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2章…第45話

上着が温かくて、ほのかにいい匂いがする…

裕也専務愛用の、スパイシーな柑橘系の香水。

甘さのないすっきりした香りは、クールでサディストで意地悪で変人の裕也専務にとてもよく似合う…


私はそのまま眠ってしまったらしい。




どれくらい時間が過ぎたのか…

ガチャッとドアを開ける遠慮のない音で目が覚めた。




「…やだ!秘書さんがどうして寝てるの?」


甲高い声に聞き覚えがあった。

目を開けると、真奈さんが呆れた顔で見下ろしている。


「…あ、あの…私、ちょっと具合が悪くて」


慌てて起き上がったのがよくなかったのか、まだ少しめまいがする。



真奈さんはまるで自分の部屋のように入ってきて、執務室の椅子に勝手に座り、クルリと回転した。



「あなた秘書なら知ってるわよね?…午後から裕也と、ランチミーティングなの。個室のフレンチ、押さえてくれない?」


「はい…でも、裕也専務に確認しませんと、勝手に予約を取るわけには参りませんので」


ソファに置いた裕也専務の上着を持ち上げると、それを目ざとく見つけた真奈さん。



「…裕也の上着じゃない。貸しなさいよ」


椅子から立ち上がり、手を伸ばしてきた。


その言い方はまるで、自分の夫の物を取り返すような言い方…

それに、この前マンションに来た時とずいぶん感じが違う。


私は婚約者として紹介されたはずなのに、この扱いはまるで『ただの秘書』


まぁ…実際そうだから仕方ないけど…私はとっさに、真奈さんにだけはこの上着を渡したくないと、思ってしまった。



「…何やってるの?早くこっちによこせって言ってるのよ」


イラついた様子の真奈さんが、上着に手をかけたその時だ。


執務室のドアが開いた。



「…どうして君がここにいる?」


裕也専務が厳しいまなざしで真奈さんを見た。



「お疲れさま!…ランチミーティングの場所をね…?どうしようかなぁって、相談しに来たのよ?」


真奈さんはパッと雰囲気を変えて、裕也専務にニッコリ微笑みかけた。


さっきまでの剣幕や雰囲気と全然違う…


私は驚きを隠せず、目を見開いてその様子を見てしまう…



「部外者にはお引き取りいただくよう、ちゃんと伝えてください。片瀬さん」


目の前の真奈さんを無視して、私に視線が飛んでくるので、見開いた目をそのまま向けてしまう。


「はい…申し訳ありません」


裕也専務は私と目を合わせ、軽くうなずくと、真奈さんには目もくれず、デスクに座った。



「ランチミーティングの場所については、後ほど裕也専務に確認を取りまして、改めてご連絡いたします」


私はそう言って、ドアを開けた。

…お引き取りください、という意味。



「…なんで?なんで私のこと無視するの?」


裕也専務につかみかからんばかりの勢いで迫っていく真奈さん。


不満げに、バンッとデスクを叩いた。



「…星野さん!」


その場で星野さんを呼び、裕也専務はやっと真奈さんを見た。



「ここはわが社の重要な情報が集まる専務役員室です。社外の人が勝手に入ってきては困ると、先日強く抗議したはずですよ?吉成夫人?」


真奈さんは青ざめて、なんともいえない目で裕也専務を見ている。

…それは、どういう感情なんだろう。


元カレである裕也専務に突き放されて、寂しいの?

この前マンションに来た時も思った。真奈さんは裕也専務の気を引きたいみたいだ。


どうして?吉成さんと結婚したのに…



星野さんが真奈さんを促して、執務室の外へ出した。


裕也専務は小さくため息をつく。



「彼女は私の高校からの同級生だと知られていて、中に入るセキュリティが甘いんです。…改善するよう伝えたんですが」


「そう、なんですか」


「…めまいは良くなったんですか?…まだ顔色は戻っていないようですが?」


裕也専務の心配そうな視線が落ちてきて、私は上着を持っていたことを思い出した。


「もう大丈夫だと思います。申し訳ありませんでした。あの…上着も…ありがとうございました」


差し出した上着に目をやり、裕也専務は不思議なことを言い出した。



「…今日は着てたらいいじゃないですか」


「…へ?」


「俺の上着。…袖を通してもらっても構いませんよ?」


立ち上がり、ふわりと私に、上着をかける裕也専務。

当然…肩は大きく落ち、袖は指先よりずいぶん長い。



「…バカでかいですね…」


ふふ…っと笑い、腕を取って袖を折り曲げるので…


「ちょ…ちょっと、そんなことをしては、こんな高級な上着に対して失礼ですよっ?」


慌てて言うも、裕也専務はどこ吹く風。


「手が出ないと危ないでしょ?」と、何やら楽しげに両方の袖を折り返してしまった。



「あの…」


折り返される袖を見ながら、口をついて出てしまった。



「昨日、どうして帰ってきてくれなかったんですか?」


言ってから、「しまった…」と思う。何だか責めてるみたいな言い方だ。


別にどこに行こうがどこに泊まろうが、私に断る理由はないわけで…



「だ、誰と、どこにいようと、私には関係ないかもしれませんが…でも、裕也専務の作戦を成功させるには、あ…遊びもほどほどにした方がいいんじゃないでしょうか?」


「…遊び?」


ヤバ。遊びじゃないかも。

いやいや、契約期間中に本気の恋人作ってもらっちゃ困るでしょうよ…



「誰と、どこにいたかは…いずれきちんとした形でお話します」


意味深な言い方…。



「はい。よろしく、お願いします」


「それにしても…目が赤いですね」


…唐突に話が変わるんだな。

突っ込まれたくないのかな…と思ってしまう。


私としては、寝不足はバレたくない。


ましてや、玄関で寝落ちしたとか、絶対知られたくない…

そんなに帰りを待ちわびていたのかと思われそうで怖い。


それは正解に近いからなんだけど…



「俺が帰らなかったから…眠れませんでした?寂しくて」


「え…っと…」


そこで思い出した。

昨日吉成さんが来たこと。


「あの、裕也専務…昨日」


言おうとした瞬間、星野さんが顔を出す。


「沢田鉄工から、お電話が入っております」


「あぁ、繋いでくれ」


言いそびれてしまった…


でも、今日裕也専務は吉成さんとは約束がある。その時に、本人から直接聞くかもしれない。


私は呑気にもそう思って、昨日の一件を記憶の彼方に飛ばしてしまった。


それほど…


着せられた上着から漂う裕也専務の香りに、胸を高鳴らせていた。


裕也専務は、そんな私に気づきもしないでしょう。


自分の上着を着た私の姿を面白がって、携帯のカメラを向けてるけど。



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