裕也専務のそんな表情は、長くは続かず、握られた手を振りほどいているのも見えた。
真奈さんの方も、お茶を飲んで吉成さんと帰っていき、特に変わったところはない。
2人を見ていて思った。
真奈さんのことを好きだったという裕也専務。
その思いは、一方的な、ほのかなものだったとは思えないと。
2人は過去、付き合っていたとみるのが自然だ。
その後別れて…真奈さんは吉成さんと結婚した…?
今日垣間見た真奈さんの仕草や口調、視線は、私に裕也専務との関係を匂わせたいという意図を感じた。
なぜ…?
裕也専務が、私を婚約者として紹介したから?
ヤキモチ?嫉妬…?
夫が隣にいて、そんな感情を表すかな…
でも、わずかな間に見せた、あの切なそうな表情の裕也専務が、私にあることを決意させた。
「あの…そろそろ夜暑くて、私はリビングで寝ようと思うのですが…」
裕也専務は、今も真奈さんのことが好き………
他の人を思う裕也専務と、同じベッドで眠ることに、罪悪感のようなものを感じる。
それに…
イメチェンしたとしても、私は真奈さんに似ている。…身代わりのように思われるのは、嫌だった。
「…エアコン、かければいいじゃないですか」
「体が極貧仕様なので、真夏以外にエアコンにあたると、確実に風邪引くんですよ」
「…布団は?」
「このラグで!あとクッションもありますし!」
難しい顔で佇む裕也専務にお風呂をすすめ、珍しく攻める言葉が見つからなかったのか、おとなしく入ってくれた。
交代でお風呂に入り、髪を乾かして戻ると、裕也専務はまだリビングにいた。
ほのかにタバコの匂いがする…
リビングで一服してたのかな。
ラグの上で横向きに寝転がり、テレビを見ている裕也専務に言う。
「それでは、おやすみなさ…あれ?」
声をかけてこちらを向いた裕也専務を見て、その違和感に気づいた。
「メガネ…かけるんですか?」
「かけますよ。ずっとコンタクトだったんですが、誰かさんのせいで目が赤くなることが多くて…辛いんですよね」
細いシルバーの縁のあるメガネ。
それは、切れ長二重の鋭さを少し和らげて見せてくれて…
「カッコいいですね…メガネ」
「は…?」
「いえ…っ!なんでもないです!目、目が辛いのは、私のせいですか?」
カッコいいなんて、素直な感想を言ってどうする…
焦って赤くなる私に、容赦ない返事が降ってきた。
「そうです。赤くなるのは君のせいです」
どうして私のせいになるのかわからないけど…何か悪いことしたなら、謝った方がいいのかな…
「なんか、すいません…」
「…謝るくらいなら、ベッドで寝てください」
「そ、それはだから…暑いので、こっちで…」
「1人で悠々と寝ちゃうと、ベッドに戻ってきたとき距離感忘れて押しつぶしちゃいますよ?」
「いえ…これからはもう…」
言いかけて、ふと見た裕也専務の真剣な顔に焦って口をつぐんだ。
「…行きましょう、寝ますよ」
「…ダメです!…今日だけは、ダメです…」
真奈さんと過去に何があったのか、どんな関係だったのか、恋人だったのか…自分でも驚くほど気にしてることに気づいてしまった。
ヤキモチを妬いてるのは私だ。
真っ黒に焦げた思いを抱いて、裕也専務の隣で眠れない…
「…ふん。じゃ、明日からはベッドで眠りますね?俺の隣で」
「あ…」
今日だけはダメって…そういう風に取ったのか。
「明日は明日の風が吹くです…!」
そう言って、大きな大きなバスタオルで自分をくるみ、ラグの上に横になった。
「…は?!頑固娘が…!」
裕也専務はリビングの電気とフットライトを消して、寝室に行くらしい。
「あ!フットライトはそのままでお願いします…」
2年前から暗闇は大の苦手だった。
裕也専務は一瞬私を見て言った。
「なんかあったら寝室に来なさい」
はい…という小さな返事をして、寝室のドアが閉まる音がする。
ふぅ…っとため息をついて、薄暗いリビングの天井を眺める。
視線を横に映すと、ガラステーブルに裕也専務のメガネが置いてあることに気づく。
こんなところに置いて…ベッドで携帯見れないんじゃないかな…
そう思ったそばから、まぶたに疲れが重くのしかかり…意識が遠のいていくのを感じていた。
……………………
………………………
翌朝目が覚めると、裕也専務が私のそばに座って顔をのぞき込んでいた。
「…起きました?」
昨日と同じメガネをかけている。
「3割増で、カッコいいです…」
素直に言ってしまったのは、寝ぼけてたから…
裕也専務は何度かまばたきを繰り返して、ゴホン…と1つ、咳払いをして言った。
「メガネを掛けると、間抜けな寝顔がよく見えます。…君もよく、私の寝顔を見てるでしょう?」
「そ、それは、すごく綺麗だから…つい目が奪われちゃうっていうか…」
間抜けと言われてうっかりスルーして、褒め言葉で返しちゃうなんて…なんたることっ!
…そしてふと…気づいた。
「あの…裕也専務、お着替え早くないですか?」
すでにスリーピースを着て、今すぐ出勤できそうなんだけど…
「早くないですよ。あと10分ほどで早井さんが到着する時間ですしね?」
「10…ぷん?」
いやぁ〜っ…!と、変な叫び声をあげて、私はラグから飛び起きた!
裕也専務の専属秘書になり、毎朝専用車で一緒に出勤、退勤を命じられている。
…専用車に乗らなければ遅刻とみなされると、言われていた…!
「…なんで起こしてくれないんですか?ひどいです!ひどすぎます!」
慌てて顔を洗ってファンデーションをはたいて…スーツに着替えてストッキングを履いて…
「あっ!髪…!」
短くしてから、1つにまとめて終わりで済んでいたロングヘアが、どれほど楽だったかを思い知らされる。
緩やかなウェーブを維持するため、ワックスをつけて、サイドの髪を耳にかけて…
「前髪も、こう…斜めにしないんですか?」
「…しますっっ!」
いつの間にか裕也専務も洗面室に来て、私の支度をニヤニヤしながら眺めてる。
「大丈夫ですよ。まだあと、20分くらいありますから」
「え?…さっきあと10分って…」
「慌てさせたらどうなるのか…見たかったので」
「…はぁ?!」
洗面室の鏡越し。
おかしそうに笑う裕也専務を睨みつけると、視線がメイクパレットに注がれたのがわかった。
「色を乗せなさいって言われてましたよね?星野さんに…」
初めて専務役員室に行って、専属秘書になった日のことだ。
「ボルドー色の口紅、綺麗でした」
裕也専務はパレットを奪い、自分の小指にボルドー色のリップをとって、いつかの星野さんのように、私の唇に乗せてくれた。
「頬にも少し入れたら…?」
ポンポン…と色を乗せられるたび、唇に、頬に…触れる手を意識して、自然に発色していくのがわかる。
「あれ?赤くなりましたね?」
笑われて…恥ずかしくなる…
「も、もういいです…」
「まだ、終わってません…」
下を向こうとしたのに、瞬間的に頬を両手で挟まれて…
ボルドーに塗り終えたはずの唇が、親指でなぞられる。
唇がおりてきて、柔らかく触れたのは…完全に想定外。