「ご…ごきげんよう…」
とっさに何を言えばいいか迷って…間近に迫ってくる人に合わせるような挨拶の言葉が、口をついて出た。
「ごきげんよう。私は吉成真奈。裕也と吉成とは、大学の同期なの!」
いきなり情報を明かされて、へぇ…としか言えない。
「真奈ー!いきなり出迎えてそんなこと言わない!とりあえずこっちにおいで」
吉成さんがリビングのドアから声をかけてきたけれど…裕也専務はその隣でワインを飲んでいるだけ…。
えーっと…私がここに帰ってきた理由は、偽装のアレってヤツでいいんでしょうか…
真奈さんに手を取られてリビングに連行され「ただいま帰りました」と、小さく言う。
「あ…こっち座って」
裕也専務に促され、すぐ隣に腰を下ろした。
「婚約者の片瀬舞楽ちゃんです」
ギュッと肩を抱き、真奈さんに向かって真顔で言う裕也専務。
「裕也の婚約者?…先に一緒に暮らしてるなんて…」
裕也専務を挟んだその隣にいる真奈さん。
「真奈は聞いてないぞぅ…?!」
ぷぅ…っと頬を膨らませ、裕也専務のシャツの袖を引っ張る仕草は、ひどく甘えているように見える。
「…別に、許しを得る必要ないでしょう」
意外にも、突き放すような態度の裕也専務。
引っ張られた方の腕を動かして、テーブルの上のワインを手に取った。
「そんな風に言わないでよぉ…
健人、今日の裕也、ちょっと冷たいのよ?」
「…それは、君が仕事中いきなり会いに行くからでしょ?」
吉成さんは頬を膨らませた妻に、子供に言い聞かせるように言う。
…また裕也専務のシャツに手をかけた。
「真奈は昔から、裕也のこと大好きだったもんなぁ…」
吉成さんは視線も向けずにひとりごとを言うけど…妻が裕也専務に触れていること…気づいてるんだろうか。
昔から好きだったって…大学時代から、ということなのかな。
そこで思い出した。
…寝室で拾った真奈さんの写真、服装や写真におさまる仕草が可愛らしかったこと。
あれは大学時代の真奈さんだったんだ…うん。多分そう…。
親しくしていたのなら、写真を持っていても不思議はない…
でもそれって、友人として、なのかな?
振り払うように腕を動かすのに、気づけばまた、真奈さんの指がシャツに触れてる…
…沸き起こるいろんな疑問を、私は慌ててかき消した。
私には、関係のないことなんだ。
今は婚約者として紹介されてるけど、それは偽装の関係。
ただニコニコ笑って、それらしい素振りをしていればいい…
「…あの、少しおつまみ作りましょうか?」
改めて見れば、テーブルの上に並んだデリカはほとんど空っぽだ。
私は隣に座る裕也専務に笑いかけ、返事を待たずに席を立つ。
…キッチンにいたほうが、私らしい。
私に、相応しい。
冷蔵庫の中を見て、適当に作った3品のおつまみ。
テーブルに出して、真奈さんが意外そうな顔になった。
「あれぇ?裕也は…唐辛子系の辛いものは苦手よ?」
「…え?」
そういえば、辛いものを作って出すのは初めてだ。
真奈さんの悪意のない笑顔が、私をとらえて離さない…
「すみません…あの…」
「…嫌いじゃない」
下げようとしたお皿を、裕也専務が取り上げる。
「…へ?無理しないでいいですよ…」
「無理なんかしてない…」
そう言って、私の手からフォークを奪い、お皿ごと抱えて食べ始めた。
ひとりじめするかのように、パクパク食べて、時々ワインをがぶ飲みして。…結局1人で全部食べてしまった。
顔がちょっと赤くなってる…
多分辛さから来る赤味だと思い、私はグラスにお水を注いで持ってこようとして…
裕也専務の額の汗を、薄いピンク色のハンカチで、真奈さんが拭いてあげようとしているのが目に入った。
…一瞬ドキッとした。
隣に夫がいるのに、別の男性にしてあげることじゃないと思う。
吉成さんは何も言わないけど、一連のことを、ちゃんと目の端でとらえているのはわかった。
真奈さんの手が額に触れる直前、裕也専務は立ち上がって、キッチンで動けなくなっている私に近づいてくる。
「…ハンカチ」
「あ、はい」
真奈さんのハンカチは使わないんだ…
私はスカートのポケットに入れてあるハンカチを渡そうとして…ちょっとだけ迷った。
「早く」
出したハンカチを奪い、一瞬見て思い出し笑い。
そして、思いがけないことを言われて固まった。
「…ハンカチ、あったかい」
…その柄は野菜柄。
札束をくるんで散々笑われた、あのハンカチだ。
あったかい…というのは、スカートのポケットに入れていたので、体温であったかくなっている…と言いたかったんだと思う。
でも皆がいるのにその言い方は、ちょっと妖艶で焦る…
…いや、皆がいるもいないも関係ない。
私は、偽装の婚約者で、恋人のフリをしているだけなんだから…
…私が作ったおつまみも、そろそろなくなってきた。
「…それじゃそろそろ帰るか」
そう言って吉成さんが立ち上がりかけたとき、携帯の着信が鳴り始めた。
吉成さんの携帯らしい。
裕也専務が気を利かせて、ベランダの窓を開け、外に出られるようにした。
吉成さんは携帯の相手に対応しながら、裕也専務に目でお礼をしてベランダに出る。
「…ごめんなさい、舞楽さん…お茶を1杯だけいただけないかしら?」
真奈さんに言われ、気づかなかった自分を恥じた。
「もちろんです!…ちょっとお待ちくださいね」
…立ち上がろうと下を向いたとき、見てしまった。
真奈さんの手が、裕也専務の左手を握るのを。
見なかったことにしてキッチンに行ったけど、対面型のキッチンから、リビングは丸見えだとわかってるのだろうか…
手を握られた裕也専務は、真奈さんを咎めるように見ていたけど、その目は見たことないほど…切なそうだった。