目次
ブックマーク
応援する
7
コメント
シェア
通報

2章…第41話

「ご…ごきげんよう…」


とっさに何を言えばいいか迷って…間近に迫ってくる人に合わせるような挨拶の言葉が、口をついて出た。



「ごきげんよう。私は吉成真奈。裕也と吉成とは、大学の同期なの!」


いきなり情報を明かされて、へぇ…としか言えない。



「真奈ー!いきなり出迎えてそんなこと言わない!とりあえずこっちにおいで」


吉成さんがリビングのドアから声をかけてきたけれど…裕也専務はその隣でワインを飲んでいるだけ…。


えーっと…私がここに帰ってきた理由は、偽装のアレってヤツでいいんでしょうか…


真奈さんに手を取られてリビングに連行され「ただいま帰りました」と、小さく言う。



「あ…こっち座って」


裕也専務に促され、すぐ隣に腰を下ろした。



「婚約者の片瀬舞楽ちゃんです」


ギュッと肩を抱き、真奈さんに向かって真顔で言う裕也専務。



「裕也の婚約者?…先に一緒に暮らしてるなんて…」


裕也専務を挟んだその隣にいる真奈さん。



「真奈は聞いてないぞぅ…?!」


ぷぅ…っと頬を膨らませ、裕也専務のシャツの袖を引っ張る仕草は、ひどく甘えているように見える。



「…別に、許しを得る必要ないでしょう」


意外にも、突き放すような態度の裕也専務。

引っ張られた方の腕を動かして、テーブルの上のワインを手に取った。



「そんな風に言わないでよぉ…

健人、今日の裕也、ちょっと冷たいのよ?」


「…それは、君が仕事中いきなり会いに行くからでしょ?」


吉成さんは頬を膨らませた妻に、子供に言い聞かせるように言う。


…また裕也専務のシャツに手をかけた。



「真奈は昔から、裕也のこと大好きだったもんなぁ…」


吉成さんは視線も向けずにひとりごとを言うけど…妻が裕也専務に触れていること…気づいてるんだろうか。




昔から好きだったって…大学時代から、ということなのかな。



そこで思い出した。


…寝室で拾った真奈さんの写真、服装や写真におさまる仕草が可愛らしかったこと。


あれは大学時代の真奈さんだったんだ…うん。多分そう…。


親しくしていたのなら、写真を持っていても不思議はない…


でもそれって、友人として、なのかな?



振り払うように腕を動かすのに、気づけばまた、真奈さんの指がシャツに触れてる…



…沸き起こるいろんな疑問を、私は慌ててかき消した。



私には、関係のないことなんだ。

今は婚約者として紹介されてるけど、それは偽装の関係。


ただニコニコ笑って、それらしい素振りをしていればいい…



「…あの、少しおつまみ作りましょうか?」


改めて見れば、テーブルの上に並んだデリカはほとんど空っぽだ。


私は隣に座る裕也専務に笑いかけ、返事を待たずに席を立つ。


…キッチンにいたほうが、私らしい。

私に、相応しい。


冷蔵庫の中を見て、適当に作った3品のおつまみ。

テーブルに出して、真奈さんが意外そうな顔になった。



「あれぇ?裕也は…唐辛子系の辛いものは苦手よ?」


「…え?」


そういえば、辛いものを作って出すのは初めてだ。


真奈さんの悪意のない笑顔が、私をとらえて離さない…



「すみません…あの…」


「…嫌いじゃない」


下げようとしたお皿を、裕也専務が取り上げる。



「…へ?無理しないでいいですよ…」


「無理なんかしてない…」


そう言って、私の手からフォークを奪い、お皿ごと抱えて食べ始めた。


ひとりじめするかのように、パクパク食べて、時々ワインをがぶ飲みして。…結局1人で全部食べてしまった。


顔がちょっと赤くなってる…

多分辛さから来る赤味だと思い、私はグラスにお水を注いで持ってこようとして…


裕也専務の額の汗を、薄いピンク色のハンカチで、真奈さんが拭いてあげようとしているのが目に入った。


…一瞬ドキッとした。


隣に夫がいるのに、別の男性にしてあげることじゃないと思う。


吉成さんは何も言わないけど、一連のことを、ちゃんと目の端でとらえているのはわかった。


真奈さんの手が額に触れる直前、裕也専務は立ち上がって、キッチンで動けなくなっている私に近づいてくる。


「…ハンカチ」


「あ、はい」


真奈さんのハンカチは使わないんだ…


私はスカートのポケットに入れてあるハンカチを渡そうとして…ちょっとだけ迷った。


「早く」


出したハンカチを奪い、一瞬見て思い出し笑い。


そして、思いがけないことを言われて固まった。


「…ハンカチ、あったかい」


…その柄は野菜柄。

札束をくるんで散々笑われた、あのハンカチだ。


あったかい…というのは、スカートのポケットに入れていたので、体温であったかくなっている…と言いたかったんだと思う。


でも皆がいるのにその言い方は、ちょっと妖艶で焦る…


…いや、皆がいるもいないも関係ない。

私は、偽装の婚約者で、恋人のフリをしているだけなんだから…





…私が作ったおつまみも、そろそろなくなってきた。


「…それじゃそろそろ帰るか」


そう言って吉成さんが立ち上がりかけたとき、携帯の着信が鳴り始めた。


吉成さんの携帯らしい。


裕也専務が気を利かせて、ベランダの窓を開け、外に出られるようにした。


吉成さんは携帯の相手に対応しながら、裕也専務に目でお礼をしてベランダに出る。



「…ごめんなさい、舞楽さん…お茶を1杯だけいただけないかしら?」


真奈さんに言われ、気づかなかった自分を恥じた。


「もちろんです!…ちょっとお待ちくださいね」


…立ち上がろうと下を向いたとき、見てしまった。


真奈さんの手が、裕也専務の左手を握るのを。


見なかったことにしてキッチンに行ったけど、対面型のキッチンから、リビングは丸見えだとわかってるのだろうか…


手を握られた裕也専務は、真奈さんを咎めるように見ていたけど、その目は見たことないほど…切なそうだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?