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第51話

「昨日は約束を破って申し訳ない」


やって来たのは裕也専務だった。



「…どうしてここが?」


「少し前に美波さんに連絡をして場所を聞いたんです」


それでさっき美波は「裕也専務は絶対迎えに来る」と断言していたのか…。




「今まで、何をしていたんですか?」


こちらに背を向けているから顔は見えないけれど、聖の声はいつになく低い気がする。



「…アクシデントに、見舞われていました」


手元に携帯がなく、連絡できなかったという。


聖に隠れて、裕也専務の姿が見えない。でもその声は、いつもより元気がない気がする…


私は身動きひとつ取れず、立ち尽くしていた。


昨日は裕也専務の上着を着てくすぐったい気持ちになっていたのに、今はこんなに張りつめた気持ちを抱えてるなんて…不思議。



「舞楽は…?」


聖の背中越しに視線を泳がせた裕也専務は、そこにいる私をすぐにとらえた。

そしてハッキリわかるほど…ホッとした顔になる。



「すまなかった…俺の友人が、君にひどいことを…」


裕也専務は断りもせず部屋にあがって、私に一直線に近づいてきた。


聖にもだけど、自分に非がある時、裕也専務はすぐに認めて謝罪できる人だ。


意地悪でサディストで変人だけど、そういうところは、素直だと思う。



伸ばされた裕也専務の手は、簡単に私の肩に届く。跳ね返すことなんてできなくて、そのまま抱きしめられた。


しっかりした胸に頬を寄せて、その体温に胸が高鳴る。


…安心する。裕也専務の腕の中は…いつだって私に安心をもたらした。

高鳴る鼓動さえ、心地良い。


…ただ、香りがちがった。


女物の香水。

真奈さんから漂う香りと似てる…


それにスーツが、昨日私に着せてくれたものと同じ…


帰っていない…?

また、どこかに泊まったの…?





「よかったね…とでも、言うと思います?」


聖が近づいてきて、裕也専務がゆっくり私を離し…視線を向ける顔を見て驚いた。


いつも以上に鋭い眼差し。

うっすらヒゲが伸びて、目の下には薄くクマができてる…


髪も乱れているように見えた。



「何を言われても、仕方ないと思っています。隠していた事に、変わりはない」


裕也専務は私に向き直り、おでこや頬に触れた。首筋や手足にも目をやって…それはどこか、怪我らしいものがないか、確認しているようだ。



「昨日、吉成が部屋に上がり込んでいたんですね」


視線を下げた裕也専務。

私はとっさにその目線を見上げた。



「実は、マンションに戻ったのは今日の午後になってからだったんです。誰もいなくて焦りましたよ…吉成がマンションにいた事は、部屋の様子でわかりましたけど」


「部屋の様子、とは?」


聖が腕組みをして、裕也専務の前に立ち、厳しい視線を向けた。


対する裕也専務は、スラックスのポケットに手を入れ、片手で髪をかき上げている。



「吉成の腕時計が転がってたんですよ。舞楽がいないので、奴に連れて行かれたのかと、慌てて吉成の家に行きました」


そこに私がいないとわかって…吉成さんに、聖という男に連れて行かれたと聞いたという。



「そこで、先に奴と話をつけることにしたんです。君と一緒なら、舞楽は安全だと思ったので」



どんな話をつけたかを説明する前に…と、改めて私を見て、聖を見つめる裕也専務。



「昨日、するはずだった話をします」


裕也専務はそう言って、その場に座り込んでしまった。



「だ、大丈夫ですか?」


その姿はらしくなく弱々しくて、私は思わずその手を握ってしまった。



「大丈夫。昨日、ひどい目にあいまして」


握った手を握り返され、ふと片方の眉を上げ、顔をのぞき込まれた。



「…やたら手が熱いようですが?」


「あ、あの…実は昨日、体調を崩していたようで、それで少し、熱を…」




「あなたのせいで、舞楽は高熱を出したんですよ?」


聖が私の言葉尻を取ってきっぱり言った。



「…舞楽は子供の頃から、精神的なストレスで高熱を出す体質なんです」


裕也専務はふと視線を下げた。



「そう…ですか。よく知ってるんですね?舞楽のことを」


「そりゃあ…ずっと見てきましたから。ずっと、愛おしく見てきたんですよ。舞楽のことを」


聖の真っ直ぐな視線を、裕也専務が受け止め、ふと…つながれた手の力が緩んだ。


私も力が抜けて…あっさり温もりが離れていくのは、とても悲しい気持ちになる。



「一昨日の夜、君が見たという、ホテルから出てきたカップルの男は、確かに私です」


聖は裕也専務を厳しい視線で見つめる。



「それで…一緒にいた女は、吉成さんの奥さんの、真奈さんですか?」


張りつめる空気…


ずっと考えていたこと…

答えを、聞くのが怖い…


嫌な音を立てる心臓をなだめながら、私は裕也専務の答えを待った。




「そうです。あの夜、一緒にいたのは、真奈です」



パリン…と、何かが音を立てて壊れた気がした。


それは…例えて言うなら、薄くて繊細な、ガラス細工みたいな恋心。


裕也専務は真奈さんのことが好きだったのに、吉成さんと結婚してしまって、それでも好きだという気持ちを捨てきれなかった。


だから、結婚してからも、会い続けていたの…?



「私と真奈は、不倫関係に陥ってました」



割れてしまったガラス細工の破片が、心に突き刺さって、ポタポタと血が流れるような痛みが広がった…



「…それは、現在進行形の話ですか?今も、真奈さんのことが好きで、今も不倫関係で…だから一昨日、帰って来なかったんですか…」


「…それは、」


「私を偽装婚約者に仕立てたのは、真奈さんに似てたからですか…一緒に暮らすことをOKしたのも、ベッドで抱きしめてくれたのもキスも…全部、全部…私は真奈さんの代わりだった…」


涙が溢れた…


自分が惨めで、どうしようもなく悲しくて…


これまでに流した涙と、今溢れてくる涙は…全然違う。


なぜか、それだけはハッキリわかった。


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