目の前で涙を見せる舞楽。
頬に手を伸ばすと、ビクっとして睨みつけられたが、滑らかな頬に伝う涙を放ってはおけなかった。
聖がいなければ、キスで涙を拭っていたかもしれない…
まだすべてを話していないうちに、そんなことをするのはさすがにまずいだろうと、グッとこらえる。
「さ…触らないでください…」
強いまなざしで、キッパリ言う舞楽を見て、俺の加虐心が疼く。
背筋がゾクッとして、喉が上下してしまう。
この子は…いつもそうだ。
俺の話を全部聞き終える前に自分なりに答えを出して納得して…苦しむ。
俺のことで苦しんでいる…
可愛そうだと思うのに、あぁ…愛おしい。
そんな気持ちが湧き上がる。
「わかった…今は、触らない」
立ち上がり、俺は玄関に向かった。
「明日、改めて迎えに来ます。今後の事も含め、2人で話したい」
「…なんの話があるって言うんですか?友人の奥さんと不倫するような男に、舞楽を渡せるはずないでしょう?」
「俺は、舞楽と2人で話したいと言っている」
聖が口を挟んでくるのは想定内。
本当なら、このまま連れて帰りたいが…
「どうしても嫌なら、明日、舞楽が断って」
睨みつけていたまなざしが緩んだのがわかった。
心が揺れている…
そう思った俺は、さらに言葉を続ける。
「話は、全部終わっていないから」
なるべく優しく言おうと思ったが、意識しなくてもそうなった。
見つめる視線を…外したくない。
ゆっくり玄関を出たところで、舞楽の泣き声が聞こえた。
今夜、彼女は俺のことを思って泣き明かすかもしれない…
そう思うと、体の内側から愛しさが込み上げてくる。
…大丈夫。
聖は、俺のことで泣いている舞楽に指1本触れられない。
彼はそういう男だ。
後ろ髪引かれる思いで玄関を出て、気持ちをごまかすように、コンビニでタバコとライターを買った。
火をつけながら、取り戻したばかりの携帯で、星野さんに連絡を入れた。
「舞楽は無事だ。…聖が一緒にいるから、今夜は安全だろう。
…は?違う心配?…それ、今言うかね?」
人指し指と親指で、摘むようにして、唇からタバコを離した。
紫煙を吐きながら…しばらく星野さんの話を聞く。
いつものことながら、情報を収集する早さには頭が下がる。
そしてその情報が信用に足りるか、ちゃんとチェックして俺に渡すので、助かることこの上ない。
ありがとう…と言うと、星野さんは鼻で笑った。
「マンションの鍵は付け替えが完了してます。とりあえず今日は、ゆっくり風呂にでも入って寝てください。…寂しい1人寝でしょうが」
俺も鼻で笑って携帯を切る。
それにしても…疲れた。
まさか吉成が舞楽まで巻き込もうとしていたなんて、ゾッとする。
たまたま聖が行ったので事なきを得たが、もし行かなかったら…?
俺は自分を絶対に許さなかっただろう。
マンションのキーは確かに変わっていた。信頼できるコンシェルジュが、奥の金庫から新しいキーを渡してくれる。
今後は、舞楽にもカードキーに慣れてもらうことにしよう。
部屋の鍵は3つに増やし、当然、暗証番号も変えた。
風呂に湯を張りながら、さっき締め上げてきた吉成の顔を思い浮かべる。
「出来心だよ…舞楽ちゃん可愛いから、俺も1回くらい…いいと思ったんだよ」
お前らもよろしくやってるから…
吐き気がする。
俺が、どれほど悩んで苦しんできたか。
それでも、間違えたことは事実だ。
俺は既婚者となった真奈と、ホテルで何度か2人きりになった。
会うなんて、絶対にしてはいけないことなのに…
でも、あの頃の俺は気が動転して、ショックで…まともな判断ができなかった。
付き合っていた真奈から、突然吉成と結婚すると、伝えられたあの頃は。
「舞楽はまったく関係ない。どうして俺を、真奈を、責めなかったんだ?」
「舞楽ちゃんを壊すほうが、ずっと効果的だからだよ」
ニヤッと笑う吉成を、いつの間にか殴り飛ばしていた。
そのせいで…右の拳に少し傷が出来ているのがわかる。
上着を脱いで、ワイシャツの袖のボタンに手をかけ…そこに血がにじんでいることに気がついた。
長い時間、ナイロンのロープで縛られて、擦れて傷になったらしい。
…かつて愛した女は、いつの間にか、欲望の皮をかぶった醜い化け物になっていた。
バスルームに入ると…舞楽が持ち込んだアヒルのおもちゃに目がいく。
入浴剤は、彼女が好きだと言った、ベリーの香りを選ぶ。
…湯がミルキーピンクに色づいて、男がひとりで入るには若干気持ち悪いが。
大中小…と、同じ顔をしたアヒルが、ミルキーピンクの上に浮かぶ。
あちこち移動するのは、俺が動くからだ。
真奈も…大学の頃までは、こんな他愛もないものが好きだった。
高校で知り合った真奈。
真っ白なキャンバスみたいな子だと思った。
それが大学生になると、様々な色で描かれるようになり、どんどん綺麗になった。
ずっと、好きだった。
でも…同じ高校から大学に上がってきた吉成も、自分と同じような目で真奈を見ていると気づいて…
抜けがけするような真似は、出来なかった。
今から思えば、そこまで好きじゃなかったのかもしれない…とも思う。
でも当時は、騒がれるだけでまともに話ができる女子がいなかった俺にとって、真奈は特別だったんだ。
卒業して、吉成とも真奈とも疎遠になり、それぞれの道に進んだ。
同窓会で2人に再会したのは25歳の時。
…運命だと思った。
もう吉成に気を使わなくてもいいはずだと、俺は真奈と交際することになる。
うまくいっているはずだった。
誕生日とクリスマス、年末年始を2回ずつ、真奈と過ごした。
初めて体を重ねたのは、真奈からの誘い。処女…どころか、始終押されっぱなしで、愛の営みというよりスポーツ。
こんなもんか、と思ったのを覚えている。
真奈がどんな女だったか…と聞かれたら、すぐに言葉がでてこない。
時に自由奔放で、時に寂しがり屋で、時に…
いつも印象を塗り替える真奈に、魅力を感じていた。
ねだられれば何でも買ってやった。金で買えるものはすべて。
遠慮なく要求してくる真奈を可愛いとも思っていた。
好きだった。
…確信していた。この頃は。
いずれ結婚する…はずだった。
それなのに、仕事の合間を縫って会った日に、唐突に言われた言葉が忘れられない。
「私…結婚するの。吉成くんと」
レストランで食事をして、そのまま上の部屋に泊まった夜。
いつもの赤ワインを2人で1本開け、愛し合った後に、抱き寄せた俺に言い放った言葉。
「…吉成…?」
結婚という言葉と共に、吉成の名前が出てくる意味が、わからなかった。
「いろいろ混乱した中でも、吉成くんは仕事を成功させたんだって」
当時、正体不明の病が世に広がり、世界的なパンデミックとなった。
人々は家にこもり、必要のない外出を控え、その影響をわがSAIリゾートはモロに受けることになる。
国内、海外合わせ、すべてのホテルで赤字が続き、事業縮小を余儀なくされた。
対応に追われ、この頃の記憶は…あまりない。
そんな世の中で、吉成が立ち上げた外食事業は、宅配、デリバリーに目をつけ、グングン伸びたらしい。
「うちの親が、勝手にすすめてしまって…」
吉成との結婚を…そんな風に説明した真奈。
当時は、詳しく聞く余裕も、責める元気も無かった。
彼女に、愛されていなかった。
…俺は吉成に負けた。
仕事も、愛も。
いつか舞楽に話した、夜の首都高を飛ばして目を閉じてしまいたくなったのは、この頃のこと。
しばらくして、結婚式の招待状が届いたが…仕事を理由に辞退した。
それですべて終わったはずだった。
俺は、変わったけれど。
女性や恋愛事の認識が変わり、適当に遊ぶ関係ばかり。
心に渦巻くのは、正体不明の黒い感情だけ。
だから初めは信じられなかった。
舞楽のことも。
でも彼女は、ことごとく、俺の予想を裏切って見せた。