々のことをすべて知ってますから」


しかも裕也専務の従兄弟だというので驚いた。



「片瀬さんには俺の専属秘書になってもらうので、星野さんから仕事を引き継いでください」


裕也専務に言われ、星野さんは早速私に、業務について説明してくれた。



「裕也専務は、分刻みでスケジュールが決まっています。その中にはもちろん、時間通りにいかないことやキャンセルもあるので…予定は刻々と更新されていると考えてください」


「か…かしこまりました」


「…早速ですが、これから専務は、取引先との会議があります。その後の会食も…裕也専務に同行してもらえますか」


「っは!早速同行ですね?!」


スケジュール管理のためのタブレットを渡される。

執務室から裕也専務が現れ、その後に続こうとして…


「あ、舞楽ちゃん…ちょっと待って」


「ハイ…?」


星野さんに呼び止められ、裕也専務も振り向いて、一緒に足を止めた。



「髪は、まとめた方がいいよ」


どこから取り出したのか、星野さんは黒いバレッタを使って、慣れた手つきで私の長い髪をまとめてくれた。


「それから、リップもちゃんと塗ってね」


これまたどこから出したのか、メイクパレットを出して、小指にボルドー色の口紅を取って…


「星野さん…」


「…何か?」


裕也専務が咎めるような口調で星野さんを呼んだけど、星野さんは知らん顔で、小指を私の唇に乗せた。


「…可愛いなぁ…」


どこを見たらいいかわからなくて、唇にポンポンと口紅を乗せる星野さんを見つめてしまう。



「…ほら?どうです?裕也専務」


口紅をつけ終えて、くるりと専務の方に向けられ、思わずその顔を見上げてしまった。



「…はい。可愛いです」


抑揚なく、笑顔もなく言われ、思わずガックリ肩を落とす私…

いやいや、何を期待してたんだろう。


可愛いとか言うと思った?

…顔を赤くするとでも?

そんなわけない。

ここは仕事場で、裕也専務は上司なんだから…



星野さんに見送られて役員室を出て、エレベーターに乗る。


なんとなく気まずくて、手元のタブレットを操作していると…


大きな手が伸びてきたことに気づくのが、一瞬遅れた。




「…赤すぎません?」


頬に添えられた指先と、唇をなぞる親指…思わず見上げると、さっきとは全然違う、熱を孕んだ目つきに心臓が暴れる…。


わずかに、裕也専務が屈んだ気がした、その瞬間…

エレベーターの扉が開いて、2人だけの密室が解かれた。




会議は無事に終わり、会食は相手企業のご提案で、都内の料亭へと向かうことになった。


この会食で今日の予定はすべて終わりとなる。

本来なら翌日の予定を伝えて、私は退勤してもいいところだけど…

星野さんに同行するよう言われている。



「そんなに長くならないので、待っていてください」


早井さんに聞かれないように、そっと耳元で囁かれて、唇が耳に触れた感触にドキンとした…。



「わかりました」


小さく返事をするだけで精一杯…


車から降りた裕也専務に腰を折って頭を下げたあと、その場にヘナヘナと崩れ落ちそうになった。




「裕也専務と…お付き合いされているんですか?」



私にも缶コーヒーを買ってきてくれた早井さん。待機する車の中で、あっさり尋ねられてしまった…



「ままままま…まさか…!アハハ、そんなまさかのまさか!ですっ!ハイ!」


怪しい返事をする私を、早井さんは優しい笑顔で見つめ返し、それ以上は聞かないでくれた。



「はい…お疲れさんです…」


1時間ほどして、早井さんが後部座席のドアを開けたので、私も一緒に下りて裕也専務を迎えた。


車に乗り込むと、ふぅ…と深く息をつく裕也専務。


そっと覗き込んだ横顔に、疲れが見て取れる。



「…マンション近くのコンビニで、停めてもらえますか」


早井さんは「かしこまりました」と言って、わずか5分後には車を停めてしまった。


マンション、こんなに近かったのかと、今更知る…。





「ちょっと甘いものを買って帰りますよ」


上質なスリーピースとロングコートをまとった長身の男性が…コンビニのスイーツコーナーに立つ姿は、嫌でも目立つ。



「生クリームわらび餅とイチゴ大福、どっちがいいですか?」


こてん…と首を傾げて私を見下ろす裕也専務。


その姿は…ドーベルマンやシェパードといった精悍な大型犬が、ニコッと笑った時のように可愛らしい…


いや、犬は笑わないけど…!


それより…私にどちらがいいか、聞いてくれるんだ…?


それが嬉しくて、首をかしげた裕也専務が可愛くて、私は思いっきり笑顔になってしまう。




「…豆大福がいいです!」


笑顔で豆大福を渡す私の手から、裕也専務はうまく受け取れなくて、床に落としてしまった。


なぜか、私を見つめたまま固まってる…。


しまった…!本当の自分の好みなんて言うべきじゃなかったかも?


「あの。裕也専務、やっぱり…」


「…どっちがいいかって聞いてるのに、別物を出してくるとは…日本語が通じませんか?」


「す、すいません…」


落ちた豆大福を拾って手の中に隠した。すると私の手からスルリと豆大福をもぎ取る裕也専務。




「…これは、俺が食べるからいいです」


豆大福をもうひとつ、そして手にしたイチゴ大福とわらび餅もすべて買って、私達はコンビニを後にした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?