今年も桜はあっという間に散ってしまった。
その頃には季節外れなほど暖かい日があって、今夜もそんな日だと、仕事を終えた聖と歩きながら思った。
「どういう心境の変化?髪…そんなに切って、服も変えちゃって」
聖は黒い上下のワイシャツとスラックス姿。
バーでは長い前掛けをしていたけど、それを外しただけで帰れるなんて楽でいいな。
「変身したかったの…」
聖には、裕也専務に抱き始めた淡い恋心を打ち明けていない。
正確には美波にも言ってないけど、彼女のことだから気づいてる。多分。
「それにしても、変わりすぎだろ。…真夏と真冬が1日で入れ替わる、最近の天候並みに変わりすぎだ」
「…言い方!」
笑ってその腕をパチンと叩くけど、聖は妙に真剣な顔。
…どこへ行くつもりなのかな。
タクシーに乗せられ、行き先を告げる住所が、聖のマンションだとわかった。
…帰したくないって言ってたけど…
「聖、泊まるのは無理だよ。一応、契約関係でも偽装でも、婚約者ってことになってるし…」
「なんで?…家族みたいなもんだから、会えることになってるんだろ?」
「そう…だけど」
聖のマンションには、確かに何度か泊まったことがある。
両親が突然亡くなって精神的に不安定になったとき、聖の部屋でご飯を食べさせてもらって、ベッドの横に布団を敷いてもらって寝た。
もちろん色っぽい雰囲気なんて皆無。
この時も、まったく同じ感覚で。
いや…聖のマンションに足を踏み入れることに、私は特別な意識を抱いた事はない。
でもこの日は…玄関に入ったとたん、聖が泣きそうな顔で詰め寄ってきたんだ。
「なんちゃら専務のために、そんなに自分を変えて何になるんだよ?」
なんだかいつもの聖とは違う…
私は、胸のうちを明かすことにした。
「私…裕也専務のこと好きになっちゃったんだよ…」
「…は?」
「身のほど知らずだと思うけど…契約関係で偽装関係で、嘘で塗り固められた関係だけど…」
全部言い終わらないうちに、私は聖に抱きしめられた。
「ちょ…聖?!っ」
小さい頃から、ぶら下がっていた聖の腕は、意外なほどしっかりしてて…焦る。
「…俺は子供の頃から変わらない、そのままの舞楽がずっと好きだった」
初めて見る聖の切ない表情は、「好き」の種類が女性に対するものだと語ってる。
それは、さすがの私でもわかった。
告白に呆然としていると、抱きしめる腕の力が緩んだ。
…そして傾けた顔が近づいて、素早く唇を奪われてしまう。
それは、余裕のない性急なキスで…食べられそうなほど強く舌を絡めとられた。
嫌でも思い知る…聖は兄じゃなくて、男性だと。
そして私も…女なんだと。
一瞬の隙に声をあげる。
「ま…待って!聖、待って!私…こんな…聖っ!」
唇は首筋を這い、止まらない。
そのうち肩に近い部分に痛みが走った。
…痛いっ!と声をあげて、ようやく聖が唇を離してくれた。
「ごめん…舞楽、俺…」
「わ、私こそ…ごめん…」
いろんなごめんの気持ちがあった…
聖の気持ちに気付かなかったごめん。大人になってからも甘えすぎてごめん。そして…今ちょっと、聖を怖く思う…ごめん。
「…今日は、帰るね」
止められる前に玄関を出て、めちゃくちゃに走った。
苦しくても、ずっと走った。
…聖は、追いかけて来ない。
電車に乗って最寄り駅に降り立ち、ふと辺りを見渡した先に、カフェがあって吸い込まれた。
カフェオレをテーブルに置いて、つい今しがたの出来事を思い出す。
聖に、女性として見られ、気持ちを寄せられていたなんて。
甘やかしてもらってる自覚はあったけど、それは小さい子供に対するものと大差ないと思っていた。
それに聖ほどカッコいい人なら、当然恋人がいると思ってた。
でも、そういえば聖に、彼女の話を聞いたことがない。
それは…私を、好きだったから?
自分の鈍感さを心底呪った。
私は知らぬ間に、どれほど聖を傷つけていたんだろう。
後悔と謝罪を取り留めなく考えて過ごせば、やがて目の前のカフェオレは冷めて膜をはり、気付けば夜が明けていた。
「美波にも彼氏がいるし、私1人、子供だったんだなぁ…」
明るくなった道を歩いて、裕也専務が眠っているであろうマンションに向かって歩く。
連絡もしないで外泊して、裕也専務は怒ってるだろうか…
向こうからも連絡はなかったところを見ると、1人で伸び伸びしていたかな。
どちらにしても、あっと驚く恐ろしい罰が待っているかもしれない。
心して、帰らなければ…
…そっと玄関ドアを開けて、上から何も落ちて来ないことを確認しつつ中に入る。
廊下の先に見えるリビングは暗い。
裕也専務は寝室だろう。
足音を忍ばせてリビングに入って驚いた…!
裕也専務がその場に立ち尽くしてる。
そして驚いた顔で私を見ていることに気付いて…そうだ、イメチェンしたんだ、と思い出した。
その反応は、思っていた以上に早く、そして強かった。
じっと見つめられて、「首が綺麗」だなんて言う。
まさかと思うところを褒められて嬉しくて、頬に熱が集まるのを止められない。
私が、舞楽だと…裕也専務がちゃんと見てくれたことに、胸が高鳴る。
それは、自分の恋心を再確認したようで、ちょっとくすぐったい。
ごめん。聖…
私にとってあなたは、家族であり、実の兄みたいな存在だ。
大好きだし愛しいし、大切な人だけど、裕也専務に向く気持ちとは違う。
シャワーをしてベッドで一緒に眠ることになり…毎夜のことなのに、今日は特にドキドキする。
カーテンを引いた向こうが明るくて、朝寝の背徳感もあるのかもしれない。
いつも以上に胸を高鳴らせ、裕也専務の隣に横たわりながら、
「あの…裕也専務」
外泊したことを一言謝罪しようと思った。
でも次の瞬間、私の上にのしかかって、手首の自由を奪われるって…
どういうこと…?