上着が温かくて、ほのかにいい匂いがする…
裕也専務愛用の、スパイシーな柑橘系の香水。
甘さのないすっきりした香りは、クールでサディストで意地悪で変人の裕也専務にとてもよく似合う…
私はそのまま眠ってしまったらしい。
どれくらい時間が過ぎたのか…
ガチャッとドアを開ける遠慮のない音で目が覚めた。
「…やだ!秘書さんがどうして寝てるの?」
甲高い声に聞き覚えがあった。
目を開けると、真奈さんが呆れた顔で見下ろしている。
「…あ、あの…私、ちょっと具合が悪くて」
慌てて起き上がったのがよくなかったのか、まだ少しめまいがする。
真奈さんはまるで自分の部屋のように入ってきて、執務室の椅子に勝手に座り、クルリと回転した。
「あなた秘書なら知ってるわよね?…午後から裕也と、ランチミーティングなの。個室のフレンチ、押さえてくれない?」
「はい…でも、裕也専務に確認しませんと、勝手に予約を取るわけには参りませんので」
ソファに置いた裕也専務の上着を持ち上げると、それを目ざとく見つけた真奈さん。
「…裕也の上着じゃない。貸しなさいよ」
椅子から立ち上がり、手を伸ばしてきた。
その言い方はまるで、自分の夫の物を取り返すような言い方…
それに、この前マンションに来た時とずいぶん感じが違う。
私は婚約者として紹介されたはずなのに、この扱いはまるで『ただの秘書』
まぁ…実際そうだから仕方ないけど…私はとっさに、真奈さんにだけはこの上着を渡したくないと、思ってしまった。
「…何やってるの?早くこっちによこせって言ってるのよ」
イラついた様子の真奈さんが、上着に手をかけたその時だ。
執務室のドアが開いた。
「…どうして君がここにいる?」
裕也専務が厳しいまなざしで真奈さんを見た。
「お疲れさま!…ランチミーティングの場所をね…?どうしようかなぁって、相談しに来たのよ?」
真奈さんはパッと雰囲気を変えて、裕也専務にニッコリ微笑みかけた。
さっきまでの剣幕や雰囲気と全然違う…
私は驚きを隠せず、目を見開いてその様子を見てしまう…
「部外者にはお引き取りいただくよう、ちゃんと伝えてください。片瀬さん」
目の前の真奈さんを無視して、私に視線が飛んでくるので、見開いた目をそのまま向けてしまう。
「はい…申し訳ありません」
裕也専務は私と目を合わせ、軽くうなずくと、真奈さんには目もくれず、デスクに座った。
「ランチミーティングの場所については、後ほど裕也専務に確認を取りまして、改めてご連絡いたします」
私はそう言って、ドアを開けた。
…お引き取りください、という意味。
「…なんで?なんで私のこと無視するの?」
裕也専務につかみかからんばかりの勢いで迫っていく真奈さん。
不満げに、バンッとデスクを叩いた。
「…星野さん!」
その場で星野さんを呼び、裕也専務はやっと真奈さんを見た。
「ここはわが社の重要な情報が集まる専務役員室です。社外の人が勝手に入ってきては困ると、先日強く抗議したはずですよ?吉成夫人?」
真奈さんは青ざめて、なんともいえない目で裕也専務を見ている。
…それは、どういう感情なんだろう。
元カレである裕也専務に突き放されて、寂しいの?
この前マンションに来た時も思った。真奈さんは裕也専務の気を引きたいみたいだ。
どうして?吉成さんと結婚したのに…
星野さんが真奈さんを促して、執務室の外へ出した。
裕也専務は小さくため息をつく。
「彼女は私の高校からの同級生だと知られていて、中に入るセキュリティが甘いんです。…改善するよう伝えたんですが」
「そう、なんですか」
「…めまいは良くなったんですか?…まだ顔色は戻っていないようですが?」
裕也専務の心配そうな視線が落ちてきて、私は上着を持っていたことを思い出した。
「もう大丈夫だと思います。申し訳ありませんでした。あの…上着も…ありがとうございました」
差し出した上着に目をやり、裕也専務は不思議なことを言い出した。
「…今日は着てたらいいじゃないですか」
「…へ?」
「俺の上着。…袖を通してもらっても構いませんよ?」
立ち上がり、ふわりと私に、上着をかける裕也専務。
当然…肩は大きく落ち、袖は指先よりずいぶん長い。
「…バカでかいですね…」
ふふ…っと笑い、腕を取って袖を折り曲げるので…
「ちょ…ちょっと、そんなことをしては、こんな高級な上着に対して失礼ですよっ?」
慌てて言うも、裕也専務はどこ吹く風。
「手が出ないと危ないでしょ?」と、何やら楽しげに両方の袖を折り返してしまった。
「あの…」
折り返される袖を見ながら、口をついて出てしまった。
「昨日、どうして帰ってきてくれなかったんですか?」
言ってから、「しまった…」と思う。何だか責めてるみたいな言い方だ。
別にどこに行こうがどこに泊まろうが、私に断る理由はないわけで…
「だ、誰と、どこにいようと、私には関係ないかもしれませんが…でも、裕也専務の作戦を成功させるには、あ…遊びもほどほどにした方がいいんじゃないでしょうか?」
「…遊び?」
ヤバ。遊びじゃないかも。
いやいや、契約期間中に本気の恋人作ってもらっちゃ困るでしょうよ…
「誰と、どこにいたかは…いずれきちんとした形でお話します」
意味深な言い方…。
「はい。よろしく、お願いします」
「それにしても…目が赤いですね」
…唐突に話が変わるんだな。
突っ込まれたくないのかな…と思ってしまう。
私としては、寝不足はバレたくない。
ましてや、玄関で寝落ちしたとか、絶対知られたくない…
そんなに帰りを待ちわびていたのかと思われそうで怖い。
それは正解に近いからなんだけど…
「俺が帰らなかったから…眠れませんでした?寂しくて」
「え…っと…」
そこで思い出した。
昨日吉成さんが来たこと。
「あの、裕也専務…昨日」
言おうとした瞬間、星野さんが顔を出す。
「沢田鉄工から、お電話が入っております」
「あぁ、繋いでくれ」
言いそびれてしまった…
でも、今日裕也専務は吉成さんとは約束がある。その時に、本人から直接聞くかもしれない。
私は呑気にもそう思って、昨日の一件を記憶の彼方に飛ばしてしまった。
それほど…
着せられた上着から漂う裕也専務の香りに、胸を高鳴らせていた。
裕也専務は、そんな私に気づきもしないでしょう。
自分の上着を着た私の姿を面白がって、携帯のカメラを向けてるけど。