「…はぁ?」
…慣れないことはするもんじゃない。
鍋の中でグツグツいってる2人分のクリームシチューらしきものを見おろして、ため息をついた。
『帰りは少し遅くなるかもしれません。でも必ず帰るので心配しないでください』
たった今届いた舞楽からのメッセージ。
若者らしく遊んでるのか?
両親の借金もなくなって、羽目を外したくなったとか。
「真面目そうな子に見えたけどな。女はやっぱり…」
言いかけて、やめた。
陸斗に、舞楽を信用していないと言ったけれど、本当はあの時から願っていた。
思った通りの子であってほしいと。
その願いは、叶えられた。
俺の役に立ちたいと、世話を焼きたいと言って、赤い顔で頭を下げた舞楽。
彼女は…まっすぐで偽りのない子だ。
「自分のことは、棚に上げて…だな」
自分の中に渦巻く気持ちを抑えきれなくなっていた。
あくまで偽装関係、契約なのだと言ってきたくせに。
真奈を好きだったことを打ち明けたのは、告白するより先に、伝えなければならないと思ったから。
…話す前に、眠ってしまったが。
もう一度、信じてみたいと思わせる何かが、舞楽にはあった。
反面…それがまやかしだったと思うようなことがあれば、俺は再び奈落の底に突き落とされる。
そんな恐怖は消し切れない。
真奈に似ていたから惹かれたのか…?自問自答の答えはとっくに出ている。気づけは舞楽に触れたくて…他の誰にも触れてほしくないと思っている自分がいる。
水加減がよろしくなくて、少し硬めに炊き上がったご飯にシチューをぶちまけて、冷えたビールと共に夕飯にした。
舞楽が帰ってきたら、生ハムとチーズの盛り合わせをつまみにシャンパンを開けようと思っていたが…
明日に持ち越しだ。
…朝からどこに行って、帰りが遅くなる理由は何なのか。
実は気になって仕方がない。
妙にくすぐったく感じる気持ちを、俺はビールごと飲み込むように、缶を煽った。
…………
リビングのラグの上。
クッションを枕にして眠ってしまったらしい。
シャワーを浴びて、髪をよく乾かさなかったからか、少しだけゾクリとした。
舞楽は…どうした?
寝室を覗きに行こうとして、カチャン…という玄関ドアの音に気づく。
今帰ったのか…?
瞬間覗いた寝室に、舞楽の姿はない。
嘘だろ。
カーテンの向こうは明るいが…
…朝帰りか?
「…うわっ!」
「…っっ?!」
リビングのドアが開いて、短い髪の妙に洗練された女が入ってきて驚いた…!
「お、遅くなってすみません。あの…いろいろあって…こんな時間になってしまって…」
「…舞楽かっ?!」
はい…と、消え入りそうな声。
「髪はどうした?…服は?メイクは?…っ」
いつもと違う。全然違う…!
言わなかったけど匂いも違う。
花のような…甘い匂い…
「い、イメチェンしました…髪を切って、服の感じも変えて、メイクもちゃんとして」
驚いた…
こんなに変わるものなのか…
もともと可愛らしいが、純朴…という言葉がハマっていた、野暮ったさがどこにもない。
「…首が…」
「…え?」
「綺麗だ…細くて」
瞬間、そんな綺麗なものをずっと晒すな…とむちゃくちゃなことを思う。
赤い顔で嬉しそうに笑ったのを、俺は見逃さなかった。
その笑顔は紛れもなく…舞楽だ。
朝帰りに対する嫌味を言うのも忘れて…俺はひたすら彼女を見つめてしまった。
そして自分の早鐘のような心臓の音に気づく。
「…目が、赤い」
穴が開くほど見つめて気づいた。
寝不足のような目…
「…あぁっ!あの…シャワーして、少し寝てもいいでしょうか…」
言いながら、ガラステーブルの昨夜の残骸に気づいたようだ。
「あ、あぁ…休みなんだから、いくらでも寝れば」
慌てて放置した皿とビールの空き缶を自分で片付けようとしたが…
「あの…私がやります。…昨日は1日家事をしなかったので」
不意に近づいてきて、皿に伸ばした指が触れた。
…そんなことで心臓がドキン…っと高鳴って、自分でも焦る…
「いいから、君は先に…」
シャワーに行きなさい…と言おうとして、至近距離で舞楽を見た。
そして今度は、急速に体温が下がったのを感じる。
さっきは見えなかった。
肩に近い首に、噛まれたような赤い跡。
…これは、キスマーク?
しかも、かなり激しい…?
上がったり下がったり忙しい自分自身の内心を必死に隠し…俺は皿を舞楽から奪って、彼女をバスルームに行かせる。
食器とコップとスプーン。
たったそれだけで、食洗機を使うのはもったいないと言う舞楽。
でも俺は使ってやる…
そして…脈略もなく、嫌な記憶が蘇る。
好きな女を別の男に奪われた記憶…
実はなかなか帰ってこない舞楽を気にして…ベッドに横になるのが遅れたのは、本当の話。
「だから俺も眠いんです…」
シャワーを終えた舞楽に、昨日のシチューを食べさせる余裕はなくなっていた。
そっとベッドに入ってきた舞楽。
石鹸の香り、彼女のぬくもり…さっきの、赤い噛み跡…
どこに泊まった…?
誰と一緒にいた…?
俺の知らない誰かなのか…?
頭に浮かぶのは、聖…それから柳…
振り払って深呼吸をしても、焦燥感のようなものは消えない。
問い詰めたい気持ちは、自分で思っているよりずっと強力だ。
隣に横たわる舞楽に意識が向いて、ジリジリする思いを持て余す…
「あの…裕也専務…」
…ハッとした。
何か言おうとした舞楽の声が、俺に最後のスイッチを入れる。
無意識に体が動いて…両手の自由を奪い…彼女を組み敷いていた。
見開いた舞楽の瞳に映る俺は、どんなふうに見えているのか…少しだけ気になった。